太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

戸島歌舞伎衣裳(宇和島市)と各地衣裳等との比較検討‥試案

2024年07月25日 | 研究

去る7月24日に、戸島歌舞伎衣裳の取材で愛媛県歴史文化博物館(西予市宇和町)へ参りました。戸島(とじま)は宇和島湾口(宇和島港から18㎞)に位置している。情報としては古いが、参考までに「SHIMADAS 1994」(発行;財団法人・日本離島センター)の紹介文を添付させていただいた。

館の「研究紀要(第22号、2017.3.24発行)〝宇和島市戸島の歌舞伎史料について・宮瀬温子氏〟」によると、戸島歌舞伎関係資料は戸島本浦自治会から平成18年に寄贈を受けている。その内の衣装(衣裳)は26点となっている。

今回紹介させていただくのは、刺繍付の小忌衣(おみごろも)と呼ばれる、エリマキトカゲのような大きな襟がついた、高貴な役どころが着用する豪快衣裳である。ただ、画像が小さくかつ背中だけで前面の画像が確認できていない。精細な画像や前面の刺繍の様子も、必ず実見したい。

今回は〝連鎖する古刺繍〟の一環として、この小忌衣と、これまでに実見してきた他地方の地歌舞伎衣裳や太鼓台の古刺繍等とを画像を通して、縷々比較してみた。下に例として取り上げた瀬戸内小豆島・小海(おみ)と、南予宇和海・戸島とは距離的にもかなり離れている。そして、このブログでも関連や酷似を指摘してきた他の多くの地方とも、戸島は遠隔の地にある。どのような繋がりを経て、かくも似通う豪華刺繍が広まっていったのか。太鼓台古刺繍との関連性を含め、大いなるロマンであり謎である。

(終)

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太鼓台が導入された江戸末期頃の西讃〝村々の世情〟を考察する(再編集)

2024年06月25日 | 研究

●太鼓台の初見記録

大型・豪華に発達した四国瀬戸内側(中・西讃~東予地方)太鼓台の初見は、寛政元年(1789)に遡る。これには、観音寺市大野原町の「小山・ちょうさ太鼓」と、四国中央市(旧・伊予三島市)の「神輿太鼓」がある。獅子舞やだんじりなどよりも遅れて奉納開始された太鼓台(後発の伝統文化)では、両地の記録はかなり早い方である。一方、両地よりも半世紀ほど早く登場したのが播州地方で、享保13年(1728)に「神輿太鼓 3台」が新たに祭礼参加している。(姫路市・粕谷宗関氏著『播州屋台記・飾磨彫刻史』昭50刊・26㌻。姫路市・松原八幡神社の1758宝暦8年「御神事御規式定」に、奉納開始の享保13年や奉納村名の記録あり)これまでに判明している今日の豪華な太鼓台につながる初見記録では、これが最も早い。

太鼓台文化を考察する上で参考となる概略図。左が太鼓台の分布概要図、右が太鼓台発展の想定図。(発展想定図については、写真展「太鼓台のルーツを訪ねて」(2022.12.09)を参照してください)

西暦1800年代に入ると、大都会・大坂で豪華に発達し高額となった太鼓台を、大坂商人が瀬戸内各地へ売り捌き、高利潤を得ようとした形跡が散見されてくる。香川県観音寺市伊吹島(1805文化2年〝永代濱〟記載の蒲団枠保管箱)や、広島県呉市大崎下島の沖友(1820文政3年〝三井納〟記載の水引幕保管箱)などで確認されており、大坂で豪華となった都市型太鼓台の、商業ベースに乗った瀬戸内各地への伝播が既に始まっている。

伊吹島の「ちょうさ」と大崎下島・沖友の「櫓」(やぐら) 【2024.6.25追加】上掲右・沖友の絵馬の櫓に蒲団部が描かれていないのは、夜の祭礼の様子を描いたため(蒲団は神様が寝るために用いると考えた)ではなかろうか。と言うのは、夜間に蒲団部を降ろす地方はかなりあるため。その例として、同島の御手洗(昼用と夜用の2台の櫓がある)、愛媛県南予地方のやぐら・四つ太鼓(蒲団を降ろしたやぐらや四つ太鼓同士、または牛鬼とやぐらや四つ太鼓と渡り合う)でも見ることができる。なお、太鼓台のことを櫓(やぐら)と呼称する地方は、大崎下島と今治沖の越智諸島周辺や愛媛県南予地方に限られている。

ただし、これは今日的な規模に近いもので〝かなり豪華で大型化されつつあった太鼓台であり、それ以前、つまり文化圏の各地に散らばっている小さくて簡素な太鼓台(「太鼓台発展想定図」の蒲団型太鼓台よりも発達度の低い太鼓台。屋根型の一部も含まれる)については、全くと言ってよいほどその歴史は分かっていない。私自身、今日の大型・豪華な太鼓台を頂点とする真の歴史解明は、「大坂からの伝播以前の、文化圏各地に散らばっている簡素な太鼓台の歴史探究にある」と捉えていて、正確で客観的な太鼓台文化を知るためには、これら素朴な太鼓台の解明こそが不可欠であると考えている。(現在確認されている簡素・小型な初期的太鼓台を下欄へ紹介しておきたい。何れも『太鼓台文化の歴史』2013.3刊 観音寺太鼓台研究グループ所収) これらの簡素な太鼓台は、〝大太鼓さえあれば、容易に太鼓台として誕生させることができる〟形態の、祖型ともいえる太鼓台群である。

このように、記録にも遺されず、導入の時期や経緯も不明のままの小型・簡素な太鼓台が、この文化圏では広い範囲に散らばっている。研究者の少ないこと・分布地が中央(東京)から離れていること・太鼓台そのものの形態や呼称がマチマチであること等から、私たちが想像する以上に、ほとんどの太鼓台の歴史は半ば忘れ去られ、知るすべもなかったのである。年代記録された上記数カ所の各地にしても、村々の為政者側に〝記録に遺さなければならなかった何らかの理由〟があったか、または他地区の太鼓台と比べて自慢できるほど、かなり豪華であった〟か等で、「運よく記録された一握り」と捉えるべきと考えている。今後、大坂などの太鼓台供給地側の古文献や、受入れ側各地の古記録、及びそれら以外で、それほど豪華でなかった発展途上的な太鼓台に関する各地の古記録などが出てくれば、真の意味での太鼓台の初見記録は更に遡っていくものと思う。

●小山・ちょうさ太鼓の奉納と、近郷の世情

ここでは、寛政元年に初めて大野原八幡神社へ奉納された「小山・ちょうさ太鼓」に焦点を当て、導入された時代の❶「小山近郷の世情がどのようであったか」を、古文書の記録から出来るだけ客観的に正確に捉え、当時の小山や近郷の世情が、どのように関連して➋新たな「ちょうさ太鼓の新規導入」に結びついていったのかを眺めてみたい。参考させていただいたのは、下記に添付の資料2点(いずれも大野原町・久保道生氏作成)である。一つは「井関村庄屋の代替りに勃発した紛争」(事案は1755宝暦5年に発生。『文化財協会報・第16号』観音寺市文化財保護協会・令4.3.1発行。コピー添付)であり、今一つは「大野原郷土史講座討議資料」(講師は久保道生氏。配布資料は上記及び井関村庄屋の佐伯家文書『萬覚帳』の関係コピー等。こちらの資料は未添付)で、これら資料からは、当時の近郷における「村内対立の構図」(支配する村内上層部 VS. 下々の一般の百姓層)が、具体的に見えてくる。即ち、大野原・井関村での庄屋代替りの宝暦5年、同村での「日用銀」(日用銀とは村政執行に必要な公益費等を指し、支配される側の百姓層が負担した。出納記録は庄屋が行った)等の不正経理に関し、村内・被支配の下層部の人々は、数度に亘り村の上層部へ大勢で押しかけ、理路整然と交渉し、庄屋等の不正を追及している。

 上掲3枚は「井関村庄屋の代替りに勃発した紛争」関連論文(久保道生氏作成)

村内・被支配の下層部の人々 (主として本百姓層を指す。この層は、内に田畑屋敷を持ち、領主から村に割り当てられた年貢の負担義務がある自立農民で、村政上層部の村役人以外の人々である。村内の寄合等に参加し、自分の意見を言えた人々)が、庄屋等に面と向かって物申し、不正を暴き、あるべき姿の結果を勝ち取っている。久保氏の講演からは、身分制度や封建制度の厳しかった当時、虐げられていた(と考えられていた)下々の彼らが、現代人の及びもつかない〝したたかな交渉術や高い権利意識〟を持って、村の上層部(為政者側)に堂々と対峙していた様子が、次々と明らかにされた。

騒動が勃発した井関村と、ちょうさ太鼓を祭礼に初参加させた小山地区とは、現在の大野原町の北と南にほぼ隣り合う立地にある。井関村が西阿波や東予に接する讃岐山脈南麓の山村部であるのに対し、小山地区は井関村より少し南に位置する、どちらかと言えば純農村部とも言える立地にある。ただ、小山が京都の平田氏によって新たに開墾された〝町人請負新田大野原に在ったのに対し、井関村は従来からの村であった。井関村には村の長である庄屋が配置されていたが、大野原は開墾資金を負担した平田氏の小作地という位置づけであった。日常交渉が頻繁であったと思われる両地だけに、小山での初奉納の約30年前に起った井関村での騒動の一件や、更にそのわずか5年前の寛延3年(1750)に丸亀藩・西讃岐一円で吹き荒れた大規模な〝西讃百姓一揆(寛延の七義士)での打ち毀しなどが、近郷一円の人々には、強烈な記憶として残っていたものと思われる。特に打ち毀し等の被害に遭った庄屋をはじめ村政上層部の人々には、下々の人々の強い団結や行動力が現実的な危機として、強く恐れられていたものと思われる。井関村の日用銀に関する騒動も、このような下地から発生したものと思われる。一般百姓層の庄屋に対するこのような近郷の一揆や騒動の影響で、各村々では村内対立の構図が修復できない程に顕在化し、支配される層の、村の上層部に対する不信や反発が、否応なしに増大されていったものと考えられる。

当然のことながら、一揆や騒動の顛末は近郷人々の間で長く生々しく語り継がれ、小山での「ちょうさ太鼓・初奉納」のきっかけにもつながったのではないかと思われる。

小山 ①狭義には、約380年前の大野原開基の折、小山村(摂津or河内地方)出身の一統が集団で移住してきた地区で、現在の大野原中学校付近から道路補挟んで西側辺に相当すると考えられている。(「大野原開墾古図」1645正保2年から) ②現在における小山地区とは、現在の大野原町高松・杉林・辻・宮之下・下木屋の各地域一帯の12自治会を指す。この地域には大地主の平田屋敷(新田会所)や大野原八幡神社及び平田氏菩提寺の慈雲寺などがあり、平田氏・新田経営の中心的エリアである。従って、その威光や新田経営における平田氏の意向が、十分に行き届いていた土地柄であったと言える。太鼓台(ちょうさ太鼓)は、そのような大地主・平田氏のお膝元で新たに導入されている。

大野原 江戸時代の寛永20年(1643)に丸亀藩から開墾許可を得て、同年より開墾着手した所謂「町人請負新田」と言われる土地で、開墾資本を出して新田開発した平田氏や他の有力家(最後は平田氏のみ)が全ての田畑等の実質的地主であり、周辺の村々とは異なり庄屋は置くことは無かった。大野原に入植してきた百姓たちは基本的には平田家の小作人と位置付けられた存在であったが、それは単なる小作人としてではなく〝家来的〟な考え方から、入植時には住居・農具・肥料代等を貸与・助成して手厚い便宜を与えていた。一方その反面、周辺村々の百姓よりも重い年貢(藩から平田氏に対しては軽く、平田氏から大野原の小作人には重い制度。即ち〝百姓たちからの年貢は、周辺村々よりも重く平田家へ納め、平田家から丸亀藩へは、周辺村々の年貢よりも軽く設定されていた)となっていた今日的感覚からすると〝大野原は、平田氏が開墾・所有する一大農場であり、その中で生活する住民(小作人)は、あらゆる分野で農場主・平田氏に隷属し搾取される関係にあったと言える。このような社会の背景から、絶大な権力を有していた平田氏による大野原の新田経営と、周辺村々の庄屋・村役人を中心とした「村請制度」に立脚した農村経営とでは、平田家と庄屋との年貢完納における責任の軽重や、各村々の百姓等と請所大野原の百姓等との間には、さまざまな点で大きな相違点があったと思われる。

不穏な世情と太鼓台

講演会で配布された資料の中には、小山・ちょうさ太鼓の初奉納と同じ年(天明9=寛政元。小山の初奉納は同年8月で、年号が天明から寛政へ改元されたのは1月25日)の正月、庄屋側の記録に重要な出来事が記録されていた。(井関村庄屋の佐伯家文書『萬覚帳』よろずおぼえちょう) 請所大野原を取り囲む井関村をはじめとする各村々は、丸亀藩豊田郡の内で、当時では同じ和田組(和田村の大庄屋の支配に属するグループ)に属し、和田組では正月恒例の初寄合(1月17日の開催だったと思われる)が持たれている。その寄合で、庄屋たちはその頃の近郷の世情を次のように捉えている。「下々では、何かと言えば大勢で徒党を組み、村役人を拒絶したり脅したりする〝悪しき風潮〟が見られる」との危機感を分析し、村々の庄屋は、配下の年寄百姓(庄屋・組頭に次ぐ村役人)を上手く使い、「下々が、村役人や庄屋層の方へなびくよう、諸事宜しくなるようにせよ」と、細かく具体例を並べ立て、不穏な世情の沈静化を図ろうと申し合わせている。

当然ながら、和田組の村々に囲まれていた大野原・平田家でも、このような近郷世情の重要な情勢分析は共有していたものとしなければならない。近郷支配のトップの庄屋層の正月初寄合で、現在の私たちが想像する以上に、このような赤裸々な談合が垣間見えるほど、当時の村々では「下々から突き上げられる、相当に厳しい世情」であったことが、出席した彼らの共通認識として理解されてくる。『萬覚帳』の記述からは、当時の村の大多数を占めた下々の人々は、村政上層部に対する不正監視や、権利意識の高まりと自己主張などを通じ、厳しい身分制度下であったにも関わらず、既に今日の私たちに近い程の高い民度を有し、団結力と交渉力をしたたかに行使し、自分たちの望む結果を勝ち取っていたことが窺い知れる。

このように〝庄屋層や村政上層部にとっての不穏な世情〟の中、平田氏のお膝元の小山で〝ちょうさ太鼓が新たに導入されたのは、なぜなのだろうか。既述したように、当時の庄屋層が一致して「不穏な世情」と認識していたことに大いに関係していると思われる。(平田氏側でも、このことを共有していたはずである)この「近郷の不穏な世情と、太鼓台・新登場との関係」はあるのか、無いのか。私は、そのことを客観的に理解するため、近郷の関連史実を時系列で示し、そこから当時の農村内部の各層の考え方や行動原理を眺めてみた。その上に立って、上記の❶(小山地区近郊の世情)と➋(何が〝ちょうさ太鼓〟の導入に結びついたのか)を探究しようと考えた。

その具体的な説明資料として、先に示した久保氏作成資料等を参照にさせていただきながら、「太鼓台出現と、その時代の世相について(大野原近隣を例に)」を年表風に作成した。(下記添付)

そこから見えてきたのは、大野原に近い西讃・東予の多くの太鼓台が、文献上では西暦1800年代初期頃までの約半世紀程の短期間に、雨後の筍のように次々と登場していることであった。そして3枚の久保氏発表論文からは、丸亀藩の当時の大庄屋・和田組支配(大野原・豊浜一円)では、それまでの一揆や騒動などの実体験を通じ、村内下々の層の間に、現代人と同じ程度の高い民度が形成されていて、村内での様々な不条理や綻びが明らかになったという事実であった。その結果、人々の権利意識が大幅に前進・向上し、「為政者にとっては、不穏な世情となっていた」という揺るぎない事実であった。そして、村の大多数であった下々の人々の「力を合わせた交渉力」等が、為政者である庄屋たちにとって、もはや無視できないものとなっていたことが、確実に理解されてくる。(このような近郷の世情は、小山地区のある請所大野原や豊田郡内の村々でも全く同様であったと思われる。この豊田郡各村々と、平田氏によって開墾された請所大野原のエリアこそが、現在では、最も大型・豪華に発達した太鼓台が分布する一地方となっている)

絶大な権力を持っていた庄屋層に対し、正面切って物申した名も無き人々の、高度な交渉力や権利意識の発揮が、村政支配層や大地主・平田家が持つ既得権益をも瓦解させるほどの大きな力となっていたことが、客観的にも大いに理解されてくる。このような時代の経験を積み重ねていくことによって、下々の人々は、益々自らの執るべき行動に自信を深め、自らの権利意識を更に高めていったものと思われる。為政者たちは、自分たちを脅かす〝下々の悪しき風潮を根絶するため、何としても、有効な「次の一手」を打たなければならなかったはずである。自分たちに向けられた下々からの集団での脅威を、他にそらすことができると考え、ぶっつけ本番に近いカタチで導入し易かった太鼓台が、選定された理由であったのではなかっただろうか。

大地主・平田氏や村政支配層の庄屋たちは、氏神祭礼という信仰の名の下、太鼓台導入で無礼講に近い賑やかし、或いは上層部への鬱憤晴らしや、村内及び地域での団結心の植え付け、また五人組や若者組の活用で、効果的な上意下達の村民統制ができると考えたのではなかろうか。絶対的な権力を有していた平田氏のお膝元・小山で、周囲の村々に先駆けて太鼓台を最初に導入したのは、〝お手本を示す・範を垂れる〟的な要素が大きく作用したのではないか、と私は考えている。近郷各村々では、平田氏お膝元・小山での太鼓台導入効果の成り行きを踏まえ、大野原・豊田郡一円へ拡散されたいったものと考えている。このような為政者側の思惑もあり、太鼓台が「不穏な世情のガス抜き」対策として、先ずは平田家支配の大野原で導入し、その後、平田氏支配下の大野原各地、及び豊田郡の各村々へ、順次伝播していったものと思われる。

村内最大行事の氏神祭礼には、村の中心構成と位置付けられた本百姓や若者組が維持・運行した太鼓台が、先に奉納していた他地区のだんじりなどの後発として、この時代、あちらこちらで新登場している。この地方では、太鼓台が新たに納を開始した時に、既に参加していただんじりなどの先行奉納物があったが、太鼓台はそのパワーや周りに与える影響力・存在感が圧倒しており、獅子舞ほどの習熟する稽古もさほど必要なく(ぶっつけ本番的に行える)祭礼参加ができ、手っ取り早い氏神祭礼の中心的存在と成り得たのではなかろうか。それ故に、後発奉納物でありながらも、この近郷一円の祭礼の中心的存在となり、それぞれの地域の「シンボル・宝物」として、精神的な存在感をも担うようになったものと考える。

ただ時代が下がり、太鼓台が村政上層部の予想を遥かに超えて贅沢・華美に流れ、質素倹約をないがしろにし、一部では地域同士の喧嘩や狼藉等の道具として存在してくるようになると、これには為政者側としても厳しく取り締まる必要があった。巨額の資金を投じて新田開発した絶対的権力者の大地主・平田氏は、氏神・大野原八幡の祭礼に組頭や五人与頭(-くみがしら)に出仕・立会するよう命じ、狼藉行為等を監視させている。

やがて近郷の祭礼に広まった太鼓台も、草創期の比較的簡素・素朴な時代は去り、太鼓台同士の華美や勇壮さを競う風潮がどんどん高まり、祭礼時における地区間の喧嘩狼藉なども増え、かえって太鼓台の存在が風紀を乱すという新たな頭痛の種になってくる。人々は、太鼓台が地域の「シンボル・宝物」として愛でる存在である一方、風紀を乱し暴発するほどのパワーを持つ「悪しき存在」としての二面性を有することに、改めて気付かされることとなる。この片方の悪しき風潮は、文化圏各地でも同様な禁令等が数多く窺えることから、時代が下がり太鼓台がいよいよ派手になっていくにつれ、人々にとっては太鼓台がなかなかコントロールしづらい存在となっていったことも偲ばれてくる。

●太鼓台は、地域の「シンボル・宝物」

小山地区を始め、近郷で次々と新規に登場した太鼓台は、近世から近代へと大きく変貌しようとした幕末期の、村内における上層部と多数の下々の人々との間に横たわる「不穏な世情」にあって、伊吹島や大崎下島・沖友のように大坂から伝播して来て、各地に根付いたものである。上層部が意図する「ガス抜き目的」から導入された当初の太鼓台を、後には、人々が心を寄せ合う地域の「シンボル・宝物」へと、見事に変化・昇華させていく。この近郷の太鼓台は、導入当初のやや簡素・小型から豪華・大型化への発展期を、拵え替える度に存在感を増しながら、地域の大多数の人々が心寄せ合う〝無くてはならない、地域固有の文化〟へと創り上げていったのではなかろうか。太鼓台は、幕末以降の大きな社会変動のうねりの中で、近郷一帯の不穏な世情に左右されながらも、地域社会や人々の心の奥深くに根付き、豪華・大型への発展を繰り返しつつ、今日の私たちにつながっている。

先に示した「太鼓台出現と、その時代の世情について(大野原近隣を例に)」には記していないが、時代が下がり明治末期になって、河内(こうち)の大地主・大喜多家(現・三豊市山本町河内)では、明治26年(1893)製の、まだ十分に新しかった中古の太鼓台を伊予三島から購入して帰り、氏神祭礼の数日間だけ若者組に貸し与えていた。当然ながら地域の賑やかしや団結心の高揚に配慮した導入であったが、その反面、為政者側の視点からは「村民統制やガス抜き」の目的手段として導入されたものである。現在この太鼓台は、香川県立ミュージアムへ寄贈されている。太鼓台は、大喜多家からの祭礼時だけの借り物であったこともあり、祭礼前に屋敷前の小広場で組み立てられ、祭りが済めば同所で分解、次の年まで屋敷内の蔵に返却・収納されるなど、大変丁寧に扱われたと聞く。この太鼓台は、明治中期の規模や装飾を色濃く伝える数少ない貴重な存在として大いに注目され、今後益々、このエリアの太鼓台文化解明に寄与されていくものと思う。

まとめ

私たちは、大野原・小山へのちょうさ太鼓の導入が、江戸末期頃の西讃岐の村々の、当時の不穏だった世情に大いに影響され、村内為政者Vs.大勢の一般の人々〟という対立軸の中、為政者側の「ガス抜き対策として奉納が開始されたことを突き止めることができた。これまでに何とはなく巷間論じられてきた〝身分制度の厳しかった当時の地域社会で、「世情不穏や一般庶民の民度の高まりが、太鼓台の新規登場や伝播へつながる要因」ではなかったか〟という論拠が、今回の為政者側に遺されてきた古文書などから、大筋肯定される結果となった。また久保氏によって紹介された井関村庄屋・佐伯家文書『萬覚帳』からは、各地の太鼓台が〝不穏な村内上下関係の軋轢の中から新たに導入されるに至った「経緯の一端」が見えていると思う。

大坂から伝播したこの地方の太鼓台が、実は厳しい村内対立軸の中から、対立する双方さまざまな人々の思惑が込められて導入されていたことを知れたのは、新たな発見であった。併せて、冒頭で示した〝大太鼓ひとつあれば、太鼓台に成り得る〟ことが、最も早い時代の太鼓台の原形であると日頃思考している一人としては、〝小山以前・伊予三島以前の簡素な太鼓台文化を更に探求し、現在に繋げていくことも重要であると考えている。その中で、豪華な太鼓台を有する文化圏先進地に住む私たちが、既に訪れつつある近未来の厳しい時代環境の中で、文化の恩恵を大きく被っている私たち先進地が、太鼓台文化や文化圏の人々に対し、〝一体、どのような貢献ができるのか〟を早急に問い直すべきではないか、との思いを強くしているところでもある。

(完)

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天保4年(1833)の伊吹島・南部太鼓台の〝見積書〟について(再編集)

2024年06月23日 | 研究

初めに

燧灘・伊吹島の3台の太鼓台に関しては、このブログでも幾度か触れているが、江戸期に大坂からの直接購入したものであることが判明している。今のところ、伝えられる確実な記録としては、〝蒲団枠保管箱〟に記された年号により、少なくとも文化2年(1805)まで遡ることができる。19世紀初頭のこの記録は、文化圏各地の判明している記録の中でも信頼性の高い古いものである。[「草創期太鼓台の探求-そのカタチを遡る」参照(『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』66㌻~109㌻、観音寺太鼓台研究グループ2017.3刊所収)} 

伊吹島に限らず、動力船が存在しなかった時代の瀬戸内の島人たちは、代々自然と身についた巧みな操船技術や日々の生活に欠かせない各地との交易を通じ、現代人の想像をはるかに超えて、大都会・大坂をはじめ近隣する各地とも密接に繋がっていたことは間違いない。後に、庶民文化の華となる多数の太鼓台分布をみた瀬戸内各地は、いち早く導入を果たした近隣各地に影響を受け、或いは近隣諸地方に先んじて、一層華やかな祭礼となるよう太鼓台供給地の大坂から、より豪華な太鼓台を求め、競って導入に努めたものと思う。

太鼓台文化圏に対する伊吹島太鼓台の存在意義は、島の太鼓台が、幕末から明治期の大坂方面の太鼓台の面影をよく伝えていることを最大限意識できることにある。中でも、積み重ねられた蒲団枠の1畳が、辺毎にバラバラに4分割される蒲団部構造となっていることを挙げておきたい。これは、今日の私たちが最も知りたい一つである<太鼓台の豪華・巨大化>への解答にもなる。即ち、島の太鼓台の蒲団枠と、各地・太鼓台の蒲団枠とを比較することによって、太鼓台の発展過程が客観的に理解できるためである。また伊吹島には、蒲団枠以外にもさまざまな〝客観的な文化遺産〟を数多く伝え遺している。これら諸々の歴史的な遺産を生かした〝太鼓台文化の解明に貢献する〟ことも、島としては十分に可能である。太鼓台の高級化が飛躍的に進んだ幕末期、伊吹島太鼓台の〝先と後〟の各地太鼓台の情報を、正確・公平に関連付けることで、島は文化圏各地との架け橋にもなれる存在である。なお、島の太鼓台を含む文化圏各地の太鼓台・蒲団部構造に関する探究としては、「太鼓台文化の共通理解を深める-蒲団構造に関する一考察」(『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』2015.3観音寺太鼓台研究グループ刊・所収、文化圏各地の主な図書館等に蔵書)に、関連画像を付して各地比較も試みている。また伊吹島太鼓台を詳しく紹介したものとしては、下記『伊吹島研究資料叢書(四)伊吹島太鼓台資料集』(2009.9伊吹島研究会・刊、観音寺市立中央図書館等に蔵書)があるので、両冊子をぜひご参照にしていただきたい。

以下に紹介する南部(当時の中若)の〝見積書・猩々緋太皷御蒲団 五畳〟は、200年以上も前のものである。解読を進めると、業者からの見積書を、頭を突き合わせながら相談しあう当時の人々の息づかいさえも感じ取れるような完全なカタチのものであることが分かった。古い時代の痕跡がなかなか遺らない私たちの太鼓台文化圏にあって、江戸時代の〝今〟を、後世の〝今〟に伝える太鼓台文化の一級史料として、甚だ奇跡的な遺産であると思う。

前記の『伊吹島太鼓台資料集』の中には、当時の〝中若〟(現、南部太鼓台)が、天保4年7月(1833)に太鼓台を新調(拵え直し)した際に記録が始まる『太皷帳』が紹介されている。またその直前(同年5月1日)に、中若連中が大坂の呉服商・小橋屋(おばしや)から徴した、上掲の〝見積書・猩々緋太皷御蒲団五畳〟も掲載されている。両者は密接に関連していて、見積書の内容を縷々検討して、太鼓台は発注し新調されたものと考えられる。ただ、同『資料集』に掲載されている〝見積書・猩々緋太皷御蒲団五畳〟の内容には、明らかな今日的誤謬がある。そのため、古文書の解読を含め、上記にて全面改訂し情報発信することとした。そして、書かれた内容を、掲載以降も実見してきた各地の太鼓台事情と比較吟味しながら、蒲団型太鼓台における発展拡大期の客観的な状況把握に努めてみたい。即ち、見積書等から見えてくる当時の蒲団型太鼓台の装飾が、客観的に判断してどのような段階のものであったのか。更には、文化圏各地の見学や探求から判明してきた蒲団型太鼓台の過去を、伊吹島の太鼓台遺産を通じて論じてみたい。また、各地比較や各地の実態確認等を通じて垣間見えてきた、当時の太鼓台の供給元である上方商人側の〝太鼓台の販売戦略〟等についても、想像を膨らませることができたらよいと思う。

見積書の記載内容について、詳しく眺める。

この見積書は、伊吹島に伝承されている3台の太鼓台(古い順に上若=西部、下若=東部、中若=南部)のうち、中若太鼓台の新調(=太鼓台の拵え直し)記録文書である。『太皷帳』に書かれている買入内容の基になる見積書で、太鼓台購入先は大坂の呉服商〝平井・小橋屋〟(おばしや。三井・越後屋、大丸、岩城・枡屋、平井・小橋屋が大坂の四大呉服商)である。小橋屋からの複数提案の中から、地元・伊吹島中若連中としては、どのランクの商品を選択したかが客観的に知ることのできるものとなっている。見積書の末尾に押された店の印形を拡大して参考添付する。それには「○に小の字・ひらい」とあり、「現銀かけねなし、京店三條通堺町、(本店)大坂南御堂前かど、おばしや兵之助」とある。(おばしや・小橋屋については、ROSSさんのブログ「南御堂の小橋屋呉服店」が大いに参考させていただける) 

(A)猩々緋太皷蒲団

まずは高価な猩々緋を、次いで比較的安価な猩々緋本緋フェルトの購入を提案をしている。その上で、無地の布地の上に高価な〝雨龍か何ほどかの縫〟を施すことを勧めている。〝蒲団部への刺繍〟に関しては、伊吹島では提案に応じることはなかったが、次の文化圏各地(順不同:小豆島豊島家浦・倉橋島室尾京都府木津川市木津・『摂津名所図会』の太皷)では、恐らくこの見積書と同様の刺繍付き蒲団部が採用されている。このうちの倉橋島室尾では、水引幕の裏に伊吹島・東部太鼓台の水引幕を制作した大坂の〝奥田久兵衛〟の名前が墨書されていた。[文献『地車請取帳』(明治10年9月吉日起し、兵庫地車研究会刊)の25及び82㌻(明治31年頃)に、「大坂南区西清水町・佐野屋橋南角・ぬい屋・奥田久兵衛様」とあることから、奥田久兵衛店の活躍時期はこの頃と推測できる] 〝高額なものを、大きな利益が期待できる商品〟を売ることが、今も昔も商売人の真骨頂である。ひとたび売ることができたならば、太鼓台は特殊商品なので、次回以降も同じ業者が受注する公算が大となる。現に、島では3台の太鼓台共、平井・おばしやを通じて導入している。(蒲団部への刺繍の下記写真は、左から小豆島・豊島家浦、摂津名所図会の太皷)

   

(B)水引幕

幕地は猩々緋で、幕の縁(へ)りは小石縁り(小石=石と砂の大きさの中間位の大きさ=を散らしたような縁)にしている。乳(=幕を巻き付ける縄を通す穴付き装飾)は、光沢のある滑らかな絹織物(=綾子・リンズとも)にしている。注目したいのは、今日的な豪快な武者絵図柄や龍などの聖獣ではなく、刺繍紋を提案していることである。まだまだこの時代の地方の太鼓台では、武者絵的図柄は言うに及ばす龍や唐獅子などの聖獣等は、水引幕刺繍には採用されていなかったものと考えられる。A項で紹介した蒲団部には、かなり豪華な刺繍を施すよう提案されているが、蒲団〆の装飾内容が記されていないこと、このB項の水引幕にも紋程度の刺繍の提案しかされていないこと等から、見積書の天保4年頃の太鼓台装飾(=水引幕や蒲団〆の刺繍よりも、蒲団部への刺繍が重視されていたか?)の規模が想像できる。(下記写真は、左から文政3年1820製と思われる呉市豊町沖友の櫓の梅鉢紋、明治31年頃の木津川市小寺の太鼓神輿の幕の紋)

 

(C)上蒲団等

この上蒲団(うわぶとん)は、5畳蒲団を上から押さえる〝蒲団押え〟のことであると思う。今の時代では、太鼓叩きの座る場所から蒲団部の内部を見上げると、空が見えるような空っぽの構造が多くなっているが、元来は蒲団部そのものが密封されているのが当たり前であった。太鼓叩きの乗り子の直ぐ上は格天井や格子障子で仕切られ、蒲団の天も完全密封か、中から作業で登り下りするための小さな穴しかなかったのが普通であった。蒲団の天部へ登っていくには、梯子や縄梯子を用いた。そのような状況であったため、蒲団押えは必須であった。その四方に金糸・龍の縫を施すととの提案は、もし客からAの〝四方正面に本金・雨龍など〟の縫の発注を受けた場合、その上部への続きとして蒲団押えにも同様の縫を施す必要があったため、このような提案が為されたものと思う。Aに比べ〝上品〟で約4割の見積り額となっているのは、蒲団の厚みが5畳蒲団の1畳よりもかなり薄いことによるものと思う。因みに伊吹島では五畳蒲団に刺繍を施してないため、当然ながら上蒲団には刺繍はなかった。ただ、徳島県三好市山城町大月の太鼓台では、7畳蒲団の上の8畳目の蒲団(蒲団押えが変化したものと考えている)に、雲形文様が施されている。裏には〝安政五年〟の年号が書かれていた。なお、愛媛県西条市の〝みこし〟(蒲団太鼓台型だんじりの呼称)では、8畳の蒲団を重ねている。

なお、天部への刺繍装飾については、先の倉橋島・室尾や、屋根型だんじりの三豊市詫間町・志々島だんじりの天幕刺繍がある。

(D)とんぼ結

伊吹島太鼓台の〝とんぼ〟は黒で、網を被せている。(西部=先端部分に網、東部=ほぼ全体に網掛け、南部=先端に雲形文様の刺繍付) とんぼの中身は、綿・藁・もみ殻・燈心(イグサの髄)などと各地で異なっているが、東部太鼓台では燈心が詰められていた。近隣の各地では、近年は発砲スチロールの小さな粒々を詰めている。綿・藁・もみ殻・燈心などは経年使用により痩せて容積が減じてくるため、各地では同じ詰物を、補充箱等に入れて予備として確保していた。写真は三豊市詫間町・箱浦屋台のとんぼと保管箱(うち1箱が詰物の保管箱である)と、徳島県三好市・馬路太鼓台の〝蜻蛉(とんぼ)補従入箱〟の蓋書き。(馬路太鼓台の道具箱や装飾刺繍等については、別途紹介する予定です)

(E)白木綿下〆

古い形態の蒲団〆は細長い作りで、その両端に龍の刺繍などの飾りを縫い付けていた。現在では、特に四国北岸地方ではこの部分が巨大化し、幅も広く厚みも分厚くなり、5畳蒲団のそれぞれ一面に阿吽の龍などを一対、計8枚に分割して装飾している。伊吹島太鼓台では、前者の細長い蒲団〆を採用している。このような細長い蒲団〆を採用している地方も数多い。〝白(しろ)木綿の下〆〟とは、5畳の蒲団部を固定するため、細長い蒲団〆の下で、予め縛っっておくための紐状の〆帯ではなかろうか。島の太鼓台の蒲団枠は、比較的規模は大きい。5畳蒲団が辺毎にバラバラに20本に分割される構造なので、蒲団部をカチッと形作るのはなかなか骨が折れる。

(F)更竹蒲団

更(さら)は新品の意味で、新品の竹御蒲団(竹が主材の蒲団)が4畳、1畳当たり約1.3万円とかなり安い。綿を入れて仕立てていることから、緩衝材的な用いられ方をしているものと思われる。このことから、5畳蒲団のそれぞれの間に挟めて用いられたものではないかと想像した。因みに西部や東部の太鼓台では、現在も五畳蒲団の重なる四隅へ三角の小蒲団を挟めている。(左から、西部と東部の太鼓台。東部では、五畳蒲団の上にC項関連の薄い上蒲団が確認できる)

)

(G)角房

角(すみ)房は、蒲団の四隅に装飾する小房のこと。積み重ねられた蒲団の数が5畳なので、5×4で20と、数が合う。

(H)籠枠

伊吹島3太鼓台の蒲団枠は、外の丸み部分は竹籠編み、中の土台となる部分は板張りとなっている。今日なお神聖な存在の竹は、つい最近の時代まで〝強く・軽く・美しい〟として、ものづくりの万能素材であった。なお、蒲団型太鼓台における蒲団部形態については、各地太鼓台において様々なカタチを今に伝えている。私たちは、島の太鼓台の蒲団部・探求を通し、各地太鼓台の蒲団部とをつなぎ、未解明の太鼓台文化を明らかにしていかなければならない。

(I)太皷合羽

雨風の悪天候時や夜露等への対策として〝太鼓台を覆う合羽〟(主には蒲団部を覆ったカタチか。今日のビニール・シートカバーに相当する)の提案である。詳しいカタチは不明であるが、東部太鼓台(下若)に、これを保管していた明治5年1872)の箱蓋が遺されていた。

(J)水引幕

B項関連で、割安品の提案。

(K)後書き

地域の事情等により値引きもできる旨が提案されている。この見積書が全くの新調を意識して徴収したものではないことが、太鼓台には必須の蒲団〆や、彫刻類及び太鼓台本体(こちらは先代のものをそのまま使う場合が多々ある)等の提案がされていないことからも想像がつく。なお伊吹島には、太鼓台を新調(拵え直しを含む)した際の南部及び東部太鼓台の粗(あら)図面が遺されている。残念ながら現時点では年代特定は難しい。(左から、南部2枚・東部1枚)

(終)

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各地の「絵画史料」に描かれた太鼓台(再編集)

2024年06月19日 | 研究

絢爛豪華で高価過ぎる太鼓台が幅を利かす昨今、過去の太鼓台はどのような姿をしていたのでしょうか? 自分達の原風景に出会えるようで、この文化に携わっている誰しもが見たい・知りたいことではないでしょうか。勿論、それら全てを網羅することはできませんが、皆さんのご協力もいただいて、〝太鼓台の原風景〟を一緒に共有できればと考えています。(なお、画像は基本的には年代順〝古い時代→近い時代〟としていますが、関連性の高いものについては、続けて載せるなどの相応の配慮をしています。また、画像の著作権に対しても失礼のないように心がけています)

◆大坂 難波神社(寛政10年1798『摂津名所図会』で紹介)

蒲団部の模様(雨龍の刺繍に見える)と太鼓打ちの乗子の所作(隣り合う投げ頭巾の二人がブチを振り上げ・打ち降ろし)にも注目。右端の肩車の乗子にも注目。

◆小豆島池田 亀山八幡宮奉納絵馬・部分(文化9年1812奉納、安政5年1858に「再画」表示) 絵馬には5台の太鼓台が見える。右端の1台は〝かえし〟の妙技を披露中。左の神輿の大きさ比べると、その差は余りないように見える。

◆加古川市 神吉八幡神社 御神事絵図・部分(文政3年1820 姫路・粕谷宗関氏提供) 井桁に舁棒を組んでいる。このように組む地方もかなりある。

 ◆長崎くんち・樺島町コツコデショ (文政10年1827頃 シーボルト編纂『日本』にて紹介) 現在と比べると、蒲団が2畳少なく、舁棒も脇棒がない。(左の『日本』に載っている銅版画は、シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた肉筆画を、製本する際に銅版画に写したものと言われている。従って慶賀が描いた絵がどこかにあるはずとして、長崎の研究者はその絵を探索しているとのこと。もし写実的な肉筆画が発見されたら、更により精細な当時の様子が判明するはず)

 

◆西条市 「伊曾乃祭礼細見図」の「みこし」 (天保6年1835頃 『西条祭祭礼絵巻』2012刊所収) 蒲団〆や幕や高欄掛に刺繍が見える。

◆堺市 三村宮祭礼絵馬 (天保期1830-43『堺市史』第三巻所収)  後方左端に蒲団型が見える。

◆大崎下島沖友の奉納絵馬・全景と部分 (天保13年1842)  大崎下島の他地区では、夜に蒲団を降ろして担ぐ地区がある。

◆たつの市 梛八幡神社奉納絵馬・部分 (弘化2年1845 姫路・粕谷宗関氏提供) 現在の屋台に比べると、かなり小さく見える。

◆姫路市 林田八幡奉納絵馬・部分 (嘉永元年1848) 平らな3畳の蒲団を積む。規模はかなり小さいと思う。右は、同神社の明治14年(1881)の絵馬。神輿型と蒲団型の太鼓台。(天部はこんもり膨らんでいる)  

◆宇和島市 宇和津彦神社祭礼絵巻・部分 (大正9年1920に、その6~70年前の様子を描く)

◆今治市 大浜八幡神社奉納絵馬・部分 (嘉永5年1852)

◆大阪市平野区 杭全神社「平野郷牛頭天皇祭礼図」部分 (嘉永6年1853) 舁棒の備わっていない太鼓台。(関西大学・大阪都市遺産研究センター提供)

◆燧灘・伊吹島の新調見積り時の粗図面 (安政年間1856年頃) 大坂直結の太鼓台で、当時の太鼓台の規模が想像できる。

◆加古川市 厄除八幡神社奉納絵馬・部分 (安政5年1858 姫路・粕谷宗関氏提供)

◆今治市波止浜 龍神社祭礼奉納絵馬・部分 (慶応3年1867)  この太鼓台も舁棒が見当たらない。

(終)

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和唐内獅子舞衣裳

2024年02月15日 | 研究

昨年12月2日㊏に、地歌舞伎の衣裳や太鼓台に飾られていた古刺繍との関連を学ぶため、四国霊場・善通寺近くの財之神(さいのかみ)獅子組(財之神自治会)に伝わる〝和藤内の衣裳を見学させていただきました。

制作年代については記録が残されていないとのことで、全くの不明です。

唐獅子を遣う和藤内は、歌舞伎衣裳の四天(よてん)や陣羽織に似た衣裳を着用していて、刺繍された龍の細部が太鼓台古刺繍とつながってくるものと思われます。

(完)

 

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