太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

化粧回しの関連

2021年12月29日 | 研究

先に紹介した「西予市野村町シルク博物館」での乙亥相撲の化粧回し見学(草相撲「化粧回し」の遠隔地における酷似について)に関する関連情報です。

坂出市・内濱会館(坂出市白金町)にも、次のようなカタチで化粧回しが飾られていました。(※この化粧回しは、坂出市近郊で使われていたものではありません。明治時代の制作になるようです)

よく似ている乙亥相撲の化粧回しを参考添付します。(※明治22年~23年に制作されています)

これらの化粧回しの間には、果たしてどのような関連やドラマが潜んでいるのでしょうか?

いずれ、太鼓台・古刺繡及び地歌舞伎衣裳の古刺繍との関連において、制作地・制作工房等について、ぜひとも解明したいと考えています。

(終)

 

 

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伝統文化としての〝太鼓台文化の立ち位置〟を考える。

2021年12月15日 | 研究

太鼓台文化とは、一体どのような存在なのか?

このほど、ある講座の発表資料を作成していた折に、忘れかけた5年ほど前の話題がふと思い起こされた。それは、「ユネスコ無形文化遺産登録」に関してのものであった。2016年12月に「国指定重要無形民俗文化財〝山・鉾・屋台行事〟」33件が、ユネスコ無形文化遺産に登録されたことが新聞で報じられていた。私はその記事を読んで、登録された各地と、太鼓台文化を伝承してきた各地に対する、主としてその扱いの差について忸怩(じくじ)たる思いを感じた。

私は、太鼓台分布地を表した略地図と比較するため、これら33件の所在地を白地図上に表示してみた(上の最初の図)。その結果、民俗学的には〝山〟にも分類されている〝太鼓台〟が数多く分布・伝承されている〝西日本の瀬戸内海周辺地域には、登録地が皆無〟であったという、思いがけない結果が判明した。勿論、「ユネスコ無形文化遺産」というネームバリューやお墨付きが、今後の33カ所の登録地で、その伝統文化を支えていく上で如何ほどの効用があるのかどうかは、何とも言えない。ただ少なくとも、肩書的には、〝世間からも、世界からも広く認められた日本の伝統文化である〟との評価を受け、各地方でもその評価に沿った運営や文化材的配慮が為され、超高齢化と若年層の減少が際立きつつあるこれからの時代、担い手不足に苦慮している太鼓台文化圏などに比し、少なくとも〝伝統文化の廃絶〟という悪夢からは解き放たれたのではないかと、うらやましくも感じた。

「批判の矛先は、選定の専門家へ」は、正しい判断か

確かに、33の登録指定地のそれぞれの伝統文化は、一つ一つが著名であり、由緒正しく、説得力のある歴史解明や個々それぞれの学術的解明が為されているように思う。しかしながらその当時の私は、〝何かが抜け落ちているのではないか〟と思わざるを得なかった。そう、〝太鼓台文化が抜けている、無視されている〟とは言わないまでも、それに近い感情を抱いたことは間違いない。「太鼓台文化の体験人口は2,300万人なんだぞ」(体験人口とは、実際の関係者も含め、太鼓台所在地の近郊に居住し、実際には参加したり体験はしなくても、見たり聞いたりして太鼓台そのものの形態や運行の様子が理解できる人々も含む)と公言して憚らない私は、件の無形文化遺産登録に際しての、太鼓台文化に対する低評価、即ち〝推薦に携わった専門家の方々の、その扱いの偏り加減〟に懸念を投げかけていたのである。

「太鼓台文化は〝なぜ、低評価しか受けないのだろう?〟か」ということを、当時かなり憤慨した気持ちで、なぐり書き的にノートにメモしていた。それが下図・半分の〝分析内容〟である。それを読むと驚いたことに、憤慨の矛先は推薦に携わった専門家の側に向かっていたのではなく、自分たち文化圏側に向かっていたのである。これまでの歴史解明しかり、何ら解明に努力の形跡が認められないことしかり、文化圏としてのまとまりもなく、文化の全体像さえ不明のままではないか。これでは誰しも、推薦など出来るわけがない。改めて読み直すと、太鼓台文化の将来にお寒い危機感さえ覚えていたのである。

太鼓台文化圏側の歴史解明等の努力不足は間違いなく存在する。またこれまで、文化圏各地に散らばる個々の太鼓台を系統立て、或いは関連付けて論じることもそれほどされずに、結果としてこの文化の全体像さえ未解明のままであることも、ほぼ事実である。その反面、「これほど広範囲な単一文化圏が、これまで、なぜ日の目を見ることもなく、文明発展社会の日本において、今日まで放置・捨て置かれてきたのだろうか」との、やるせない疑問もある。

太鼓台文化圏の英知を、一念奮発、発揮できないか

それではと一念発起し、太鼓台文化が中央からも〝未解明・未消化〟に打ち過ごされてきた原因について、自分なりに考えてみた。自分の住む四国・瀬戸内沿岸地方での太鼓台が、ちょうど幕藩体制(近世)から明治新政府(近代)に転換しょうとした時代に、新たに誕生したり、それまでと比べ大型に変化・発展してきた客観事実があったことから、他の先行する伝統文化に比べると、明らかに後発の文化であったことを納得せざるを得なかった。また、文化圏の他地方に伝承されている絵画史料や発展途上の比較的小型の太鼓台の存在を知ると、太鼓台が必ずしも現在の様に巨大・豪華なカタチではなく、比較的小型・簡素なものが多数を占めていたのも客観的な事実であり、由緒ある他の伝統文化のように〝太鼓台が伝統文化である〟との広範な認識に至らなかった。従って、各地に散らばっていた太鼓台は、今日の豪華なものには程遠いまだまだ簡素な太鼓台が主流を占めていたため、中央の話題にも上ることはなく、遠隔地の些細な文化であるとの認識しかされなかったものと思われる。以上のような文化的状況では、今日いくら巨大化し豪華を極めた太鼓台文化も、学術的探求をされることも少なく、研究者も少なかったものと思われる。

いずれにせよ、現状における〝太鼓台文化の立ち位置〟は、以上の如く著名な一握りの伝統文化に比し、かなり低いものであるのは間違いない。少なくとも国家レベルや国際レベルでの後ろ盾は、「現状では期待できない」と認識するべきである。その上で、太鼓台文化圏の私たちは、人口減少や超高齢化と超少子化の厳しい伝統文化の伝承環境に、知恵を出し合い一丸となって立ち向かっていかなければならない。私たちの太鼓台文化に向かい合う本気度が、今後ますます試され、重要となってくるに違いない。

(終)

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蒲団〆の幅広化について(2)

2021年12月14日 | 研究

蒲団〆の幅をはみ出した幅広の蒲団〆は、どのような状況の下、登場したのだろうか。

前回(1)から続く。

やがて剛性の備わった蒲団部を3畳・5畳・7畳と高く積み重ねられたカタチの蒲団型太鼓台が、造り替えられる毎に〝上にも横にも大型化し、それまでの柔らかい蒲団部を積んだ太鼓台はおろか各種形態の太鼓台をも駆逐し、名実ともに太鼓台文化圏の主役として各地を席巻するようになる。前回(1)で述べたように、見物人の目に最もつき易い斜めの蒲団部4面は、格好の装飾の場となってくる。言わば、多くの刺繍職人の腕の見せ所〟として、蒲団部の周囲4面が位置付けられてくる。そうなると、それまで蒲団〆の幅の範囲で装飾されていた幅狭・簡素な刺繍等は、〝〆(締)るから〝飾る〟という目的へと大きく転換し、4本の長い帯状の蒲団〆は分断され、4面×2の8筋の〝装飾のみが目的〟の幅広い刺繍へと変化・発展していく。このような、剛性の備わった蒲団枠の登場と蒲団〆を飾る部位(蒲団部の各4面)の広がりが、現在の帯幅の外側に張り出した装飾重視の蒲団〆となっていったものと想像できる。

それでは具体的に、今日的幅広の蒲団〆へは、⑴いつ頃、⑵どこで、どのような具体的状況の下で変化し、採用されていったのだろうか。幅広の蒲団〆採用に至った経緯について、以下のような拙い自論で概説したい。

前述の⑴~⑶を解明し、客観的に証明・結論づけることは、我田引水の根強い太鼓台文化圏の現状においては、相当に困難であると考えている。それならば、自分が実見してきた範囲内で、自信を持って発信できることを述べてみたい。まずは蒲団〆が幅広に変化・発展する〝予兆〟があったのではないか、という点の探索を試みた。その試みの中から〝蒲団〆の図柄はどういうもので、その表現の変化はどうであったか〟を探っていった。蒲団〆に採用されている図柄には圧倒して龍が多い。この龍が、蒲団〆に巻き付くようにして縫われていることが、現在でも多く見られる。それが当初では、帯幅内でくねくねと表現されていたが、いつの頃からか、僅かながら蒲団〆(帯)に巻き付くようにはみ出した表現の龍・蒲団〆が登場してくる。〝龍刺繍の帯への巻き付き〟が、幅広の蒲団〆となる予兆の第一と考えている。

下画像は、龍の刺繍が帯幅内にあしらわれている蒲団〆である。最初の画像は寛政10年1798)の大坂・難波神社の太鼓台で、蒲団部一面に刺繍らしきがあしらわれていて、当時の最も豪華な部類の太鼓台であったと考えられる。(『摂津名所図会 』)この蒲団〆に〝雨龍らしき〟刺繍が確認できる。前回「蒲団〆の幅広化について(1)」で紹介した保内町磯崎の四つ太鼓の蒲団〆に近い。次の画像は1830年頃の西条祭に登場した〝みこし〟であるが、こちらにも龍らしきが帯の幅内に刺繍されている。ただ残念ながら、蒲団天部の描写からは、蒲団〆が長いものなのか8面に分解されたものなのかは、判断が尽きにくい。いずれにしてもこれらの絵画史料から、18世紀末頃から19世紀前半にかけて、蒲団型太鼓台が既に剛性を持つ枠型に変化・発展していたことが客観事実として理解できるのではないかと思う。同時に、蒲団〆の帯幅内での刺繍であったことが推測できると思う。

やがて太鼓台の規模や装飾は、造り替えられていく毎に、大きくなり豪華さを増していく。その過程で、蒲団〆も最初の帯幅内から徐々にはみ出し、やがて蒲団部を覆いつくすような巨大な現代のものへと変化・発展していった。以下の画像では、香川県まんのう町・大向太鼓台(1枚)・観音寺市・本若太鼓台(3枚)・三原市幸崎町能地・ふとんだんじり(1枚)・虎の蒲団〆(1枚、大は観音寺市・上若太鼓台、小は三好市池田町・中西太鼓台)・観音寺市伊吹島・東部太鼓台(2枚)・三豊市詫間町・箱浦屋台(2枚)・三豊市高瀬町・下麻太鼓台(1枚)・西条市・下喜多川みこし古写真(1枚、明治末期頃、西条市・S.H氏提供)の各太鼓台を、時代を追って紹介したい。

大向と本若の蒲団〆は、共に龍虎の図柄である。大向の蒲団〆の制作年代は不明。本若は、明治12年(1879)-明治43年(1910、3枚目の画像。三豊市豊中町・福岡太鼓台)-昭和9年1934)と続いて同じ図柄を採用していて、その発展過程の詳細が分かる。能地は、大崎下島・大長を経由した旧・新居浜の太鼓台であるが、龍蒲団〆に限っては、大正末年頃には既に古物であった香川県豊浜町辺から伝来したものである。従って、制作年代的には明治中頃以前にまで遡れるものと思う。虎の蒲団〆については、明治6年(1873)に創始した上若の代名詞的存在であるが、もしかすればこの二つの蒲団〆は時代を越えて再会・対面したものかも知れない。伊吹島・東部には文化2年(1805)の蒲団枠保管箱が現存しているが、図面は幕末期の見積り粗図面で、蒲団〆は古いが長い帯状のものが現存している。箱浦は、明治8年(1875)に始まる〝西讃・東予地方における明治期の基準太鼓台〟である。草創期太鼓台に飾られていた蒲団〆と、明治41年(1908)に拵え替えた幅広の蒲団〆である。下麻は、地元の古老2人からの聞き取りから、明治10年(1877)頃に三豊市仁尾町から中古を購入してきたことが分かっている。蒲団〆は、古老たちの若い頃と変わっていないことも証言を得ている。最後の西条みこし(西条市 S・H氏提供)は、明治末期頃の写真である由。以上が主として龍(一部に虎あり)にまつわる変化・発展の予兆である。時代の新しい何れもが、古い時代のものに比べ、帯幅をはみ出ていることが分かる。

       

そしてもう一つの予兆としては、観音寺琴弾八幡宮奉納の奇数号太鼓台の大きな特徴である〝扇咲競(おおぎ・さっきよう)〟と俗に言われている蒲団〆の登場が、龍蒲団〆と同様な予兆ではないかと考えている。この扇咲競の蒲団〆は、中国・清涼山の石橋(しゃっきょう)に因んだ文殊の化身ともされる唐獅子を表し、上下に配された2枚の扇はその口である。その下には咲き誇る牡丹があしらわれ、更に最下部には、蒲団部を縦に大きくはみ出すように長めの糸(これは獅子の毛並みを示す)が垂れている。太鼓台が勇ましく狂い舞えば、獅子の毛並みが大きく波打ち荒々しさが増す、そのような仕掛けである。蒲団〆では、扇の2枚及び牡丹とその葉が、僅かながら帯幅をはみ出すように刺繍されている。(長く垂れた糸部分も、帯の横へではなく縦にはみ出すカタチで、蒲団〆そのものをより大きく見せる仕掛けが感じられる)このような、外にはみ出すデザインの先駆け的存在が扇咲競と呼ばれている蒲団〆ではないかと考えた。

 

上記の扇咲競(実は「石橋」しゃっきょう・さっきょう)は、琴平に工房を構えていた〝松里庵・髙木家〟が編み出した図柄である。そもそも〝石橋物〟と呼ばれる歌舞伎舞踊の演目にある〝扇獅子〟からの着想であったと考えられる。大火のあった天保9年(1838)の時点で、髙木家は幕末の常舞台・金丸座(天保7年創建の我国最古の芝居小屋)の直ぐ近くに居を構えていたことが、先学の研究等から判明している。初代と目される嘉永5年(1852)生まれの髙木定七師は、明治23年(1890)頃、東予や西讃地方の太鼓台隆盛に伴い、海上交通の便の良かった観音寺へ工房拠点を移している。(この工房の移転時期に関しては、明治35年頃とする説もあるが、私自身の確かな聞取り取材等から、明治23年頃で間違いないものと考えている)常設の芝居小屋の直ぐ近く工房を構えていたことも作品に影響したのか、古い松里庵作品には芝居外題の物語を題材にした水引幕などの作品が多いと感じている。

扇咲競の蒲団〆は〝観音寺祭の奇数号太鼓台に限られると考えられていた。上掲の画像は、左から1号(中洲、1枚)・3号(酒or殿町、2枚)・5号(坂本)及び坂出・新浜子供太鼓台である。観音寺では、いつの頃からか判明しないが、不文律的に〝奇数号の太鼓台は扇を用いる〟との約束事が厳格に存在している。それで間違いはないのだが、近年坂出市の新浜地区から、写真の様に、子供太鼓台の蒲団〆として〝扇と龍を並べて対に飾る蒲団〆〟が出てきた。(制作された年代は不明、最後の画像)観音寺の扇咲競と新浜の扇咲競とを見比べて気付くことがある。観音寺では牡丹花の下の渦巻きが、大3個でしかないのに、新浜では小さい渦巻きが数多くある。また、唐獅子の毛並みと目される長く垂れた糸も、新浜では撚った金糸を用いて豪華を演出している。何れの作品も松里庵・髙木家によるものである。私は、豪華で渦巻きの多い坂出・新浜の方が、時代的には古いと考えている。観音寺の方が、新浜よりもデザイン的に簡略され、洗練されていると考えるからである。

それでは、今日的な幅広い蒲団〆へは、⑴いつ頃、⑵どこで、⑶どのような具体的状況の下に変化・発展したのだろうか。

まず⑴いつ頃に蒲団〆が幅広化したのかに関しては、剛性のある蒲団枠が蒲団型太鼓台に採用されたことに尽きるのではないかと考えている。寛政10年(1798)の『摂津名所図会』の大坂の太鼓台などでは、剛性の蒲団枠を採用していても、帯幅内の刺繍でしかない。幕末頃の伊吹島・東部の太鼓台(大坂からの直結の太鼓台)でも、帯幅内の龍刺繍である。片や四国では、明治中期以降に、帯幅をはみ出した龍の刺繍や虎の刺繍があること、髙木定七師の扇咲競の下絵が現存すること、等から、蒲団〆が幅広化した時期は、明治中期頃ではなかったと思う。

⑵どこで、という点に関しては、我田引水的かもしれないが〝刺繍の盛んな四国・琴平から〟ではないかと推測している。琴平の松里庵・髙木家が蒲団〆の幅広化に大きな影響を与えていたのではないかと考えている。特に、扇咲競の蒲団〆は、蒲団〆の幅広化にとっては、先駆的作品であったと考えている。

⑶どのような具体的状況下で蒲団〆の幅広化が為されたのか、については、①剛性の備わった蒲団枠が登場し、太鼓台の美化が飛躍的に進んだこと。その結果、➁各種太鼓台を駆逐し、蒲団型太鼓台が文化圏の代表的存在となったこと。③積み重ねられた蒲団部の四方4面が、最も人目につき易い部位となり、ここが装飾の中心と位置付けられていったこと。蒲団部の堅牢化に伴い、④長く細い4本の蒲団〆から、8面に分断された蒲団〆へと蒲団〆が発展的に変化したこと。⑤面積が広がった蒲団部の外側4面へは、これまでの幅狭い蒲団〆では不釣り合い感は否めない。広がった面積に応じて、装飾の蒲団〆も幅広に発展していく必要に迫られた。等が考えられる。

以上で、長く幅狭い蒲団〆が、堅牢な蒲団枠の登場によって、幅広に8分割された蒲団〆へと発展・変化していった様子が想像できたのではないかと思う。同時に、蒲団〆の〝幅広化〟はそれほど古い時代ではなかったことも、凡そ理解できたのではないでしょうか。

(終)

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蒲団〆の幅広化について(1)

2021年12月13日 | 研究

草創期・蒲団型太鼓台の蒲団〆

蒲団部がより堅固な枠型に発展した各地の蒲団型太鼓台の蒲団〆(蒲団締)は、今日では、ほぼ全ての他方で帯幅をはみ出す横広いものへと変化・発達している。ただし、蒲団を積んだカタチとして誕生間もない蒲団型太鼓台の蒲団〆では、その〝〆(締)〟の名の通り、積み重ねられた蒲団部の型崩れを防ぐことを主目的としていたため、蒲団〆の帯自体が幅狭いものであった。今日の太鼓台に装飾されているような幅広で、それぞれの蒲団部4面に2筋づゝ飾られたものではなかった。後述の画像のように、蒲団〆は〝4本の長い帯〟であった。

草創期の蒲団型太鼓台では、今日的な剛性のある蒲団枠などは用いてはおらず、柔らかい素材(綿を入れた本物の方形の蒲団・籾殻や藁や葦を用いて本物蒲団に見せる構造など)で蒲団部が構成されていた。こうした柔らかい形状の蒲団部は、運行時の激しい動きが当たり前の太鼓台では、型崩れや崩壊の恐れがあったため、殊更注意深く〝固く固定〟しなければならなかった。蒲団型太鼓台の誕生から今日に至るまで、このカタチの太鼓台を奉納してきた地方の人々の苦心は、〝如何にすれば、美しい型崩れのしない蒲団と成るか〟の一点に尽きていたのでは無かったかと思われる。現在の私たちは、先人たちが長年かけて考案したであろう剛性があり型崩れのしない蒲団部を手に入れているが、草創期の蒲団部は、実は〝型崩れのし易い、悩ましい積載物〟であったものと思われる。

「なぜ柔らかい蒲団を積んでいたか」という点に関しては、下図のように、主として当時の三河以西では遠州以東に比べ、方形の〝大蒲団〟をいち早く用いられていたことが影響していたものと考えている。方形・大蒲団の発祥地と目されている大坂は、後背地が綿作の一大産地であったことから、高価な換金作物を高額製品として販路を広げる必要があり、その製品化を目論んだものと考えられる。比較的簡単な作りの方形の大蒲団は、格好の高額な綿製品となった。〝蒲団は氏神への奉納(立派な大蒲団は、御旅所で神様が夜に用いる寝具と認識された。そのため、現在でも夜間に蒲団を下して太鼓台を運行する地方は数多い)〟と捉えた大坂商人(綿製品を扱う当時の呉服商人)たちは、草創期の蒲団型太鼓台を一種の〝宣伝・広告塔〟と捉え、それまでの簡素な太鼓台の上に寝具の蒲団として積み重ね、それまでの太鼓台を〝高級な蒲団型太鼓台〟に昇華されることに成功したのではなかろうか。

蒲団〆のルーツ(最も古い時代の蒲団型太鼓台に採用されていた蒲団〆)と言えるものは、絵画史料や現存する地方の太鼓台から想像すると、積み重ねた蒲団部の中央で十文字に縛り付けるだけの、ごく簡素なスタイルのものである。蒲団型太鼓台草創期では、蒲団〆は主目的である〝蒲団部の固定〟だけを考慮されていて、今日的な装飾的要素は見られず、細紐やさらし布で固定した簡素なものであったと考えられる。

本物蒲団を積み重ねた愛媛県愛南町深浦の蒲団型太鼓台(やぐら)は、蒲団部の中央で十文字に縛った形状の蒲団〆を採用している。蒲団部がゆさゆさと揺れても、小型の太鼓台の場合には、これで十分に持ち応えることができた。後ろ2枚の播州地方の絵馬に描かれた十文字の蒲団〆の太鼓台は、恐らく深浦と同型の本物蒲団型か、その発展形であったと考えてよい。(3枚目絵馬は嘉永元年1848奉納、最後の画像は姫路市のK・S氏提供、安政5年1858奉納絵馬)

 

更に、現役の十文字蒲団〆は、深浦以外でも、愛媛県伊方町(旧・瀬戸町内の四つ太鼓、三机・川之浜)や、紀伊半島・三重県熊野市蒲団型太鼓台(よいや)等でも見ることができる。熊野市の「よいや」に関しては別稿にて詳しく紹介しているので、併せて参照いただきたい。

蒲団〆の発展

やがて積み重ねられた蒲団部が、今日的形状のもの(剛性のある枠型の蒲団、厚みが増し見栄えを高めた蒲団、上下の蒲団枠同士を結束して蒲団部全体を一体化したような蒲団枠など)に近づいてくると、太鼓台で最も人目につく蒲団〆の役割も大きく変化してくる。それは、それまでの〝縛り固めるを越えた〝装飾性の強化〟という観点である。勿論、装飾性を高めた蒲団〆の出現と言っても、今日的な蒲団〆の帯幅を越えた横広の蒲団〆ではなく、あくまでも蒲団〆の帯幅の範囲内に収まるものであった。その初期に登場したと思われる太鼓台として、愛媛県八幡浜市磯崎(いさき。旧保内町、磯崎は佐田岬半島の北側・伊予灘に面している)の四つ太鼓等、幾例かをを列挙しておきたい。下画像は順不同にて、左から、磯崎(3枚)・高松市牟礼町宮北落合(2枚)・観音寺市伊吹島(3枚)。これら太鼓台の蒲団〆は、今日のように蒲団部4面に各2筋の蒲団〆、計8筋に分断されたカタチではない。実は長いこのカタチこそが、現在見られる豪華な蒲団〆のルーツに近いカタチだと考えている。

     

下は、蒲団〆が今日の様に前後左右の4面にそれぞれ2筋ずつ、計8筋に分断された太鼓台のもの。しかしながら、刺繍された龍は蒲団〆の横幅内に収まっている。前から、美馬市脇町(3枚)・三豊市詫間町箱浦の明治8年製の初代蒲団〆と明治41年製の蒲団〆を飾る太鼓台(3枚)。

       

(終)

※続編は、後日「蒲団〆の幅広化について(2)」にて掲載の予定です。

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