◎農村歌舞伎衣裳との出会い
農村歌舞伎(地歌舞伎)衣裳との出会いは、同じ太鼓台文化の解明に取組むT・O氏からの薦めで、ささやかな規模ではあったが各地農村歌舞伎の豪華な衣裳展を見学したことに始まる。年代物の装飾古刺繍としては、それまでに太鼓台に用いられてきた何ヶ所かの古刺繍を実見してきたが、展示されていた衣裳の古刺繍が太鼓台古刺繍と似ていることに、本当に驚かされた。その時、「時代的には、太鼓台よりも登場の早い地歌舞伎衣裳の古刺繍と、太鼓台に飾られた古刺繍とは、何らかの関連があるのではないか」ということを、気づかせてくれた。
公益財団法人福武財団の瀬戸内海文化・活動支援助成と、志を同じくする各地から馳せ参じていただいた大勢の皆さん(観音寺太鼓台研究グループ)の毎回の支援・共同作業により、香川県下の農村歌舞伎(香川町・農村歌舞伎祇園座2014/土庄町・小海自治会2015/小豆島町・中山農村歌舞伎2016=以上は活動助成にて実施/土庄町・肥土山農村歌舞伎2017=自費実施)の4カ所の歌舞伎衣裳の調査に取組むことができた。
なかなか経験することができないこの種の調査・撮影活動は、私たちにとっては大変意義深いものでした。「太鼓台の装飾刺繍発展の歴史を知りたい」と常々考えていたが、古い地歌舞伎衣裳の中から、「太鼓台古刺繍との酷似」が徐々に見つかり、古刺繍同士が次々とつながっていった。
しかし肝心の衣裳制作の年代については、比較的安価と思われる衣裳の一部には寄進者や年号記載があるものの、目的としていた刺繍入りの豪華な衣裳には、太鼓台の古刺繍同様、年代記載はほとんどお目にかかれなかった。ただ、太鼓台側の古刺繍との酷似部分の一致から、制作工房がほぼ確信を持って特定できたのは当初の見込みどおりであり、「双方の古刺繍はつながっている。制作工房は同じである」との一定の結論が得られた。勿論、今後の古刺繍探究にも大いに援用できると考えている。
◎古刺繡の制作工房や制作年が確認できない
衣裳側も太鼓台側も、遺されてきた古刺繍作品からの制作工房や制作年が確認できないのは、次のような理由があるからだと思う。
①上下関係の厳しかった徒弟制度の時代においても、作品制作は個人ひとりで出来上がったものではなく、工房全体で作り上げたとの意識が強かったのではなかろうか。同時に、職人魂が作品の表立った部分への署名を避けていた節がある。自信ある仕事は「出来上がったモノで判断して欲しい」との工房や職人側の自負があった。とにかく「宣伝と見られる行為を慎んでいた」、との観音寺での松里庵三代目・髙木一彦縫師からの聞き取りがある。
②私たちが比較しようとした刺繍入り衣裳や太鼓台の古刺繍は、当時としても高価なものであったため、一個人だけでの購入・寄付は恐らく適切ではなかったはず。地区総意の上での購入が好ましかった。従って、刺繡つき衣裳や太鼓台の装飾刺繍の購入記録が地区の記録にない場合には、長い年月が経過すれば、当然ながら制作工房・制作年の特定は困難となる。
③太鼓台古刺繍の場合、その保管箱に制作年等が記載されていることは普段によく見られる。しかし、その箱が古い先代のものであったりして、必ずしも箱と現在使用中の中身が一致するとは限らなかった。保管箱に書かれた年号等は、作品の年代特定には、そのまま鵜呑みすることはできない。
④太鼓台の古刺繍の場合には、各地間で中古品としての転売がかなり頻繁に見られた。このような場合には、古刺繍の作品に対する購入先の愛着といったものが薄くなっていて、制作年等の確定にも、より困難が伴う。
本稿では、酷似している地歌舞伎衣裳・太鼓台双方の古刺繍を下表「地芝居・太鼓台‥双方古刺繍酷似相関表」で示し、その内容を実際の作品画像で補強説明していきたい。古刺繍のどの部分の酷似なのか、判明している事象(制作年や制作工房及び関連作品)を説明しながら、双方古刺繍の不透明な歴史や関連性に迫ってみたい。
本表に名を連ねた古刺繍群は、主として北四国(主に香川・愛媛東予・徳島西部)において用いられてきた古刺繍であり、示した伝統文化及び項目別に、各地間で酷似が確認されているものである。ほとんどの古刺繍は長年の痛みや磨耗の結果、処分される等して遺されてこなかった現状があるものの、表のように例え僅かでもこの文化圏の「年代物の遺産」として遺してくれさえすれば、この種の比較作業を通じ、この地方の装飾刺繍の歴史解明に寄与できるものと期待している。なお私たちが本表を客観的に理解する上で、改めて留意しておきたいいくつかの点を以下に列記したい。
①地歌舞伎の刺繍衣裳と太鼓台の装飾刺繍は、「先行登場した衣裳、後追いの太鼓台刺繍」という構図にあること。江戸・大坂・京都の三都大芝居(大歌舞伎)が、宝暦期(1751-64)を境にして、それまでの歌舞伎から今日見る歌舞伎の様式に発展し、歌舞伎特有の刺繍の多用や切付(アブリケ)による文様構成が始まったものと考えられている。同時に地歌舞伎(農村歌舞伎)も盛んになったとされている。(菅居正史氏論考「歌舞伎衣裳展の周辺」‥『特別展 江戸デザインの爆発 歌舞伎衣裳』に所収、平成元年 奈良県立美術館刊)‥このことから、奇抜で豪華な歌舞伎衣裳は、18世紀後半頃から徐々に地方へも浸透して行ったのではないかと考えられている。
②太鼓台への装飾刺繍採用については、地歌舞伎衣裳への刺繍採用よりも更に新しい後年であると考えている。大坂の最も大型・豪華であったと目される太鼓台が『摂津名所図会』(寛政10年1798)に描かれているが、その五畳蒲団には線画的な表現が見られる。それは雨龍又は雲形の刺繍ではないかと想像される。幕には菊の紋があるが、刺繍というよりも染めや切付と見た方が適切ではないかと思われる。
『摂津名所図会』(寛政10年1798)の蒲団型太鼓台‥部分
③太鼓台等の奉納絵馬(絵画史料)が多く遺されてきた播州地方(中でも時代の早い加古川市神吉八幡神社の文政3年1820の2台の御先太鼓には、高欄掛や幕に刺繍らしき画像が認められる)や、北四国で刺繍の存在が記録されている(「西条花見日記」或いは『西条祭礼絵巻』・2012福原敏男・刊、共に1830年代)を眺めても、ほぼ19世紀初頭以前のものは確認されていない。太鼓台よりも先に登場した檀尻や屋台などでも、ごく簡素な装飾以外は、ほとんど見られなかったのではないだろうか。奢侈禁止の世情の中、祭礼に奉納された太鼓台もまた同様であったと思う。
神吉八幡神社の2台の御先太鼓(姫路市・S・K氏提供)‥文政3年‥(1820)
『西条祭礼絵巻』に描かれた御輿太皷(現在のみこし)
④四国の太鼓台は、別名「刺繍太鼓台」とも言われている。太鼓台の始期については、寛政元年(1789)に、伊予三島と大野原の記録がある。伊予三島には「神輿太皷扣覚帳」が伝えられているが、太鼓台(神輿太鼓と表記)の装飾に関しては記載がない。大野原にも神社祭礼に参加した記録が「御神事行烈入用覚帳」遺されているが、やはり装飾面での記載はない。また両地の記録に近い伊吹島では、〝文化2年(1805)大坂・永代濱〟の名が入れられた「蒲団枠保管箱」が伝承されている。中に遺されている蒲団枠の規模が現在の蒲団枠と比較しても大差がないため、この時代の『摂津名所図会』(1798)と同様、蒲団部や蒲団〆及び水引幕などに何らかの刺繍が施されていたのかも知れない。
伊吹島東部太鼓台・蒲団枠保管箱
⑤時代が下って明治維新近くになると、このエリア内の各地共、大坂との直接・間接の交渉により豪華を推し進めてくる。伊吹島下若(東部)には、安政3、4年(1856-57)の大坂・小橋屋(おばしや)の見積書が伝えられているが、大坂直結のそれによると、蒲団〆は黒天鵞絨蒲団〆として「模様龍上り下り龍」とある(468匁、東部太鼓台に遺されていた龍の蒲団〆はその当時のものだったのかも知れない)が、水引幕は「濱縮緬御水引幕・壱張」(128匁)と定紋を8個付けただけで他の刺繍等の存在は無い。このエリアでの古刺繍として確実に実見できたものとしては、三好市山城町大月に、安政5年(1858)の裏書がある「雲形刺繍」が遺されている。
伊吹島下若(東部太鼓台)の見積り図面と、当時のものと思われる蒲団〆
山城町大月の「雲形刺繍」‥安政5年(1858)の裏書がある。
⑥酷似が認められる本表の古刺繍群が、ある刺繍工房に集約されてくる。それは琴平に存在した刺繍工房「松里庵」である。この工房の確実な作品登場は、明治13年(1880)、山本町・大辻の昼提灯の制作においてである。松里庵製と思われる大辻以前の酷似・古刺繍が、広島県三原市幸崎能地、同県大崎下島大長や、まんのう町木ノ崎などで存在が明らかになっている。それらは、いずれも明治初期までの作品と思われる。
大辻の昼提灯・能地のふとんだんじり・大長の櫓(刺繍は後のもの)・木ノ崎太鼓台(掛蒲団が明治4年製)
⑦要するに、刺繍太鼓台として発展を極めている北四国において、明治13年以前の装飾刺繍の状況や工房の様子が想像の域を出ず、全く見えてこないのである。ある日突然、素晴しい出来栄えの大辻昼提灯が目の前に現れた訳では無かろうと思う。名も無き大勢の職人の日々の努力によって、今日の隆盛につながってきたはずである。今回の「酷似・指摘」作業を通して、少しでも「それ以前の解明」につながってくれると本当にありがたい。同時に、まだまだ陽の目を見ずに埋もれている「未知の古刺繍」にも遭遇したい。どんなに痛んでいようとも、遺していてくれさえすれば、それは「得がたい文化遺産」であり、歴史解明のかけがえのない存在となる。太鼓台文化の解明に心を寄せられている多くの皆様からの、貴重な古刺繍情報のご提供をお願いしたい。
(終)