太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

「これからの地域社会と太鼓台文化」について~香川県観音寺市を一例として~

2019年04月20日 | 随想

観音寺市は瀬戸内海中央部、四国・愛媛県東部(東予地方)に隣り合わせ、燧灘に面しています。現在の人口は6万人弱、人口は減り続け、高齢化率(65歳以上の人口割合)も毎年上昇を続けています。大合併前は、豊浜町・大野原町・観音寺市の3つの市・町が行政単位でした。この旧・3地区の文化的共通点として特筆されるのは、お祭りの奉納物“ちょうさ”(太鼓台)が、各地区毎に大人用110台余りが大切に継承されていて、全国的に眺めても(太鼓台は西日本にのみ分布する伝統文化であるが‥)、最も太鼓台の密集した地域であることです。

全国津々浦々、ご他聞に漏れず〝地域活性化〟と〝伝統文化の後世への継承〟は喫緊の課題となっています。ここ観音寺市でも、市民の間からようやく将来の在り様を危惧する声が上がり始めました。太鼓台などの伝統文化を保有する地域は、観音寺に限らず、将来の地域と文化の在り様に、大いに悩んでいるのが現状だと思います。本論では、このような地方都市・観音寺を例にして、「地域社会と太鼓台文化」について述べてみたいと思います。ここでは観音寺市を例示していますが、皆さんが住む◇◇◇と読み替えて、一緒に考えていただきたいと思います。

これからの時代は、人口減少や超・少子高齢化がますます進み、間違いなく若い世代の少ない〝高齢者社会〟となります。地域の中では、コミュニティの維持や伝統文化の継承など、従来からの密接な生活基盤の活性化や発展が、大変に難しくなってきます。特にこれと言った特徴のない地方の小さな町では、都会よりも人口減少・高齢化は早まっており、既に65歳以上の高齢者が多い〝高齢者社会〟となりつつあり、私たちの周囲の自治会でも、高齢化率が40%以上を超えているところが目立つようになってきました。地域の活力や伝統文化・太鼓台の伝承等に対し、既に赤信号が灯りつつあると言っても過言ではありません。地域も伝統文化も、後継者が少なくなり高齢者ばかりになってしまえば、盛大な太鼓台祭りを今に誇る〝太鼓台・先進地〟も、自分たちの伝統文化や地域社会を維持していくことさえ困難になってくるのも、当然のことです。

「地域社会の活性化と、太鼓台文化の伝統継承」については、その双方が成り立っていくように、私たち自身が早急に取組まなければならない大変大きなテーマです。私たちの地方には〝太鼓台しか、ない〟と決して悲観せず、パワー溢れ、地域活性化に益する〝太鼓台が、ある!〟と楽観して、かなり思い切った<飛躍的?な思考>をしていかなければならないと思います。古くからこの地方では、幾多の人々が、厳しい日々の生活や政治・宗教に優先して、地域の〝宝物・象徴・よすが〟として、日常の中に太鼓台を棲(す)まわせてきました。人々の原風景の中には、等しく伝統文化・太鼓台が存在しています。この地方はこれまでのように、太鼓台が豪華になることばかりを優先して考えるよりも、自分たちの足下を照らし、太鼓台文化そのものを深く掘り下げ、伝統文化を見直すことによって、太鼓台文化を、一致団結できる地域活性化の〝起死回生の妙案〟にしていくことを考えるべきではないでしょうか。この地域で生きている太鼓台を、年に数日、お祭りの時期だけに活用するだけでは、余りにももったいない話だと思います。太鼓台文化圏では2300万の人々が生活しています。私たちもその中の一員です。〝先人からの賜り物・太鼓台〟があることに、安心と感謝の気持ちを持って、文化圏の人々と手を携えて、この文化を更に掘り下げていかねばならないと考えています。

(以下は、2019.4.24(水)に香川県観音寺市室本町の「つくも塾」で開かれた講演会のレジメと補足の資料等です)

                                                      

「これからの地域社会と太鼓台文化」について

1.そら寒い近未来の地方社会
(1)超少子化・超高齢化・人口減少・勤労者不足・後世へのツケ・地域間格差・限界集落等々‥厳しい現実  
①「超少子・高齢社会」が容赦なく地域を覆う。人口減少は今後も続き、殆んど改善する見込みはない。
②高齢化率(65歳以上)は次第に高くなり、既に4割近くに達している。(地方の自治会では超えているところが多い)
③深刻な「老齢者社会」が始まる。(特に地方では、人口減少による影響が都会より相当早く出てくる)
医療や社会保障費の増・災害や安全への備え・老老介護・独居老人等、課題が山積している。今後のコミュニティの存続や伝統文化継承の危機にも直面している。更に、私たち現役世代が地域を支えきれなくなってくる等が、大きな社会問題となってくるものと思われる。
(2)厳しい近未来、予測される危機打開への「起死回生の妙案」は、果たしてあるのだろうか?
①私たちは、地域社会の総力を結集して「妙案」を探し出し、「目標」を定め、地道に確実に、「前進」していくしかない。
[選定の要素]
(a)地域の誰にも身近な存在であり、且つ地域のよすが・宝物・象徴として大切にしているもの。
(b)豊浜と大野原と観音寺の市内3地域の老若男女全てが、心を通わせ、一つになれるもの。
(c)政治や信仰の問題を超越し、人々の心の奥深くへ自然に入り込めるもの。
 ※以上を全て満たすものが、互いに意見もまとめ易く、協力し易く、実行もし易い。
②[妙案は、太鼓台]‥親しまれている太鼓台を活用することで、困難を打開し、地域も活性化できる-身近な太鼓台文化を、多方面で究める。太鼓台やコミュニティは、これからも地域社会の中で無くしてはならない、この地方では必要不可欠の存在。
 
2.地域の現状を私たちの世代は、どのように認識し、計画を立て、打開いくべきなのか。「太鼓台文化の活用」と「前進」について考える。
①地域社会と太鼓台とは車の両輪。上手く噛み合わないと、どちらも衰退・消滅の憂き目にあう。高齢者社会=老齢者社会に突入しようとしている今、大きな曲がり角にある。
②双方活性化を思考する心構えとしては、これまで以上に、かなり思い切った「飛躍的思考」が必要になってくる。
・「太鼓台のふるさと・先進地」を積極的に受け入れ、「太鼓台文化・日本一」(決して「太鼓台が日本一」ではない)を目指し、努力する。
・「太鼓台文化・貢献都市=観音寺」を掲げ、常に観音寺が太鼓台文化に貢献している姿勢を鮮明にし、且つ発信し続ける。
・強いリーダシップを得るためには、文化圏各地との距離を縮めていくことが必須となる。(相互理解や相互信頼の推進)
・太鼓台文化圏は思いのほかバラバラな文化圏であり、抱えている弱点も多く、先頭に立つ旗頭となる自治体(トップランナー)が出てこない。
③何を実施し、文化圏各地へ貢献していくのか。どのようにして各地から好感を得、観音寺のリピーターとなっていただくのか。
・「学びの大切さ」を発信していくことが重要。各地間の偏見や我田引水は、文化の理解不足や無関心・欠如から生じている。そこを解消し、各地が互いに尊重されなければ、太鼓台文化圏としての団結や発展は期待できない。
・「太鼓台文化専門図書館(室)」開設や「ウェブ発信」の開始等は、かなり簡単に始められると考えている。
・学びを支援する仕組みづくり(太鼓台文化の出前講座)や信頼される情報提供は、他地方のためだけでなく、観音寺の人々にも絶対に欠かせない。
・この文化圏に人知れず遺されている貴重な太鼓台文化遺産を「常設展示」して、「歴史・伝統を愛でる贅沢」を、観音寺から各地へ向けて発信・提供できないか。これは、各地に眠る歴史遺産に陽の目を当て、文化に誇りを持つための一助になる。
④文化圏各地が「究極の観音寺応援団」になっていただくことと、それに見合う「観音寺からの貢献」は、表裏一体の関係にある。
 
3.太鼓台文化圏と共に生き、私たちの地域と文化圏各地が「共に輝く時代」へ- (まとめ)
特徴の乏しい地方都市・観音寺で、この地域が大同団結して力を発揮できるもの。
それには、全ての市民が「太鼓台のふるさと・先進地」と自負する伝統文化・太鼓台に向き合うしかないのではなかろうか。
地域皆がこぞって心を寄せ合えるものがある幸せに、私たちは感謝したい。
厳しさ増す近未来に、この地域には「太鼓台しかない」のだと思う。
いや、「太鼓台がある」と訴えたい。
2,300万人規模の同一文化圏の人々との間に、好感・信頼・貢献の精神的交流を活発にしたい。
信頼感あふれる「協調と共生」の関係を連帯して構築していきたい。
そのためには、他地方の太鼓台や地域事情に精通し、共通する太鼓台文化を真剣に学ぶ必要がある。
先頭に立つ文化圏の旗頭(トップランナー)としての強い気概を持ち、広大な地域と繋がっていかなくてはならない。
「地域が活性化する」というのは自分たちだけでなく、関係する全ての地方にも活性化が連動していって、初めて言えるのではなかろうか。
各地と観音寺「双方、共に輝いて」こそ、広大な文化圏の存在意義や太鼓台文化の真の解明につながってくるものと思う。
私たちは、絢爛豪華な現状を謳歌するだけに太鼓台を使ってはならない。自分達の太鼓台を、行き過ぎて自慢してはならない。
待ち受ける近未来の困難にこそ、観音寺も文化圏の各地も、運命共同体として共に考え、互いの太鼓台を活かせる活性化策を講じるべきだと思う。

[補足資料]

人口ピラミッドの推移。戦後のベビーブームで生まれた70歳世代が、頭でっかちとなり、ますます増加していく状況がよく理解できる。

日本の総人口の長期的推移。この種の統計は各機関のもので多少の違いはあるが、このグラフはとても分かり易いと思う。

何回も出てくる「太鼓台文化圏」の略地図。本稿で出てくる「観音寺市」は、香川県の西端で燧灘に面している。太鼓台密度(1台の太鼓台に対する人口割合)は極めて高く、530人を割っている。(2019.4.1の人口60,292人、大人太鼓台約114台。因みに香川県全体では、人口約96万人・太鼓台約370台で、約2,600人/台となっている)

下の略地図は、2016年にユネスコ無形民俗文化遺産に登録された、太鼓台と同様な祭礼文化の「山・鉾・屋台行事」の分布地(新聞発表から私製したもの)です。上の太鼓台文化圏の略地図と見比べていただきたい。そう、そっくり太鼓台部分が抜けていると思いませんか? 決して、伝統文化のユネスコ登録が羨ましいとか、登録を望んでいるとかを言うつもりはありません。私は、太鼓台文化が「欠け落ちている理由」や、ものの見事に「無視されている?根拠」を、突き詰めたいのです。太鼓台文化は、他の祭礼奉納文化と比較して、何が不足し、なぜ説得力に欠けているのか。そこの部分が、とても重要なこの文化のキモなのだと考えています。言わば、2,300万人に支えられている伝統文化な訳です、太鼓台文化は。でも、正確な納得のいく歴史は、全く明らかではありません。もういい加減で、この不条理な伝統文化の扱いから脱却すべきではないでしょうか。そのためには、何が必要なのか-。この文化に関わる一人ひとりが、真剣に考えなければならないテーマだと思います。

こちらもよく出てくる「太鼓台の発展想定図」。現時点での私たちの地方の太鼓台は、最も発達しきったカタチである。但し、その恩恵に見合う文化的貢献は全く不十分で、「これから」であると言わざるを得ない。

※本件記事と関連する発信として、講演に用いたプロジェクター画像がありますので、ぜひご覧ください。

(終)

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「フトン(型)太鼓台」の「フトン」表記は、「蒲団」なのか、それとも「布団」なのか。

2019年04月12日 | 研究

「蒲団」と表記するべきなのか、「布団」なのか-。

単なる漢字表記や旧字云々だけにとどまる問題ではない。私は強い意識を持って、「布団」ではなく、「蒲団」を用いている。

ここでは、小川光賜氏と森岡貴志氏お二人の探究を紹介し、「蒲団」と「布団」との相違点の確認と、私が「蒲団太鼓」と主張する理由について説明したい。

○小川光賜氏‥『寝所と寝具の文化史』(S59刊、P149~)

(中略)今日ではフトンのことを蒲団とも書きまた布団とも書くが、布団は比較的後世の当て字で、本来は蒲団と書くが、それは蒲(がま)を材料とした円形の敷物であったからである。(中略)つまりここでいう蒲団とは坐禅のとき、禅僧がお尻の下にあてがう小型の坐蒲団であった。それはふつう、径1尺2寸、周囲3尺6寸の円形で、中にパンヤなどを入れて弾力をもたせたものであったらしい。(中略)現在でも、フトンのことをなぜ蒲団とかくのかという理由がわからないまま、布団、蒲団の字が混同されることが多いし、じっさい問題としても、禅坐の用具であった蒲団と、江戸時代このかた寝具として一般に使われてきた蒲団とは、同じ字でよばれるにはあまりにも違いが大きすぎる。(後略)

○森岡貴志氏‥「蒲団」の研究-漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」

※ 漢語交じりの長文ですが、蒲団を考える上で大変参考になる論文だと思います。(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/06/morioka.html)

森岡氏論文と小川氏著書とを引用・参考にして、「蒲団」という言葉を箇条書き的に要約・深読みしてみた。

①「蒲団」の漢字は中国伝来の漢字で、平安時代から文献に見えていた。その時代には「ワラフタ」と訓じられていた。

②蒲団は、中国でも日本でも、元々は禅僧が座禅用の「座具」として用いた円形の敷物であり、蒲(がま)や麦藁(むぎわら)を編んで作られていた。

③日本で蒲団の漢字を「フトン」と音読するようになったのは、恐らく鎌倉時代中期頃とみられる。

④日本において、蒲団の意味が座具から寝具を指す言葉へと変化するのは、安土桃山時代(1500年代の終り頃)とされている。(「夜着(よぎ)」&「蒲団」で上・下の寝具一式となる。夜着は上掛けの夜具で襟付き・袖付きのもの、蒲団は敷蒲団を指す)

⑤「蒲団」の漢字は、日本では座具から寝具を指す言葉として、日本独自で変化して用いられるようになったが、中国では一貫して座具としての漢字であり、寝具には蒲団の字が用いられていない。

⑥木綿の最初の種綿栽培は失敗したが、2回目の種綿が中国からもたらされたのは室町時代(1392~1573)末期で、木綿生産は安土桃山から江戸時代初期に始まり、江戸時代を通じて各地に定着していった。

⑦寝具の蒲団が登場してくるためには、大量の綿と、それを包み込む木綿布地の生産が必須であった。

⑧江戸時代における蒲団は敷蒲団のことを指し、掛蒲団はまだ登場していなかった。

⑨「布団」という語は、江戸時代後期(1800年頃)から文献に出ていて、最初から「フトン」と音読され、寝具として認識されていた。

(参考;綿と木綿及び木綿布との関係]  綿は綿花から種を取り除いた塊を言い、木綿及び木綿布は、綿から取り出した木綿糸を材料にして製品化したものを言う)

<1>「蒲団」という漢字や座具は中国伝来のもので、さまざまなカタチをした全ての太鼓台が誕生する以前から存在していた。

<2>中国から伝来した時代より江戸時代初期までは、蒲団とは座具であり、蒲や麦藁でできた円形のものであった。(「布団」という漢字や製品はまだなかったか、少なくとも世間一般的な存在ではなかった)

<3>「蒲団」の漢字が、円い「座具の蒲団」の意味から、方形の「寝具の蒲団」の意味へと変化したのは江戸時代初期以降であり、その当時の「蒲団」とは、敷蒲団を指す語であった。

<4>寝具の蒲団‥最初は敷蒲団、後に上方では大蒲団(掛蒲団)にも‥の中身に多量の綿を詰めるためには、木綿が大量に栽培されなければならなかった。(しかし綿は高価であったため、一般への普及は、外綿が大量に輸入されるようになった明治中期以降を待たざるを得なかった-明治29年に「綿花輸入関税の撤廃」法が成立)

<5>この時代における「寝具の蒲団」の地方別相違については、西日本では主に「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団の前身&敷蒲団)が使われていて、東日本では「大蒲団」は使われず、西日本より遅くまで「夜着(よぎ)&蒲団」の時代が続く。

<6>「布団」という寝具を指す漢字は比較的に新しく、木綿布の生産と相まって一般化していった。

 以上述べたように、「蒲団」とは座具から寝具へと変遷したものであり、当初の「寝具の蒲団」とは敷蒲団のことを指し、西日本では、東日本より一早く「大蒲団&蒲団」(現在の掛蒲団&敷蒲団の様式)に変遷している。西日本と東日本の蒲団のカタチにおける相違点は、西日本が上下どちらの蒲団も方形であるのに対し、東日本では今しばらく夜着を用いていた。

 実は、この大蒲団と夜着のカタチの違いが、東西日本の太鼓台文化の広がり(東日本は皆無、西日本に多量分布)に、決定的な濃淡をつけたと私は考えている。客観的に眺めても、太鼓台文化圏の分布の主流は、「蒲団型」の太鼓台が担っていると言っても過言ではない。綿入りの高価な蒲団を売って利益で潤うのは誰か。その蒲団の宣伝効果を、知らぬ間に担うこととなっていたのが、私たちの蒲団型太鼓台ではなかったか。これまでに太鼓台の受け入れた側からの探究はかなり進みつつあるのは確かだが、その反対側からの専門家的視線―即ち、太鼓台の売り手側(大坂・大店の呉服商)からの文献等による探究―も推進していかなければならない。まさに、各地の太鼓台が華々しく登場してくる時代こそが、畿内及び各地の綿生産の拡大・高価寝具としての蒲団の大量普及と深く関わっていたことが理解されてくる。

章の終わりに、次の表を示し、寝具の「蒲団」と太鼓に採用されている「蒲団」について考察を深めたい。

※本件記事は、『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015.3刊)に発表の、「太鼓台文化の共通理解を深める~蒲団構造に関する一考察から」(72~107P)をベースにして作成した。

※2025.1.13追加投稿

私が〝フトンを積み重ねた太鼓台〟を、布団型太鼓台ではなく、蒲団型太鼓台と記す理由

①蒲団型太鼓台の登場記録は、四国地方では18世紀末期になってからであるが、その先進地・供給元であった畿内地方では、それよりも早い。

②寝具革命・衣服革命などと称され、社会生活に大変革をもたらした綿花栽培の成功は、それまでの日本人の生活を一変させた。そこから生まれた様々な新製品は、それだけインパクトのある〝革命的・新製品〟と位置付けられた。上表で示した「蒲団」がその最たるものである。綿をふんだんに使った蒲団は、高額ではあったが間違いなく庶民の高根の花であった。

③神仏に用いられた蒲団(これは現在の敷蒲団に相当する。掛けて用いる大蒲団・掛蒲団ではない)は、最初は神聖な神仏が用いる坐具(座る時の重ねられた敷物)として位置づけられていた。各地の蒲団型太鼓台登場と同時期か、それ以前と考えられる祭具の蒲団(椅子に重ねた蒲団を積む〝曲録=きょくろく〟や馬の背に高く蒲団を積み重ねた〝高荷馬や飾り馬〟、お船などに積まれた〝蒲団〟及び次④項の刺車紋錦御被の〝箱輿〟など)の存在が、坐具としての蒲団であることを物語っている。決して現在と同様の寝具としての布団(掛布団+敷布団)ではなかった。

④伊勢神宮・外宮の刺車紋錦御被(秘紋;さしぐるまもん・にしきのみふすま)に刺繍された〝箱輿〟を、神様が休まれる高価な寝具の〝布団を運ぶ宝車〟であると、勝手に坐具と寝具との異なる関係性を、さも両者とも同じ寝具であると関連付けをしたのは、一体誰であったのだろうか。この点が蒲団型太鼓台の誕生や、その後の流行の謎を解く最大の解明点としならなければならない。

⑤私は、伊勢神宮・外宮の刺車紋錦御被に刺繍された〝箱輿〟の存在が、蒲団型太鼓台と蒲団との関係に決定的な影響を与えたと考えている。この刺車紋錦御被の箱輿は、一見すれば蒲団を積んだ寝具のようであるが、そうではなく神様に供える神饌を入れた重箱のような運搬用の箱であるとされていて、上が幅広く下が狭く、区切られた七段重ねとなっている。それは、ちょうど現在の太鼓台に積まれた蒲団部のような形状になっている。(当初の蒲団型太鼓台は、3畳や5畳を積み重ねていたと推測する)

⑥高額な蒲団型太鼓台を各地へ広めていった大坂商人(特に呉服商人)の、利潤獲得への商魂に深く感心させられる。伊勢・外宮の箱輿に積まれた神饌入りの箱を、各地の所の氏神様が休まれる寝具の布団と解釈すれば、各地の氏神様が、伊勢神宮と深くつながり、否が応でも〝神宮の箔やご利益をいただく〟ことになる。伊勢参宮の大流行や、代参に見られる各地無数の伊勢講の存在が、「箱を、蒲団(布団)に読み替えること」を後押ししたのだとも言えるのではなかろうか。これにより、本来は箱であるべき秘紋が、人々にとって都合の良い、神様が休まれる布団(最初は坐具としての蒲団であったかも知れない)へと、意識されるように取って代わった。

⑦また、③項で引用したブログでは、人々に身近な糸店の立体看板や糸巻の画像を示したが、彼ら商人は、伊勢外宮の秘紋を扱う同じ同業者仲間の末端業者として、〝秘紋でありながら、その存在を熟知していた〟ものとしなければならない。

⑧箱から蒲団(布団)に転換された身近な看板等からは、蒲団型太鼓台の蒲団部の次なる発展の芽吹きが読み取れる。すなわち〝本物蒲団型から鉢巻型を経て枠蒲団型〟への発想・発展の気付きである。

以上から、「フトンは、本来的に寝具用の布団ではなく、坐具の蒲団である」との考察に至る。ならば、上表の夜着や大蒲団との関連、すなわち〝寝具としての上布団・掛布団の登場は、蒲団型太鼓台の登場よりも遅い〟ということになる。先ず最初に坐具としての蒲団があって、その後に寝具の布団の流行に伴うカタチで〝布団型太鼓台〟が登場することとなった。それ故、坐具の〝蒲団型太鼓台でなければならない。布団表記は時代的に早過ぎるし、坐具の蒲団表記こそが的を得ているとの結論に達する。

 (終)

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「太鼓台」表記の初見について

2019年04月04日 | 研究

特徴ある呼び名を持つ各地の各種太鼓台等に対し、標準語的扱いで「太鼓台」と正規に記録されだしたのは、一体いつ頃のことなのだろうか。太鼓台文化圏の人々にとって、各地で異なる名称にて同じ文化を論じ合うことは、甚だ支障となるのは論を待たないと思う。「太鼓台」を標準語として認知しておかないと、今後的な太鼓台研究の足並みの揃ったスタートが切れないのではないかと思う。「太鼓台=標準語」と看做すことを、今直ちにやっておかないと、私たちは前に進めない。証明できる史料等を見つけ出すのは至難のことだと思うが、客観的に理解できる古記録や遺産などが無いものかと長く思案していた。そのような矢先、姫路市・粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊 442、439㌻)に出会った。

実は多様な太鼓台呼称の実相こそが太鼓台文化の本質であり、文化謎解きの手がかりとなる先人たちからのメッセージでもあると考えているが、その反面、各地の太鼓台が独立独歩や我田引水を決め込む独善的下地となっていることも間違いのない事実である。これまで大なり小なり各地が独善的我田引水を決め込んできたことによって、私たちの太鼓台文化は大いに害されているのは間違いない。

私たちは、未だに太鼓台文化理解の入口に立ち入った段階でしかないのだが、太鼓台の分布状況・その体験人口や影響力等に思いを巡らせても、現状の太鼓台文化の規模に対し、文化的評価や太鼓台が人々に影響するパワー等については、余りにも軽微な扱いしか受けていないのではなかろうか。伝統文化の客観的史実の解明に際し、独善・我田引水ではなく“太鼓台文化圏の仲間同士の協同作業”によって、遠隔の互いの文化を比較し論及しあうことが間違いなく重要であり、そうした一歩一歩の歩みこそが太鼓台文化圏を広く知らしめる方策になっていくはずである。広大な太鼓台文化圏の解明を、ごく少人数の人々に託していたのでは、恐らくこれまで同様、その解明は遅々として進展していかないのではなかろうか。明治維新以降、太鼓台文化は中央学会からも無視されてきたと思うし、東京一辺倒の現在においては、なお西日本の地方文化でしかないかのごとく軽視されているのだと感じずにはいられない。この文化圏の大勢の人々による協同作業で、これまでのモヤモヤを打破し、太鼓台文化圏としてまとまりのある文化解明を期待したい。

 

さて「太鼓台」表記の初見であるが、屋台(神輿屋根型太鼓台)新調時の大工図面が、上記・粕谷宗関氏の著作によって見い出された。氏によると、この図面は姫路市・魚吹(うすき)神社の宮田村と津市場村の2台の屋台が大坂(大阪)で造られた時のものと伝えられている。その折の大工さんが書いた図面ではないかとのことである。共に「太皷臺」と表記されている。掲載された神輿屋根型の屋台部材の写真では、「天保五年 午十二月 宮田村太皷臺」、「天保十亥八月作之 津市場村太皷臺」と書かれている。共に神輿屋根型の屋台(太鼓台)であるので、「太皷臺」と表記されていることに意義深いものを感じる。(画像は上記著作の442・439㌻よりコピー・転載させていただいた)

(終)

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太鼓台‥分岐・発展へ(5)

2019年04月04日 | 研究

[蒲団型]の続き

10.枠蒲団型・各辺分解枠型-蒲団枠の各辺がバラバラな構造をしている太鼓台で、鉢巻蒲団型の改良型として登場したと考えられる。蒲団部の恒常的部材として、それまでの長い鉢巻を四辺に四分割した「改良された鉢巻四辺型」というような太鼓台が出てくる。前4における須々万・熊野・明石穂蓼八幡・奈良南北三条の形がそれである。

・愛媛県長浜町磯崎の「四つ太鼓」

     

・愛媛県保内町櫛生の「四ツ太鼓」

・観音寺市伊吹島の「ちようさ」

11.枠蒲団型・各段分解枠型 四辺バラバラ蒲団枠が一段作りに発展する。

・倉敷市下津井松島の「千載楽・せんだいろく」

・笠岡市入江の「千載楽・せんだいろく」

・倉敷市玉島柏島の「千載楽・せんだいろく」

・愛媛県中島町津和地島(現・松山市)の「だんじり」

・三原市幸崎町能地の「ふとんだんじり」

    

・愛媛県魚島(現・上島町)の「だんじり」

・福山市鞆の浦の「ちょうさい」

・広島県倉橋島室尾の「だんじり」

      

・広島県大崎下島大長(現・呉市)

・愛媛県愛南町福浦

12.反り蒲団型  蒲団の四隅が反り上がった形態のもの。蒲団〆で柔らかい蒲団部全体をしばった際に、跳ね上がる状態をそのまま伝えたものか。

・愛媛県愛南町久良の「四ツ太鼓」

・琴平町の「ちょうさ」

・明石市の「屋台」

・京都府木津市の「御輿太鼓」

      

・加西市の「屋台」

・高砂市の「屋台」

※現在各地で見られている、祖型的な太鼓台から徐々に発達していったと考えられる太鼓台の形態の概要は、「太鼓台-分岐・発展へ(1)~(5)」のとおりです。勿論まだまだ紹介しきれていない地方の太鼓台も多くあると思いますが、今後のブログの中で追々紹介できればと考えています。

※次の段階として、各地で大切に遺されてきた奉納絵馬などの「絵画史料」を、別稿で紹介したいと思います。写真機などがなかった時代、太鼓台はどのように描かれていたのでしょうか? 大変興味の沸くテーマだと思います。

(終)

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太鼓台‥分岐・発展へ(4)

2019年04月04日 | 研究

[蒲団型]続き

9.鉢巻蒲団型-本物蒲団の欠点(長期保管時に形態保持が困難・高価等)を解決する方法を考えると、外観的には「本物蒲団同様」に見せられること、保管上は「省スペース」であること、高価な綿を使わず、身近な藁や籾ガラ・古綿などを代用して「真新しい蒲団」のように拵えられること等が、鉢巻蒲団型の採用に至った経緯ではないかと考えられる。小型太鼓台が主流であった時代には、蒲団部の強度はまだ問題ではなかったと考える。(次の蒲団枠型移行への過渡的存在)

・周南市須々万(すすま)の「揉み山」 4本の藁の棒状であるが、旧態は下写真の種子島の太鼓山のように、1本の長い藁の輪であった。輪に拵えるよりも棒状の方が拵え易い。

・種子島・西之表市の「太鼓山」(古くは「ちょっさー」) 旧態は一回り小型であったと聞く。毎年新しく拵えると聞いた。

 

・丹後半島の「だんじり」 もみ殻を袋詰めし蒲団に見せている。木箱を巡らす。蒲団中央部はこんもりと作る。(竹籠を伏せている地区もある)

 

・佐田岬半島・伊方町川之浜の「四ツ太鼓」 丹後と同様な木箱を採用している。蒲団部は両端を縫い合わせ輪状に拵えている。

・たつの市千本の「屋台」 蒲団部の真ん中には木箱が収められている。(2枚目写真。台の箱は使われなくなった以前の木箱)

・愛媛県保内町雨井の「四ツ太鼓」(現・八幡浜市) 美しい鉢巻蒲団型太鼓台。鉢巻・竹籠・箱・密封などが、このカタチの太鼓台の要素。

・三重県熊野市の「よいや」 蒲団部には組み立てる際の工夫が見える。熊野でも籠を使っている。

    

・明石市・穂蓼八幡神社(ほたで・ほたて-)の「屋台」 蒲団部の中は木箱などを使わず空洞になっている。蒲団締めできつく縛りカタチを整えている。

 

・奈良市・南北三条太鼓台 明石の屋台に木箱を採用したカタチであろうか。

(終)

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