太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

穴井歌舞伎の衣裳について‥八幡浜市穴井(あない)

2024年06月24日 | 見学・取材等

2024.6.9(6/8作業準備、6/9撮影作業)に宇和海・八幡浜市穴井に伝えられている穴井歌舞伎の古衣裳群を、地元の皆様のご協力により見学及び撮影作業をさせていただきました。

香川県下では、農村歌舞伎祇園座様(高松市香川町)、小海自治会様(小豆郡土庄町)、中山農村歌舞伎保存会様(同郡小豆島町)、肥土山農村歌舞伎保存会様(同郡土庄町)、財之神獅子組様(善通寺市、和唐内の衣裳)と、四国村へ寄託中の大部地区協議会様(同郡土庄町)の歌舞伎衣裳の一部分、計6団体様。

県外では今のところ愛媛県下の阿下(あげ)歌舞伎衣裳及び乙亥(おとい)相撲の化粧回し(西予市野村町)、川瀬歌舞伎保存会様(上浮穴郡久万高原町)、そして今回の穴井歌舞伎様の古衣裳群が撮影完了となりました。今後の予定としては、宇和島市沖の戸島歌舞伎様の古衣裳類を見学・撮影させていただきたいと願っております。

これらの地歌舞伎及び農村歌舞伎等の豪華刺繡付きの衣裳群は、これまでは〝伊勢参宮や京都見物などの帰りに京・大坂(阪)で土産として買い帰り、寄進したもの〟と世情で喧伝されている場合がほとんどですが、実はそうではないのではないか。裃や簡単な襦袢や着付などは土産として寄進されたものが多かったと考えられるが、刺繡が施された高額な古衣裳等は、地元の四国で誂えられたものが多かったのではないか〟との「地元・四国誂えへの見直し」が始まっています。

その理由として、東予・西讃地方の豪華な太鼓台の〝古刺繡との比較検討の結果、それぞれの刺繍に明らかな酷似が顕著に見られることが挙げられます。過去のこのブログでも、太鼓台の古刺繍と歌舞伎衣裳等の古刺繡とを比較し、その酷似点を指摘していますが、今後多くの方々の検討作業を通じ、更に「地元・四国誂えへの見直し」が進むものと考えております。

新聞記事は、両日に亘り取材された愛媛新聞社様の6月22日付のものです。ご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。

(終)

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砥部むかしのくらし館の見学

2024年03月10日 | 見学・取材等

愛媛県砥部町にある「砥部むかしのくらし館」へ行ってきました。

その目的は2点ありました。

まず1点目は、太鼓台の古刺繡と同様の〝刺繡飾りのついた豪華な雛人形が存在する〟ことの情報を知人よりいただいたので、その刺繡を実際に拝見させていただき、太鼓台古刺繡との関連を確認するためでした。

2点目は、館がコレクションしている膨大な昔の寝具〝夜着(掻い巻き蒲団=袖付き蒲団、現在の寝具・上蒲団に相当)〟を見学させていただき、太鼓台(主には蒲団型の太鼓台)に積み重ねられた方形の蒲団部と、搔い巻き蒲団や現在の上蒲団との間に、どのような関係性が認められるのか。更には、太鼓台の分布の違い(西日本には多く分布しているが、東日本には皆無)が、掛蒲団と掻い巻き蒲団との違いに起因しているのかどうかを深く探求するためでした。

最初に刺繡飾りの雛人形についてですが、その規模や実際の展示を、写真にてご紹介します。

3月3日付の地元の愛媛新聞に掲載された〝記事〟では、かなりの大きさではないかと想像(太鼓台の掛蒲団くらい)していたのですが、ご覧のように思いのほかミニチュアでした。もちろん、雛人形としてはすぐ近くに飾られていた人形と比べるとかなりの大きさで、作られた当時の規模としてはその豪華ぶりが想像できるものでした。館長様からお聞きしたところでは、同様の人形が広島県鞆の浦や姫路市でも見られたとご教示いただきました。ただ、各地の人形ともその大きさを競って作られたものではないかと話され、その中では砥部むかしのくらし館の人形が最大規模であったと説明いただきました。

雛人形の振袖の龍・虎の刺繡は、大小の規模は異なるものの、明らかに太鼓台の掛蒲団や高覧掛の古刺繡と相通じるものがあります。今後的には太鼓台刺繡や農村歌舞伎の豪華な衣装などとも比較し、その関連性を客観的に指摘していく必要があると考えています。

また、夜着(掻い巻き蒲団=袖付き蒲団)のコレクションが膨大で、その作りの細部を実見させていただけたことは大変ありがたく、〝蒲団の歴史や方形の上蒲団の登場、貴重な綿と蒲団との関係、寝具革命と呼ばれる〟等をあれこれと想像できたことはありがたかったです。ちなみに、蒲団に関する本ブログでの発信もありますのでご参照いただけたらと思います。

 

(上段)

1枚目は展示されていた説明写真の一部を拡大したもので、恐らくは虫干し作業などの折の光景ではないかと思われる。2枚目と3枚目は、幅も広く豪華な夜着である。4枚目は裏側からの様子。肉厚の綿が詰められた状況がよく分かる。夜着には筒状の袖があるため、就寝時にはここに腕を通して眠るものと想像していたがそうではなく、この袖は肩口に掛けると、より暖かみを感じることができたそうである。また、後代における夜着の分布地は東日本(主に東北地方から北)に集中しており、西日本には少なかったと説明をいただいた。その理由の一端としては、館長様からは、西日本以外では冬季の寒さが大きく影響していたことも挙げられるのではないか、とのご意見をいただいた。

(下段の1枚)

これは夜着に似ているがそうではなく、昔の廻船の船頭が着る〝万祝い〟(船頭の慶事に着用する晴れ着。西讃岐では、写真ほど豪華ではないが、漁師が日常的に着用したドンザと呼ぶ防寒着がある。それはこの写真に近いが、布地部分はつぎはぎが多く粗末な作りとなっていた)と呼ばれているものである。夜着に似ているが、比べると綿の分量が少なく、活動しやすく作られている。夜着と万祝い等との関係性も調べると面白く、太鼓台文化が海洋文化であることのヒントが得られるかも知れない。

(参考)下表は『地歌舞伎衣装と太鼓台文化』(2015.3.31刊79㌻所収)の中で示したもの。太鼓台(大太鼓を櫓組の中央に積み込み大勢で担ぎ移動する祭礼大道具、その形態は大変多い)の中でも、最も発達した蒲団型太鼓台と称される分布地は、時代の遅くまで寝具に夜着を用いていたか、それともかなり早期に大蒲団(上に掛ける掛蒲団)に変わったかによって、見事に分かれている。高価な綿を大量に売り捌くことで大利潤を得ようとした当時の大坂商人の目論見が見え隠れするのではなかろうか。

もちろん太鼓台が西日本だけに流布していることや、豪華な蒲団型に発展したことに関しては、ただ単に太鼓台発展が蒲団の形状の違いに全て影響しているというつもりは毛頭ない。蒲団型太鼓台は、少なくとも当時の人々の生活改善や願望実現の〝宣伝道具〟の一つとして、太鼓台先進地・大坂の大商人たちに利用され、西日本(主には瀬戸内)の津々浦々へもたらされたと考えている。その結果、蒲団型太鼓台の広まりは、当時の大坂商人の利潤追求の目論見につながったのではないかと推測している。そう考えれば、太鼓台が比較的簡素な形状から蒲団型に発展したことは、蒲団型太鼓台そのものが寝具の蒲団(方形の大蒲団)と密接につながっており、<高価な綿を使った寝具の大蒲団の登場=庶民の生活改善願望=大坂商人の利潤追求>との図式が想像できる。

綿の登場・綿を包む木綿の一般化によって、それまでの人々の寝る環境は大きく変化した。(寝具革命と呼ばれる) 更に安い外国綿が多量に入ってくるようになった明治29年(1896)の綿花輸入関税撤廃法以降、それまで高価な綿とは無縁に近かった庶民の間にも、軽くて暖かい綿入りの大蒲団が普及していった。蒲団型の太鼓台は、このような庶民の生活と密接な時代背景の下、簡素な蒲団型から豪華な蒲団型へと発展を繰り返していくこととなった。

下のパンフは館でいただいたもの。

(終)

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久万高原町・川瀬歌舞伎衣裳の見学

2024年03月04日 | 見学・取材等

2023.12.9㊏~10㊐に、久万高原町・川瀬歌舞伎保存会の皆様のご協力を得て実施された古い衣裳類の調査撮影作業の様子が、「広報・久万高原」の2024年1月号に紹介されました。

なお、太鼓台の古刺繡と川瀬歌舞伎の古い衣裳との関連性については、すでに共通点や関連が判明しているものもありますが、他の農村歌舞伎等の衣裳との関連性も眺めてみたいと考えています。

例えば、農村歌舞伎が盛んな小豆島各地の古衣裳や、高松市香川町の祇園座の古衣裳、愛媛県西予市野村町の乙亥相撲の化粧まわし、そして幸運にも今なお現存している年代物の太鼓台古刺繡などとの関連を見る必要があります。

そのような確認の作業を極めることによって、地方における農村歌舞伎や太鼓台の文化が〝どのように発展してきたか、それぞれ互いに影響しあってきたか〟等が、より客観性をもって理解できるものと思います。

巷間、歌舞伎の衣裳は伊勢参りや京見物などの土産として買って帰り、氏神様へ奉納した」ものとよく聞きますが、少なくとも後代になれば、豪華な刺繡付きの衣裳などはそうではなく、近場の四国内で作られたものも多々あったことが推測されるようになりました。(地歌舞伎が新規に登場した時代には、先進地の上方で買い求めたものと思いますが、やがて四国内でも豪華な刺繡付きの衣裳が、太鼓台刺繡の発達に影響されながら制作されたものと考えています)

(終)

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川瀬歌舞伎(久万高原町)の豪華な衣裳

2023年09月27日 | 見学・取材等

過日、愛媛県久万高原町に伝わる〝川瀬農村歌舞伎〟の古衣裳の一部を見学させていただきましたのて、ご紹介させていただきます。

近い将来、グループの皆様と一緒に実地見学させていただきたいと思っています。

(終)

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高知県下の太鼓台等の見学について

2021年05月12日 | 見学・取材等

東に室戸岬、西に足摺岬を擁して弓なりに湾曲する高知県には、太鼓台は少ない。分布は県東部では皆無で、西部の幡多地方の一部(旧・中村市、宿毛市)に限られている。室戸岬に近い徳島県海部郡美波町(日和佐町・由岐町)には、古くからの太鼓台文化があるので、そこから比較的近い県東部へも、太鼓台は伝播しているのではないかと想像したが、それは思惑外れであった。室戸地方には〝花台〟と呼ばれる祭礼奉納物はあるが、太鼓台は存在していない。また、伊予や阿波から四国山地を越えての県中央部への伝播も見られない。

高知県で太鼓台が分布しているのは、宿毛市の島しょ部(沖の島、鵜来島・うぐるしま)と、四万十川河口東岸の下田地区だけである。このうち、現在は高知県に属している鵜来島と沖の島の北半分は、藩制時代には宇和島藩支配であったことから、祭礼にも南予地方との関係が偲ばれている。(沖の島の南半分は土佐藩支配であった。鵜来島及び沖の島の歴史・地理・民俗等については、特定非営利活動法人 黒潮実感センターが発行した2017年度 宿毛市沖の島・鵜来島および宿毛湾沿岸域調査報告書』に情報公開されているのでご参考させていただいた) そのような時代背景から、両島の太鼓台は〝やぐら〟と称し、南予の祭礼(神輿のほかに、四つ太鼓・やぐら、牛鬼、五鹿踊りなどが出る)の影響が強い。鵜来島(旧・宇和島藩)では春日神社、 沖の島では、母島地区(旧・宇和島藩)の日吉神社と広瀬地区(旧・土佐藩)の荒倉神社に、太鼓台は伝えられている。私は鵜来島のやぐらは実見したが、沖の島2地区のやぐらは見ていない。下記・沖の島の項で参考にさせていただいたWeb紹介写真やユーチューブを拝見すると、沖の島2地区のやぐらは、愛媛県南予地方の、現・愛南町各地区の太鼓台(やぐら・四つ太鼓)と規模・装飾ともよく似ている。

宿毛市鵜来島

宿毛湾の沖合遥かに鵜来島は浮かぶ。高知県と言っても、沖の島と並び、豊後水道の入り口に位置する全くの離島である。下に添付のお祭り画像は昭和52年(1977)見学時のもので、現在では人口わずか20人ほどの限界集落になり、已む無く一時期、やぐらは休止していた。しかし、今回の投稿に際し改めてWeb検索してみると、2015年に、やぐらの復活に燃えた島の人々は、宿毛からのチャーター便による送り迎えや参加費を頂いての〝島外からのお祭り参加で伝統復活〟という奇抜なアイデア(島外スタッフ参加)を地区一丸となって成功させ、休止していたやぐらを見事に蘇らせているとのこと、初めて知った。(関連の新聞記事はここにあります)

島民皆様は、まさしく「島は、祭りがなくなったら、終り」という〝やぐら消滅〟の苦い逆境体験から、島のコミュニティの核であり且つ唯一無二の存在であった〝やぐらの復活〟に、舵切りできたのだと思う。失って初めて分かった伝統文化・やぐらの存在こそが、島に生きる老若男女全ての人々の心に棲む〝何事にも勝る共通した熱い想い〟であったに違いない。やぐらこそが、自分達の故郷を守り、コミュニティ活性化を後押しするものであることを、無くして初めて再認識できたのだと思う。鵜来島と同じ伝統文化の中で生きている私たちも、この島の復活の歩みを学び合い、鵜来島で起こった復活劇を、文化圏各地へ攪拌させることができないかと、改めて強く思う。  

私たちの太鼓台文化圏には、戦後の経済優先の時代以降、心ならずも人口減少が極まり、太鼓台を出せなくなってしまった小人数居住の限界集落が多くある。そこでは、多くの太鼓台が廃棄され消滅していった。文化圏の私たちは、鵜来島の復活事例を参考させていただき、地域の活性化や伝統文化の復活やコミュニティの核として、皆が愛着を抱いている太鼓台を活かせることを考え、実現させたい。〝地方から、太鼓台文化の活用を〟と、声を大にして叫びたい。そのような復活劇の機運を、休止・廃止した各地へ波及させることができないだろうか。それは誰が行うのか。それこそ、太鼓台文化の恩恵を、どこよりもより多く受け、絢爛豪華に発展を遂げた地方、太鼓台文化を継承する私たちの役割ではないだろうか。

上で紹介した『調査報告書』にも記されているが、島は旧幕時代は宇和島藩の御荘組に属していた。このことにより、祭礼様式も南予地方との共通性が強くうかがえる。太鼓台は、鵜来島と沖の島では〝やぐら〟と呼ばれている。やぐらと四つ太鼓の呼称は、南予地方では混在している。(宇和島から南では〝やぐら〟と称する地区と〝四つ太鼓〟と呼ぶ地区が混在する一方、宇和島から佐田岬半島にかけては〝四つ太鼓〟と称する地区が主流を占めている) 四つ太鼓の呼称は、南予地方全域と和歌山県日高川河口域の各地に広まり、やぐらは広島県大崎下島の各集落(櫓)と、本稿の地方(南予地方の南部各地と宿毛市の両島)にほぼ特化して分布している。ただ、鵜来島・やぐらの規模は、南予各地に比べても少し大きく頑丈になっている。

 宿毛市沖の島

上述のように明治維新前までは、島の北部・母島地区は宇和島藩、南部・広瀬地区は土佐藩が支配していた。(沖の島における宇和島藩・土佐藩の境界については、「日本にもあった分断統治の島<沖の島/高知県宿毛市>」が参考になる) その両地に太鼓台(やぐら)が伝えられている。沖の島・母島と沖の島の北部に位置する鵜来島は、宇和島藩の御荘組に属していたため、南予一帯のお祭りの特徴であるやぐら・牛鬼・五ッ鹿踊りが出る。ただ残念ながら私は、沖の島2地区の太鼓台を実見していない。(※画像が小さいですが、「純生の自然を味わってみませんか。足摺宇和海国立公園 WELCOME TO  沖の島」→イベント情報→最後の<平成18年10月8日 母島地区秋祭り>に、やぐらが紹介されている。その画像からは、南予地方と同規模であることが想像できる)

母島・日吉神社(旧暦9.10祭礼)では、南予地方の特徴である牛鬼・五鹿踊りとやぐらが出ている。平成9年(1997)頃にやぐらの維持がこ困難になり、神輿・牛鬼・五鹿踊りのみとなってしまった由。また、広瀬・荒倉神社(旧暦8.28祭礼)では、昭和33年頃からやぐらは出せなくなり、代わりとして、牛鬼が出ているとのことである。牛鬼と替わった広瀬地区のやぐら画像については、全く状況が分からない。

※沖の島の案内としては、「YAMAP初上陸 沖の島 妹背山」が、画像付きで紹介されており、とても参考させていただけます。

四万十川河口の下田港(旧・中村市)

清流四万十川河口東岸の下田地区には、下田の貴船神社と水戸の住吉神社に、太鼓台は伝えられている。昭和52年7月に下田のお祭りを見学した際、同地区古老のM・K氏から太鼓台導入当時の聞き取りがある。

①文久3年(1863)に、水戸の者が泉州堺から購入してきた。

②購入時の太鼓台は、今よりも大型であった。

③下田の上組と下組(現在の下田地区と水戸地区か)で1台ずつ計2台があり、時々太鼓台同士の喧嘩もあった。(1台は下田で造られた)

④現在の太鼓台はその喧嘩の仲裁に入るため、昭和3年頃に小若(18~19歳で構成)用として造られたもの。

⑤太鼓台と舁棒との固定は、1本の長いロープで行う。文化圏各地でも同様の組み方をする所もあるが、下田では〝狭い道を通るときに直ぐに取り外せて、通過後直ちに組み直せる〟との利点があるため、と話されていた。

⑥太鼓台の装飾については、購入当時と同じ。

⒜進行方向の前後に結んだ揚巻結を〝大しぼり〟と称し、蒲団天部四隅の飾りを〝小しぼり〟と称す。特に小しぼりを〝リリアン〟とも称している。

⒝蒲団の色・しぼりの色・幕の色は、毎年異なる色に作り替えて奉納する。(但し〝かっては蒲団の色も五色に固定し、小しぼりも後年の採用である〟と聞いた。大しぼりは昔からあったようである) ※下田と同様の大しぼり(規模は小さいが、揚巻結は同じ)を採用している太鼓台が佐田岬半島の各地にあるので、その画像を添付する。(写真はいずれも旧・瀬戸町。前2枚が川之浜、後が三机地区のもの)

⒞蒲団・しぼりは、袋の中に籾殻を入れて作る。籾殻で蒲団を拵える地方としては、京都府丹後半島地方にある。(写真は旧・丹後町此代地区)

⒟運行には拍子木を使う。(拍子木は、文化圏各地の太鼓台運行では必ず使用されていた)

⒠下田地区・貴船神社と水戸地区・住吉神社の太鼓台運行道順は、同じ道をそれぞれ逆回りに運行する。

以上のように、下田は四万十川の水運による物資の集積港(主には上流域からの木材や炭・薪などの燃料の積出港)として栄え、上方・堺との交易で繋がっていた。このような事情から、太鼓台は明治以前に、大阪府堺方面からの伝えられたものと思われる。

四万十市(旧・中村市)中心部の〝提灯台 〟 

四万十市(旧・中村市)の夏祭り(市民祭)では、市中心部に太鼓台とよく似た〝提灯台〟(※参考文献、2018.2「中村の人びとと提灯台」関西学院大学・現代民俗学 島村恭則研究室・作成)が、コミュニティ単位や市民団体及び企業の単位で数多く出されている。同研究室の成果によると、提灯台の文献上の登場は幕末期に遡るとの由。現在のイベント的な出し物から考えると、歴史豊かな伝統文化であることに驚く。そのカタチは、四本柱の上に〝逆台形の薄い蒲団〟を5枚ほど積み重ね、その四方に逆台形に広げられた数多くの提灯を飾り付けている。太鼓の据え場や太鼓叩きが乗る場所は、蒲団部の上・多数の提灯に隠れた中である。よく見ると、太鼓はそれほど大きくはなく、斜めに積み込まれている。市民祭には下田の太鼓台も出されていて、提灯台と太鼓台との歴史的な関係性が気になる。

(終)

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