新型コロナウィルス禍の影響で、各地のお祭りが連続して執行できない、のっぴきならない状況となっている。日々悶々として、〝コロナ禍が沈静化したあとを見据え、何かアクションを起こせないものか〟と考えている。そのことが今回の、自分を育んでくれた〝ふるさとの過去の太鼓台祭りが、どのようなものであったか〟の一側面を深掘りすることにつながった。最も忌み嫌う我田引水を極力排除し、確かな史実に基づいた客観性を拠りどころに、より自然体で追体験してみたい。勿論、皆さんには〝それぞれの自分なりの郷里の懐かしいお祭り〟があるはずですので、そのご理解の上で、他郷である観音寺祭を知っていただけたらと思います。
1.昔の観音寺祭(琴弾八幡宮の秋季大祭)
香川県観音寺市の琴弾八幡宮に奉納されている太鼓台のうち、これまでに分かった最も古い記録は、下に記した今から210年余り前の文化6年のもので、現在の3号・酒太鼓台に相当する。同地区内には、大人用と子供用2台の〝ちょうさ太鼓〟があったことが記録から分かっている。以下にて、観音寺祭の古い歴史を眺めてみたい。(奉納太鼓台は次々と増え、長らく7台であったものが現在では9台となっている)
◎以下より以前の〝太鼓台・登場〟記録は、全く判明していない。ただ、古い太鼓台と一緒に観音寺から伝わって来たと伝承されている超・年代物の胴長太鼓が、三豊市内某所の神社の宮太鼓(※)として、今も現役で使われている。いずれ、宮太鼓の張替え時などの折、太鼓胴内の制作した年号等が明らかになれば、以下の歴史の一部が書き換えられるかも知れない。
[太鼓のサイズ] 鏡面の直径63.5㎝、胴回り283㎝、縦の長さ86.5~88㎝、最も太い胴部分で直径約90㎝位。この太鼓には〝観音寺太鼓台の歴史〟が封じ込められている予感がする。
(※2024.8.10追記)この太鼓は、豊中町上高野豊姫神社の宮太鼓‥取材した当時に宮総代を務められていた方からの聞き取りにより、福岡太鼓台が大野原町・中姫から購入した太鼓台(1910明治43年製の観音寺・本若太鼓台。この太鼓台に付属していた下記⑤の掛蒲団保管箱は、旧太鼓台の保管箱であった)に積まれていた太鼓であるとのこと。本若太鼓台の確実な歴史は、1879明治12年までは遡れる。(下記⑤参照) 観音寺・琴弾八幡への太鼓台奉納順等の祭に関する諸事情からは、明治12年よりも更に少なくとも一世代(50年前後、下記①の1809文化6年頃まで)程度は遡ることとなりそうである。それ故に、この太鼓の胴内記録が判明すれば、観音寺にとっても近隣を含む太鼓台文化圏全体にとっても、歴史の確実性が担保されてくる。因みに、観音寺本若太鼓台に関する確認できた歴史の一端を、何らかのご参考になればと念じ次に添付しました。
①1809年(文化6) ‥近年になり「ちょうさ太鼓」ができたことが記録に残る。(琴弾八幡宮への奉納太鼓台では、現時点の確実な最も古い記録。現在の奉納順3号酒太鼓=殿町太鼓台を比定している)
②1823年(文政6) ‥蒲団下の装飾材・雲板を収納した「雲板箱」が現存する。(箱の規模からして、四分割された雲板であったと思われる)
③1845年(弘化2) ‥金糸製の注連縄4本を収納していた「本金糸注連縄・四筋」保管箱が現存する。(大阪へ行き買い求めている)
④1872年(明治5)‥三郷(坂本郷・柞田郷・高屋郷)代表者の協議の結果、今後の御大祭は観音寺村氏子のみで執行することとなった。(観音寺村は坂本郷の内にあり、坂本郷は観音寺村・植田村・出柞村から成っていた)
⑤1879年(明治12)‥本若太鼓台で使われていた掛蒲団収納箱が、明治43年製の掛蒲団・蒲団〆・水引幕と一緒に、転々売先の豊中町(観音寺→大野原→豊中)で保管されていた。(箱の底に「明治拾弐年 卯旧八月吉日 本太皷 南本若」と記載)
⑥1885年(明治18)‥三架橋が三架の太鼓橋から平面橋へ架け替えられた。この頃から、太鼓台が三架橋を通り、十王堂(御旅所、神事場じんじば)への宮入及び宮出しをするようになった。それ以前は、旧暦8月15日の一日だけ、大潮の朝・夕の干潮時に、干上がった川の中を、太鼓台を担いで宮入・宮出しを行っていた。現在唄われている〝農兵節〟や特徴ある〝掛声・太鼓の叩き方〟は、古老より〝太鼓台が川を渡っていた時代の名残り〟と聞いた。(町側の川降り場所は今の裁判所の前辺りで、石畳が扇状に広がっていた。神事場への登り口は、手水舎下の海岸で、裁判所前と同様の石畳が敷かれていた。当時、煉瓦橋はまだ無かった‥下記⑪項参照‥ため、財田川を斜めに横切るように渡った)太鼓台の奉納は15日の一日だけで、14日は観音寺の町を東西に、各太鼓台は町勤めを行った。勿論この時代は、終日ゴマを付けずに太鼓台を担いで行き来していた。
下の写真は、観音寺祭の太鼓台と関連が深い三架橋の歴史を振り返った古写真群。(色々な展示の際に、ちゃっかり撮影させていただいた。著作権等の問題もあるとは思うが、どうかご容赦のほどを) 三架橋が平面橋になるまで、太鼓台は通行できなかった。現在の三架橋を進むのは、伊吹島・東部太鼓台で、観音寺市市政50周年ちょうさまつり(2005.3.27・H17)の折のもの。
下段の画像は、最初のモノクロが元禄11年(1698)頃の財田川河口付近で、現在の町並みの多くは海中にある。当然ながら、太鼓台は無かった。2枚目のカラーは、大正3年(1914)頃の商工案内図であり、煉瓦橋が大正元年(1912)に架かり、太鼓台は三架橋を通っていた。太鼓台が川渡りをしていた明治中期頃の適当な地図が見当たらなかったので、本図を参考添付した。なお、琴弾八幡・神事場への上り口の場所は、一番最初の図(大きな太鼓橋であった図)の左端下、堤防らしきが切れている箇所辺りと思われる。後日、付記 御旅所・十王堂への川からの太鼓台昇降場所については、最後の2枚の画像(1枚目・雪の三架橋、大鳥居が見えることから昭和5年~10年の間の写真)の、橋の左手に雪のなだらかな坂となっている辺り(『金毘羅参詣図会』では「梅腋(脇)ノ濱・2枚目」と書かれている)がそうではないかと思われる。この当時まで、明治18年頃の光景が見られていたのだろうか。2022.10.27追記 明治初期のものではないかと思われる財田川~琴弾公園の手書き土地利用図が出てきました。(残念ながら、いつ頃にどこが作成したものかは不明です。同時に画像が小さくて判読不明な文字等が多々あります。小さな画像で判りにくいと思いますが参考添付します)この略地図には、「梅腋(脇)ノ濱」と思われる三架橋西側の石垣の欠けた部分が描かれています。また、その浜から左斜め下へ、川中を何やら〝川中の道〟らしきものが描かれています。まさか、これが干潮時に〝太鼓台が通った道〟だとは思いませんが、いかがでしょうか?(最後の画像。どうやらこの道と思しき痕跡は、図面を貼り合わせたあとと思われます)
※太鼓台が川渡りをしていた旧暦8月15日は、今年は2021.9.21でした。参考までに観音寺港での潮汐表と、午後6時過ぎの写真(仲秋の満月は曇って見えませんでした)を添付します。(数日前の台風の影響で、水が濁り少し水量も多いと感じた)
後日、付記 a.「琴弾宮旧記」(『琴弾八幡宮流記』362P)によれば、<御祭礼往古より八月十五日恒例に有之候處、明治7年(11874)より太陽暦十月六日規則となる>とあり、祭礼日の変更が為されたようである。今年の10月6日の潮時を見てみると、旧暦の8月15日とそれほど変わってはいない。(3枚目の画像) 観音寺祭の場合には、少なくとも三架橋が平面橋となる明治18年(1879)までは、染川(財田川)の川渡りで十王堂へ行ったので、果たして新暦で行ったのか、それとも旧暦をしばらく続けたのだろうか。わずか百年余り前のことが、この如く不明である。
b.大正11年(1922)頃の観音寺町の航空写真(コマ撮りした画像を貼り合わせて1枚の集成写真としたもの)が、ふるさと学芸館(観音寺市大野原町・旧紀伊小学校跡)に展示されていましたので、コピーさせていただいたものを紹介します。
⑦太鼓台は祭礼の時だけでなく、紋日や祝祭日にも出されていた。特に明治天皇の時代には、かなり多く出されていた。(古老の談) そう言えば、上記の写真(伊吹島の太鼓台が三架橋を渡っている手前の昭和3年の御大典の折の写真)を拡大してみると、太鼓台の蒲団とトンボが写っているようにも見える。(手水舎の向こう側と、その左側)
⑧1890年(明治23)‥この頃、近隣太鼓台の豪華刺繍の発展に大きく寄与した琴平の縫屋工房〝松里庵・髙木家〟が、西讃・東予地方の太鼓台隆盛に伴い、海上交通の便が良い観音寺へ工房移転してきた。(これにより、更に西讃・東予地方太鼓台の豪華に拍車がかかった)
⑨1909年(明治42)‥観音寺祭で太鼓台のゴマ(台車)が初めて使われた。(当時を知る古老からの聞き取りによる) それまでは、全て人力で担ぎ、移動していた。(台車が使われ、長距離の移動を苦にしなくてよくなったため、これ以降は、太鼓台の大型化に拍車がかかる)
⑩1910年(明治43)‥上記⑤関連‥2号の本若太鼓台(本太鼓)が造り替えられた。先代明治12年製に比べ、大幅に大きく、刺繍も肉厚になった。明治43年の太鼓台は、その後、⑤のように各所へ伝えられ、昭和52年当時の太鼓台写真が遺されている。(前2枚の写真、S52.10撮影) 続く虎の蒲団〆と記念撮影の写真は昭和9年(1934)製のもので、明治43年製の太鼓台と見比べると、昭和9年の新調に立ち会った古老が語ってくれたように「前のちょうさと寸分の違いなく造られた」のがよく理解できる。(昭和9年時の蒲団〆では、虎につきものの竹は、転売時に取り除かれている)
なお件の古老からは、観音寺祭の太鼓台は、明治42年頃までは〝台車(ゴマ)を付けずに、全て肩で担いだ〟と伝えられているので、この明治43年の拵え直しの太鼓台は、それまでの小型から、大型に変化・発展した〝先駆け〟的存在であったのかも知れない。
⑪1912年(大正元)‥煉瓦会社への物資運搬のため、三架橋の下流に煉瓦橋が新たに架橋された。(小学生だった65年ほど前‥昭和32、3年1958‥頃には、まだ粘土を一杯積んだ馬車が煉瓦橋を通っていた。子供たちが、悪ふざけで後方にぶら下がり、よく叱られたのを思い出す)
⑫1913年(大正2) ‥ 神事場の造成が行われ、6台の太鼓台(酒・本・中・坂本・上若・柳)が、〝石一艘・石一舩〟を寄進した。(石碑が残る)
十王堂広場の南面石垣には、太鼓台名が彫られた石(西側から、酒・本、中、坂本・上若、柳の6台)が埋め込まれている。また、近年まで十王堂内に建っていた十王堂造成時の石碑は、現在は玉垣の外(手水舎の外側近く)に移されていて、碑文には「舟(周)旋人」「大正二年十月建之」と、神事場造成の年を記録している。これらの石碑等からは、今から百年余り前の大正2年(1913)時点では「太鼓台奉納は6台」であったことが知れる。その後、柳太皷台が消滅し(その面影の一部は残存している)、南太鼓台・上市太鼓台が奉納参加し、長らく〝七つ太鼓〟として観音寺祭を華やかにそして勇壮に彩ってきた。平成になって茂木と社家の太鼓台が新たに奉納参加し、現在は9台となっている。
⑬そ の 他 ‥ 3号・酒太鼓台で使用されていた古いゴマが現存している。(琴弾公園内の郷土資料館にて展示中)
2.四国各地の主な太鼓台記録等
①1789年(寛政元)‥[大野原]〝ちょうさ太鼓〟 [伊予三島]〝神輿太鼓〟(それぞれ、現時点では四国地方での最も古い記録)
②1795年(寛政7) ‥[徳島県美波町日和佐]〝みこしたいこ〟
③1805年(文化2) ‥[伊吹島・東部] 島の3台の太鼓台で、西部に次いで古い。「蒲団枠保管箱」が現存する。(蒲団枠は四分割型、箱には、大坂の〝永代濱〟が記載されている)
④1806年(文化3) ‥[川之江]〝神輿太鼓〟が5台、川之江八幡宮へ奉納された。
⑤1808年(文化5) ‥[伊吹島] 最初にできたと伝わる西部太鼓台の拵え直しがあった。(最初の太鼓台の誕生は、これよりも40~50年前か?)
⑥1809年(文化6) ‥[観音寺] 近年に登場していた〝ちょうさ太鼓〟が、子供ちょうさと共に初めて記録された。
⑦1812年(文化9) ‥[小豆島・池田祭] 奉納絵馬が伝えられている。色違いの薄い3畳蒲団の太鼓台が5台描かれている。
⑧1813年(文化10)‥[琴平]〝輿太鼓〟4台が奉納されている。
⑨1822年(文政5) ‥[新居浜]での、初めての太鼓台記録。
⑩1839年(天保4) ‥[新居大島]中之町太鼓台「太鼓入用帳」 [伊吹島]南部太鼓台「太鼓帳」、共に太鼓台新調の記録。
⑪1858年(安政5) ‥[三好市山城町]大月太鼓台の蒲団の最上部に雲形紋の刺繍があり、その裏に年号が記載されている。
⑫1835年(天保6頃)‥[西条] 西条祭を描いた絵巻物2巻が伝承されている。みこし4台(蒲団を積んだただんじり)と、だんじり等が多数描かれている。
⑬1875年(明治8) ‥[詫間]〝明治期の基準太鼓台〟と目される箱浦屋台(太鼓台)が、完全なカタチで県立ミュージアムへ寄贈されている。
3.小さかった〝昔の太鼓台〟
江戸時代後期から明治前期(1790年頃~1890年頃)にかけて、この地方の太鼓台は、現在の太鼓台と比べると高さで約1m以上も低く、かき棒も細く短かったため、当然重量も軽いものであった。明治10年(1877)前後に、新居浜から広島県大崎下島の大長へ伝えられた2台の太鼓台は、幕末から明治初期に四国で造られた太鼓台。(そこで用いられた刺繍は、縫工房〝松里庵・髙木家〟の技法に酷似していた。松里庵3代目の髙木一彦師は、大長へは昭和53年に同道にて調査され、能地の古刺繍は後日実見された) 後年、その内の1台が、三原市幸崎町能地へ転売されたが、〝能地で飾られていた龍の古い蒲団〆は、大正末期頃に和田先(和田or和田浜のことで、現在の観音寺市豊浜町に相当する)で使われなくなっていた古物であった〟と、能地・地元の『豊田郡佐江崎村誌』に書かれている。2台(能地と大長)の太鼓台の高さは3m弱で、西讃・東予地方の〝明治期の基準太鼓台〟といわれる明治8年の詫間町・箱浦屋台で約3.2mであった。全高4m(トンボを除く)を超す現在と比べると、一回り以上小さく、当然のことながら軽量であった。(写真は、造られた時代の早い順に、左から三原市幸崎町能地の〝ふとんだんじり〟・呉市豊町大長の〝櫓〟・詫間町箱浦の〝屋台〟)
観音寺祭でも、太鼓台が三架橋が通行できなくて財田川を渡っていた明治18年以前には、恐らくこれらと同様規模の太鼓台であったと思われる。箱浦屋台の中央の舁棒で、現在のこの地方一般の13.5mに比べ、約9mしかなく、近年の太鼓台大型化までは、どの太鼓台の舁棒ともかなり細かったので、総重量は現在に比べ、半分にも満たなかったのではないかと思う。(現在の大型の太鼓台重量≒2.8t~3.2t)
4.太鼓台の広がりと、太鼓台の種類及び発展について
「どのような太鼓台が、どこに、どのように分布しているのか」については、近年までほとんど知られていなかった。その理由は、太鼓台文化に関する情報量の絶対的な不足や、研究者の少なかったこと等が挙げられる。①太鼓台にはさまざまなカタチがあり、②地方毎に呼び名が異なり(ちょうさ・だんじり・やっさ・せんだいろく・四つ太鼓・やぐら・こっこでしょ等)、③各地それぞれが〝自地区の太鼓台が一番〟との排他性を持つことが多く、その結果として④太鼓台文化は〝各地が関連し合う一括りの同じ文化〟との理解や共通の認識が得られず、残念ながら、伝統文化・太鼓台全体としての歴史解明が遅れたものと考えられる。
太鼓台文化に関するこれまでの状況がこのようであったため、太鼓台にはどのようなカタチや種類があるのか、また各地同士の関連や、太鼓台が時代と共に発展してきた状況等に関しても、よく分からず、なかなか文化の全体像が理解できなかった。上図の分布概要や発展想定図は、私自身が各地の太鼓台を実見したり問い合わせする中でまとめたもので、決して我田引水とならないよう、特に客観性と公平性には留意して作成している。
5.人口減少・超高齢化社会の厳しい現実に、〝伝統文化・太鼓台は、立ち向かう〟ことができるのか。
新調すれば1台が数千万円もする太鼓台を、120台近くも有している地方都市は、太鼓台文化圏の中でも観音寺市しかない。厳しい人口減少や超高齢化社会到来が間近に迫るこの時代に、私たちは、困難とも言える「地域社会の存続」と「伝統文化の継承・発展」の両方に立ち向かい、ふるさとを奮起させ、乗り越えて行く必要に迫られている。子供や若者が減り高齢者主体のコミュニティーとなっても、大切な地域と太鼓台文化とを、見事に後世へ申し送りたいと思う。その方策はあるのか、一緒に考えていかなければならない。
先人から受け継いできた太鼓台文化に誇りを持ち、この文化を通じて地域を活性化し、住みやすいコミュニティ作りを成し遂げること。他方で、広大な太鼓台文化圏のトップランナーとして、社会や文化圏全域に積極的な関わりや貢献をし、各地から多くのリピーターを得て、好感を寄せていただける観音寺市となること。このような広角的とも言える、内と外からの思考目線は、常に身近にあり誇りとしている伝統文化・太鼓台を抜きにしては、到底考えることはできない。
私たちの身近には、「いつも、太鼓台がある!」のです。その意味するところは、太鼓台を支えている市内全域の多くの人々にとっては、〝太鼓台につながる努力や苦労であれば、少々困難が伴っても力を合わせ、案外容易に取り組むことができ、パワーも発揮できる〟という日常茶飯の体験を日頃から有し、太鼓台文化をきっかけにするのであれば、取り掛かり易いということを意味しています。即ち、太鼓台を通じてならば〝コミュニティを活性化することも可能であり、好感や尊敬が寄せられる観音寺に変身することも可能である〟という、私たちがこれまで殆ど気付かなかった〝伝統文化・太鼓台の活用〟を通して、「身近な太鼓台文化の効用」を、大きく感じることができるのです。(この間の具体的活用例については、[太鼓台文化を仲立ちとした、「貢献・信頼・交流」のキャッチボールを!]をご参照ください)
文化遺産として、先祖から大切に受け継がれている120台近くの太鼓台に対し、私たちは真剣に向き合っていくことが必要だと思います。コミュニティやふるさとの存続が〝どうにもならなくなってしまってからでは、遅い〟のです。お互いが、〝太鼓台とならば、私たちはここまで出来るのだ!〟ということを信じあい、「私たちと太鼓台文化との関わり方のあるべき姿」に、もっともっと楽しく真剣に向き合いたいものです。
最後に、近隣各地の太鼓台分布状況を示しておきます。このグラフは、〝1台の大人用太鼓台を、男女を問わず赤ちゃんからお年寄りまで、何人が関わって維持・運営しているか〟を示しています。市域全体の平均では、1台の太鼓台を500人足らずで守り伝えていることになり、これは驚くべき数字です。以前から叫ばれている〝元気印の太鼓台(文化)を活性化の中心〟に据え、今一度太鼓台文化を見直し、人口減少や超高齢化社会の厳しい時代到来の、市やコミュニティの活性化に、市民総出で取り組みたいものです。
(終)