◎近隣各地の太鼓台記録
香川県観音寺市大野原町(旧・三豊郡大野原町)の太鼓台は、寛政元年(1789)には既に登場している。大野原八幡神神社「御神事行烈入用覚帳」(享和2年1802)の中で、「一 ちょうさ太皷 小山 寛政元酉年始 同七卯年ゟ(より)同九年迄休 同十午年出来 十一十二休 又享和元酉年(1801)始ル」とあり、寛政元年に新たに奉納行列に参加した〝ちようさ太皷〟は、最初の12年間では大雨や干ばつなどの自然災害のためか、奉納と休止を繰り返していたようである。
大野原のこの記録は、太鼓台が盛んな西讃・東予地方では伊予三島の〝神輿太皷〟新造と同年の記録(「神輿太皷扣覚帳」寛政元年、上画像右端)で、これまでに知られている近隣各地の古記録等の中でも、最も早い時代のものである。以下、現時点までに確認されているこの地方の太鼓台初見記録を年代順に記す。
・寛政元年(1879)①伊予三島〝神輿太皷〟①大野原〝ちようさ太皷〟
・文化2年(1805)③伊吹島・東部〝太皷〟(蒲団枠の保管箱)
・文化3年(1806)④川之江〝神輿太皷〟5台
・文化5年(1808)⑤伊吹島・西部「太皷寄録帳」 (伊吹島で最初にできたと伝わるので、これは拵え直し。従って実際の登場は、更に一世代は遡るものと考えられる)
・文化6年(1809)⑥観音寺〝ちようさ太皷〟(大人用と子供用)
・文化10年(1813)⑦琴平〝輿太皷〟4台
・文政5年(1822)⑧新居浜〝神輿太皷〟
・天保4年(1833)⑨新居大島「太皷入用帳」
・天保6年(1835)⑩西条祭の絵巻物に描かれた4台の〝みこし〟(太鼓台の様に蒲団を積む、大きな車輪付きの〝だんじり〟)
・弘化2年(1845)⑪山本町・西側「割帳」記載の〝太皷〟(拵え直しと思われる)
等であるが、これらの初見記録以外にも、私たちの目には触れられず記録にも残されなかった太鼓台も、当然多くあったものと推測している。以上から、西讃から東予地方の燧灘沿岸地域では、①の伊予三島・大野原で18世紀後期には初見記録が確認されている。また、⑤の伊吹島・西部(上若)太鼓台の誕生推測からは、この地方では、それより40年程度前の18世紀半ばには、太鼓台の新規登場がほゞ確実であったと思われる。
西讃・東予地方に点在して新規登場した太鼓台は、その威勢の良さや美しさなどで人々の心を虜にし、太鼓台がそれぞれの地域で〝無くてはならない、象徴・宝物・よすが〟として存在感を増し、人々の心に深く根付いて行くこととなる。このように、18世紀後半の登場からわずか数十年の間に、当初は〝点の存在〟でしか過ぎなかった数カ所の太鼓台は、人々に大いに受け入れられ、各地の奉納太鼓台として〝一気爆発的〟に広まって行ったことが偲ばれる。
◎大野原太鼓台の今昔
(1)阿波池田・馬路太鼓台と大野原・辻太鼓台
三好市池田町馬路の境宮神社に奉納されている馬路太鼓台は、昔の曼陀峠を越えて、大野原・辻地区から買われていった太鼓台である。馬路地区には、「天保六乙未年(1835) 衣装水引・天蒲団入 箱 八月吉祥日 辻若中」と墨書された道具箱と、「干時 天保六年 高欄掛廻●(不明)入箱 乙未八月吉辰日」と書かれた箱蓋が伝えられている。また、〝海女の玉取〟図柄の年代物の水引幕が、修復を重ねて今も現役で使用されている。この水引幕は確かに古いものではあるが、それでは天保6年の保管箱に収められていたものかというと、恐らくは〝そうではない〟となる。箱の形状からして、厚みのある刺繍付水引幕を収納するには、浅くて小さ過ぎる。辻太鼓台での天保6年当時の〝衣装水引〟とは、恐らくは、当時の近隣各地で記録されている〝刺繍の無い、羅紗・無地の幕〟であったと思われる。〝天蒲団〟も同様に、畳んで収納できる羅紗地のものであったと考える。
左は「衣装水引・天蒲団入 箱」。次は、高欄(欄干)に掛け廻していた幕の「収納箱」の蓋書きで、上記不明箇所の文字は〝幕〟だと想像している。両方とも大野原・辻地区からのものと思われる。
従って、伝えられている海女の玉取図柄の水引幕は、辻地区で天保6年に新調されたものではなく、上記の羅紗・無地の水引幕より一世代 (40~50年)程度後年に作り替えられたものであると考えられる。刺繍付海女の玉取幕は、恐らく明治20年前後に辻地区で新調され、その後明治末年頃まで同地区で使用され、大野原辻地区から太鼓台売却時に天保6年の道具箱を添え、馬路地区へもたらされたものではないかと推測する。なお、この幕は、各地に遺されている年代物の古刺繍と丁寧に比較したところ、琴平の縫屋(刺繡工房)〝松里庵・髙木家〟が手掛けた年代物の作品の表現法と酷似しているため、恐らくは松里庵・髙木工房にて制作されたものであると推測している。(松里庵・髙木工房は、明治23年の時点では観音寺に工房を構えていた形跡があり、その時代は、ちょうどこの地方の太鼓台刺繍が絢爛豪華に舵切りをしたターニングポイントに当たっている) 西山太鼓台の項を参照。(この地方を代表する縫師の髙木定七縫師と山下茂太郎縫師の登場によって、その後の西讃・東予各地の太鼓台刺繍が大きく且つ豪華に変貌を遂げていくことになる)
現在の近隣太鼓台でも、物語性がある〝海女の玉取図柄の水引幕〟は人気も高く、数多く使用されている。一般に、水引幕は作り替える度に豪華になっている一方で、〝古い時代からの変遷〟がよく分からないのが実情である。従って、馬路地区へ比較的早い段階で伝えられ、同地区で大切にされてきた刺繍付の玉取図柄水引幕は、西讃・東予地方の太鼓台刺繍の発展・変革期に登場したと思われるものであり、私たちが直接に装飾刺繡の発展過程を追体験できる、大変貴重な存在である。(以上ご協力、馬路自治会並びに馬路太鼓台保存会)
古い太鼓台の部品(蒲団枠を含む唐木・幅の狭い龍の蒲団〆・道具箱)が、昭和60年(1985)頃まで田野々地区の農協倉庫で保管されていた。
(2)関谷太鼓台(観音寺市豊浜町)から田野々地区へ伝えられた〝安政5年の太鼓台〟
豊浜町関谷地区から安政5年(1858)の道具箱と共に、田野々地区へ〝ちょうさ〟が伝えられている。関谷地区から田野々地区への太鼓台伝搬にあたっては、旧幕時代の地域統治の影響があったのかも知れない。田野々地区は大野原・中姫大庄屋の管轄ではあったが、中姫地区から地理的な遠隔が背景にあったためか、豊浜・和田大庄屋の預かり地となっていた。関谷地区から太鼓台を受け入れるにあたっては、このような豊浜側との関係性の深さがあったのかも知れない。
古い太鼓台の部品(蒲団枠を含む唐木・幅の狭い龍の蒲団〆・道具箱)が昭和60年頃まで、田野々地区の農協倉庫で保管されていた。道具箱には「安政五年 午十月之求 関谷若中」と墨書され、その当時の制作と思われる〝幅の狭い龍の蒲団〆〟(6筋が2枚の掛蒲団に改変されて3筋ずつ掛蒲団に縫われ、昭和60年当時の太鼓台に使用されていた)及び唐木一式(蒲団枠を含む)が遺されていた。唐木と蒲団枠は、半ば放置状態であった。
上記(1)の馬路太鼓台の項でも縷々述べているが、古い道具箱に書かれた年代と、その中身の年代とが必ずしも一致していないとみるのが、伝統文化探求に携わる基本的な姿勢である。即ち、太鼓台伝承地区では〝それまでの古い道具箱を、新しく装飾品を作り替えた際の道具箱として、再利用する〟場合がよくある。そして、他地域が絡む〝中古太鼓台の売却〟の場合には、そのような事例がかなりの数で表面化しており、必ずしも〝道具箱記載の年代イコール中身の制作年〟と、直接結びつけることはできない。
従って、田野々太鼓台の場合、道具箱の中身が関谷地区太鼓台の〝安政5年のものではなく、安政5年より後の時代のもの〟である可能性が疑われる。ただ、田野々地区の長老からの聞き取りや、制作年代が客観的に確定できている近郷他地区の太鼓台との比較検討の結果、農協倉庫に保管されていた昭和60年当時では、150年以上経過した面影を随所に感じることができたので、唐木(蒲団枠を含む)・龍の蒲団〆は、いずれもが旧・関谷太鼓台の安政5年のものであると推定した。(蒲団枠を補修した張り紙には、明らかに近代の記録も見られるが、枠の傷み具合や大きさから、安政期のものと推定した)
以下は、田野々太鼓台(旧・関谷太鼓台)の計測を行い、凡そ150年前の太鼓台規模を推測したものである。この地方の現在の太鼓台(全高≒4.2m内外。トンボは除く)よりも、1m近く低く、従って重量的にもかなり軽量であったことが推測されてくる。
・太鼓台の全高≒335cm(地面から蒲団の最上部まで。トンボ飾りは除く)
・蒲団部高(七畳)≒95cm、蒲団部下部~乗り子座部≒130cm、座部~地面≒110cm
・蒲団枠の大きさ(最上部の一辺≒157cm、最下段の一辺≒137cm)※いずれも外⇔外の長さ。
・蒲団枠の厚み(一畳)≒13.5cm
・閂(カンヌキ) 中央に1か所(現今の太鼓台では2か所が一般的)
・四本柱の間隔≒72cm(柱の芯⇔芯、内径≒64cm。現今の太鼓台と比べるとかなり狭い)
・高欄部の一辺≒131cm(欄干で囲まれた太鼓叩きの乗り子が座る部分。欄干より少しはみ出た座板の幅)
・台幅(台足の外側~台足の外側)≒97cm
・舁き棒を通す鉄製の輪≒内径17cm(直径のかなり細い舁き棒が使われていた)
(3)下木屋太鼓台の古文書に見る〝借料〟
下木屋地区の太鼓台関連古記録として、「嘉永二年(1849)始まりの古文書」(下の画像)・「安政四年(1857)始まりの古文書」等が伝えられている。この内、嘉永2年からの古文書は、平成19年(2007)までの158年間も書き続けられている。(安政4年の文書は、年次毎の「樽入」‥若連中への新規加入‥等の記録であるため、詳細省略)
嘉永2年の文書の中には、年毎の秋祭り時に、「そんりょう・損料・そん両」(上の右画像)などと、下木屋と他地区との間で、物品の相互貸し借り(有料)を匂わす記載がある。具体的な記述をみると、下木屋地区との間に貸借があるのは、祭礼日の異なる①出在池・和田・中姫・和田浜・和田浜中若・中姫東村(以上、記載のまま)の各地区である。損料と銀高とだけを書いて、地区名や品物名が書かれてないものも多い。貸借の対象物としては、②かきふとん・とんぼ・房・水引・金縄・角縄・太鼓・八つ房・舁棒が記載されている。また、損料が記載された年代としては、③嘉永2年の記録当初から、明治10年(1877)頃までの複数地区太鼓台との間には、毎年のように相互の貸借がある。それ以降は損料の記載がまばらとなり、太平洋戦争以降では全く記録に現れなくなる。
この状況からは、次のようなことが客観的に見えてくる。そもそも太鼓台に飾られる高額装飾品は、全ての太鼓台で、誕生当初から必ずしも一様に備わっていた訳ではなかったのではないか。その当時では中古太鼓台の流通も多かったと考えられ、全ての太鼓台が、今日の様に完璧に装飾品を保有していた訳ではなかったものと思われる。そのような事情の元、祭礼日の異なる近隣太鼓台との間で、かなり常態的に〝貸し借り〟が行われていて、下木屋古記録にみる〝損料対応〟が登場したものと思われる。大野原や豊浜という豪華太鼓台の密集した地域では、太鼓台を有した地区同士が、寛容に、しかも頻繁にそれら装飾品の貸し借りを行っていたことが、古記録からは理解できる。
太鼓台保有地区同士の〝対抗心や競争心〟が、太鼓台発展の大きな原動力になったことを否定するつもりは毛頭ないが、同時に、そのような高額装飾品を、やみくもに独り占めしようとせず、他地区との貸借を寛大に認め合うこの〝損料の存在〟こそが、この地方の現在に通じる〝豪華太鼓台の平準化〟を後押ししてきた、今一つの原動力であったのではないかと思う。当時ではなかなか手が届かなかった太鼓台の高額装飾品を、気心の知れた祭礼日の異なる複数の地区同士で〝最大限有効に使い合う〟ことを、この地域では当たり前にしてきたものと想像する。現在の西讃・東予地方において、太鼓台規模や装飾上の共通性が広く見られているのは、実はこのように〝損料を払い、豪華に飾り付ける寛大な風習〟があり、それが昂じて大型・絢爛豪華を成し遂げ、今に続いているのではなかろうか。(以上ご協力、下木屋自治会並びに下木屋太鼓台保存会)
(終)