太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

北前船が、太鼓台文化の伝播にどのような影響を与えたのか。

2020年11月13日 | 随想

はじめに

1975年頃に太鼓台の分布地調査を集中して行っていた。その中で、太鼓台がかっての湊町中心に広まっていることが朧げにつかむことができた。瀬戸内にある各地の湊町、その先にある日本海側の湊町に的を絞って問い合わせ調査を試みた。というのは、最初に頭をよぎったのは「北前船」(きたまえぶね)の存在であった。北前船は、江戸中期から明治中期にかけて、春から晩秋の大坂-北海道-大坂の間にある主な湊々で「買い積み・売り卸し」を繰り返し、膨大な利潤を得たと言われている。北前船には主として北国や北陸地方の人々が乗り込んでいた。年1回の航海が終わると、冬に上方で船囲いをして郷里に帰った。〝太鼓台が大坂から瀬戸内にかけてこれだけ分布し、しかもインパクトの強い祭礼文化なのだから、北前船の寄港地や船籍地にも凡そ太鼓台が伝えられていたはず〟との淡い素人的予測で、私は各地への問い合わせ調査を続けた。

しかし予想はほぼ外れた。丹後半島より北の「北前船の里」と言われる各地には太鼓台は存在していなかった。現在でも、日本海側で各種の太鼓台が伝承されている地方は限られている。西から記せば、山口県の日本海側には存在せず、出雲の宇龍(うりゅう)、隠岐・島後(どうご)の宇屋(うや)、隠岐・島前(どうぜん)の崎(さき)、境港の外江(とのえ)、鳥取県大栄町由良、羽合町橋津、少し内陸に入った豊岡市城崎温泉、同市津居山、京丹後市各地(旧の久美浜町、網野町、丹後町、弥栄町等)等の各地までと、瀬戸内に比べると明らかに少なく、そこで太鼓台の分布は途切れている。以下は、現在Web発信されている日本海側の各市町村情報や個人発信のYouTubeなどからの情報を基に、ここで記した瀬戸内を出て日本海を北へ航海する順に太鼓台の現況を確認した。

日本海側・太鼓台の現況

宇龍の楽車(だんじり)不定期の奉納であるらしいが、その概要がうかがえる画像がある。ただ、だんじりの上部についてはまだ実見していなが、別な画像で屋根型であることが判明した。得られた状況によると、宇龍だんじりは天皇即位や改元などの大きな祝い事のある際に出るかどうかというものらしく、私たちが実見することも難しいようだ。

島後・宇屋のだんじり(舞)は、西郷港のすぐ北側の宇屋地区に1台伝わっている。ここは北前船の寄港地ではあったが、だんじり伝播に関しては北前船とは無関係であるようだ。四本柱も備わっていない太鼓台の祖型的カタチをしており、大坂からの流刑人と当時の庄屋との合作であると伝えられている。

島前の海士町にも崎村のだんじりとして1台が伝えられている。掛声からは島後・宇屋のだんじりとの関係が認められ、宇屋から伝わったとの伝承がある。カタチこそ四本柱が備わり、四方に花飾りをつけた太鼓台であるが、だんじりを担ぐ際の音頭は、宇屋だんじり舞と酷似している。直接にはまだ見たことがないが、過去のWebに画像が紹介されていた。 参考「海士町歴史文化基本構想」 H30.3、71及び97ページ」)

外江のだんじりは東西2台あり、破風屋根型の太鼓台である。2台は荒々しいぶつけ合いの喧嘩をする。

由良のだんじり画像が紹介されている。次の橋津からの伝播と言われている。

羽合町橋津の花車(だんじり)画像は、リンク先の動画の最後部に出てくる。

城崎温泉には破風屋根二段式の屋台(大だんじり)と、天井部分が備わっていない屋台(だんじり)の2形態がある。直接実見していないので、大だんじりの幕内部がどういう構造になっているのか不明であるが、天井の備わっていないだんじりは、櫓部分が長方形をしていて、太鼓叩きとして前後に2名が乗り込んでいる。円山川河口に位置する津居山のだんじりも、このカタチのもので、四本柱型太鼓台に分類される太鼓台である。(京丹後市網野町でも、城崎温泉や津居山同様の天井の備わっていないだんじりと同様のものが出る)

久美浜町のだんじりは、宵祭り用の軽量な「日和屋台」と本番奉納用の破風屋根型の「屋台」がある。こちらも櫓部分は長方形をしている。太鼓叩き2人が前後に乗っている。その背には豪華な飾り蒲団を掛けている。

丹後地方の、旧・丹後町や旧・弥栄(やさか)町では蒲団型の太鼓台となっている。間人(たいざ)では、薄い一体化した木枠蒲団の上に、丸みのある膨らみを載せているものもある。平(へい)や此代(こじろ)など丹後半島に近い地区では、鉢巻蒲団型の太鼓台(だんじり)が伝承されている。(下写真、左は平地区、2枚は此代地区)

以上、日本海地方を西から順にかっての湊町の各種太鼓台を眺めてきたが、但馬地方の幕などの豪華刺繍及び丹後地方の蒲団部の装飾以外は、切妻屋根型或いは破風屋根型や宇屋の櫓型など、簡素なカタチのものが多い。このことは何を意味しているのだろうか。但馬や丹後地方への比較的豪華な太鼓台の伝播は、私は海路からではなく、太鼓台文化の盛んな播州地方などからの陸路からの伝播だったのではなかろうかと推察している。

北前船が太鼓台文化を運んだか?

「北前船が〝太鼓台文化の伝播にどのような影響を与えたのか」‥結論から言えば「ほとんど無かった」ということではないかと思う。太鼓台が西日本の各地に広まった江戸時代後期の北前船の輸送方式が、船頭の勘や意思に大きく左右され、何よりもそれによる利潤拡大を追求する「買い積み・売り卸し」が主体である以上、一定の輸送費収入しか見込めない高価な祭礼大道具の太鼓台などは、遭難時等のリスクを考えると、恐らく交易の対象外であったのではなかろうか。また、上記の日本海側の各湊々に伝わる各種の太鼓台は、総じて小型・簡素なカタチのものが多く、装飾も比較的素朴なものが多い。このことは、無理に上方で購入してこなくても、地元でも調達できる可能性が高いことを示していて、地元の大工たちにも容易に作ることが出来たものと想像する。ただし、但馬地方の刺繍幕や丹後地方の蒲団部構造などは、京都や大坂及び播州の装飾文化先進地から、陸路を経てもたらされたものではないかと考える。城崎屋台の豪華刺繍幕は京都からの移入であり、但馬地方のだんじりの櫓部分が長方形であることや丹後地方に多く分布するだんじりの鉢巻蒲団は、播州地方の屋台にも酷似するものが認められている。結論として、日本海側の北前船の寄港地や船籍地に太鼓台がほとんど伝えられていないのは、北前船・経営の根幹である船頭による利潤追求の強い意志が、太鼓台文化伝播地の「太鼓台を受け入れたい」という意向と、必ずしも交わることがなかったということだろうと考えている。

余談ではあるが、瀬戸内各地の太鼓台導入当初の幕末期にあっては、太鼓台が殊更高価な買い物であったためか、各地の古文書等で大坂商人の直接的関与が確認されている。その一方、瀬戸内に比べ海難事故のリスクが高かった日本海側では、弁償額の嵩むこととなる高額な太鼓台を〝敢えて運搬しなかったということだろうと考えている。

(終)

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太鼓台流布と各藩の大坂蔵屋敷について

2020年02月22日 | 随想

「なぜ、太鼓台は西日本以外には広まっていないのだろうか?」

現在、太鼓台の盛んな地方では、既に幕末期には今日的規模に近いものとして存在していたことが、遺されている書籍や奉納絵馬などの絵画史料等から推測が可能である。太鼓台がそれらの規模となる以前は、どのような誕生・発展の過程があったのか―残念ながら、他の伝統文化に比し歴史の浅い太鼓台文化であるにも関わらず、現時点での解明は十分にはできていない。同時に私たちの間では、西日本のみに太鼓台が分布していることが、至極「当り前」的に理解されている。しかしながら私たちは、その根拠を論じたものにまだ殆んど出会っていない。

「江戸は武士階級の人々が多く住み、政治の中心地。大坂は武家は少なく、商業や経済の中心地で天下の台所」と言われてきた。その大坂が高価な太鼓台を西日本の各地へ供給してきたのは間違いない。言わば、高価な文化の販売である。「なぜ、大坂が太鼓台文化の供給地と成り得たのか?」―未だに自問自答が繰り返されている。

大坂を拠点にした諸国への海運の発達が、瀬戸内各地への各種文物を一極集中或いは撹拌さすことにつながった。またそのことによって大坂は、他の伝統文化同様、太鼓台文化を各地へ供給することに結びつけることができた。大きく重量が嵩む太鼓台は、運搬手段がキーワードとなる。(しかし当時も今も、太鼓台は分解して保管・移動するので、必ずしも船だけがその任にあったとは言い切れないが‥。いずれにしても、船は大型貨物である太鼓台の輸送手段には最適であった)また高価な太鼓台を販売することによって、大坂商人の利潤追求は達成される。更に、大工や彫刻・刺繍などに携わる職人や太鼓台を運ぶ回漕業者等を自らの配下に置くことで、利潤は増幅される。大坂商人が、太鼓台文化の分布・発展に大きく関連・寄与したことは明らかであろう。

大坂蔵屋敷のこと

江戸時代の各藩の蔵屋敷は大坂以外にも各地にあったが、単に「蔵屋敷」と言う場合には、ほぼ「大坂の蔵屋敷」を指していた。各藩が自藩の領内以外に設置したものとしては、「蔵屋敷」と「江戸藩邸」がある。「江戸藩邸」の解説も引用する。両者のウィキペディア解説の引用については、大坂の蔵屋敷を理解するために、江戸藩邸とは異なる特権商人の介在が色濃くあったことを知るためである。各藩は、蔵屋敷開設の最初から、特権商人との関係を重視している。次に引用するのは、「大坂蔵屋敷の所有と移転に関するノート(豆谷 浩之氏)」という貴重な研究論文である。更に、当時の各藩大坂蔵屋敷の所在地を知るには、次の大阪市文化財協会・資料の中にある「中之島蔵屋敷跡発掘調査の現地説明会資料(PDF)」中に、以下の地図が添付されている。

私たちの知識の中には、江戸時代の大坂における各藩の蔵屋敷についての客観的な理解というものがほとんどないように思う。江戸の大名屋敷(各藩の江戸藩邸)のことは、映画・テレビの時代劇にはよく出てくるので、かなり理解し易い構図になっているのではなかろうか。屋敷はかなり広大であり、江戸城下の一定の範囲内に住まわされていたこと。各藩は参勤交代や江戸詰めで、領国との二重経済を強いられていたこと。奥方様は一種の幕府の人質として終生江戸住まいであつたこと等々。そのような上っ面だけの理解でも、ある程度の当時の社会構造は想像可能であるように思う。

ところが、大坂の蔵屋敷のことに関しては、私たちはほとんど無知に近い。例えば上述の「大坂蔵屋敷の所有と移転に関するノート(豆谷 浩之氏)」によれば、西日本の諸藩では、小藩を含め殆んどの藩が大坂・中之島付近に蔵屋敷を構えているが、中部地方以東の東日本ではその逆で、大坂蔵屋敷は極端に少なくなっている。単純には言えないが、これなどは太鼓台文化の流布に何らかの影響があったのかも知れない。それに加え、蔵屋敷では藩と大坂商人との繋がりが強いことも縷々指摘されている。推測の域を出ないが、大坂商人の先導で、大坂の太鼓台文化の受け入れに寛容な藩も相当にあったのではないかと想像する。「大坂蔵屋敷-大坂商人-太鼓台文化-各藩・各地」という図式を探究することも、今後的には重要であるのかなと思う。

(終)

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「明治期の基準太鼓台」・箱浦屋台に想う

2019年08月20日 | 随想

高松市玉藻町の香川県立ミュージアムで「祭礼百態」(香川・瀬戸内の「風流-」)展が開催中である。(2019.8.3~9.7 ※終了)

2F展示会場には、標記の明治時代の太鼓台・箱浦屋台が、現今の太鼓台と比べるとかなり小さいが、当時のままで復元・展示されている。太鼓台文化の好事家にとっては4回目(?)となる展示ではあるが、その存在そのものに改めて熱い視線が注がれ、新しい発見も見い出されているように思う。

甚だ貴重な存在の箱浦屋台-ここでは2012年に刊行した『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』の28ページに書き記した「まとめ-箱浦屋台を〝活かす〟提案」について、再度掲出してみたい。当該ページは、箱浦屋台を縷々紹介した後に書かれていて、今日的にもなお色あせることはなく、屋台存在の意義が著されているように思う。

★―★―★―★

(『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』28ページ・「まとめ-箱浦屋台を〝活かす〟提案」)より。

箱浦屋台に出会って25年が経つ。「明治の基準太鼓台」と位置づけた箱浦屋台も、これまで何度か私たち太鼓台文化圏のささやかな注目を浴びてきた。なかでも香川県立博物館(現・香川県立ミュージアム)での二度の組立て・展示は、かなりのインパクトがあったように思う。

2回目の展示が終わり、約5年になる。記憶が薄れかけてきたが、当時の存在感のあった展示を思い起こし、箱浦屋台が今後どのように自らの役割を果たしていくのか、貢献できるのかという点について、若干述べておきたい。

5年前、箱浦屋台は旧山本町・河内上組太鼓台と並んで展示された。(今回の「祭礼百態」でも、この両太鼓台は展示されている) 制作年代的には、箱浦が明治8年から逐次、片や河内上組が明治26年から、両方とも連綿と続いた太鼓台であった。河内上組の太鼓台も非常に存在感があり、明治中・後期の姿をよく伝える太鼓台として大変貴重な存在であるのは間違いない。だが、やはり約20年近い差には意味がある。明治維新前後の太鼓台を彷彿とさせる明治8年の箱浦屋台が、平成の「今にある」こと自体、如何に意義深いことなのか、稀で貴重なのかが、ようやく多くの太鼓台研究者の間で理解されてきた。

明治8年は、今から遡ること高々135年程前でしかない。この間に、近隣の太鼓台は、ほとんど例外なく競うように巨大化し、華美に突き進んで行った。表面的な発展を繰り返し、類型的な巨大太鼓台が闊歩する現今の文化圏となった。このような文化圏の現況では、まず、先人たちの太鼓台に対する営みや思い入れなど、知りたくても知るすべが無い。過去の文化を知る遺産として、一体何が遺されているのだろうか。追体験できるような古い太鼓台の装飾品などは、まず見ることはできない。

箱浦屋台では明治期を通じ、制作年代が判明している装飾品がたくさんある。これは箱浦屋台にとっては大変な強みだ。特に、「刺繍太鼓台」が主流の北四国において、古い刺繍作品をまとう箱浦屋台の存在には、実見して視覚で感じ取れるという意味において、確かな事実に裏づけされた客観的資料的価値が高い。

このような視点を踏まえ、箱浦屋台だけにしか果たせない「貢献」ということを考えてみたい。私は箱浦屋台に対し、その存在の歩に見合った何ほどかの貢献を果たせるよう、ぜひ〝活かして欲しい〟と願う。そのための一例として、寄贈・保管中の香川県立ミュージアムに対し、次のような前向きな提案を行いたい。是非共「箱浦屋台調査報告書」(仮称)を、画像をふんだんに入れて作成・発刊して欲しい。印刷物でなくともネット上の情報発信でもいい。

香川県は面積・人口共にささやかな県だが、一方では西日本に誇れる太鼓台文化圏の中心県でもある。そのお膝元に、年代的にも由緒正しい太鼓台があり、しかも箱浦屋台は明治期の面影を色濃く遺す装飾の数々をまとっている。明治から昭和という、太鼓台刺繍の発展・隆盛期を生き抜いてきた太鼓台の〝生き証人〟は、文化圏広しと言えども、現在ではまず見当たらない。

私は常々、箱浦屋台を「明治期の基準太鼓台」と唱えている。上記のような視覚的に理解できる報告書が身近に存在すれば、各地の古い太鼓台探究時の尺度として大いに活用され、箱浦屋台としての独自の貢献も果たせるものと思う。もしそのような報告書が計画されるのであれば、今回の太鼓台復活支援活動で培った太鼓台文化圏各位の熱意を結集し、箱浦屋台を将来に〝活かす〟ことに、是非協力させていただきたい。

太鼓台は分布エリアが語るように、我が国が誇れる庶民大衆の文化である。しかし残念にも、未だ外観の優劣だけが話題となる稚拙な側面をも合わせ持っている。そのような我田引水に振り回されている場合ではない。瀬戸内海域における太鼓台の分布は極めて高密度で、その体験人口は西日本で約2,300万人(我が国人口の18%)にも達している。これほど各地多くの人々が太鼓台を受け入れたのには、何らかの普遍的な理由があるに違いない。私たちの先人たちは、何を考え、最初の太鼓台に接したのだろうか―。

明治初期、沖行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦屋台。箱浦屋台がまとう太鼓台・古刺繍の数々が、各地太鼓台との関連性を語り、古刺繍の物語を説いてくれるはずだ。その全存在が、私たちが置き去りにしてきた太鼓台の歴史を、必ず解き明かす「大きな力」になってくれるものと期待したい。(終)

★参考

  

当時の新聞記事/詫間町教委2001.4刊『わがふるさと』からコピー転載/明治8年の平桁(けた)と初代蒲団〆-一部、西条市・越智登志正氏撮影

三豊市山本町河内上太鼓台(2000.10)

(終) 

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太鼓台文化に想う

2019年05月23日 | 随想

<太鼓台の分布・形態・呼称>

祭礼奉納物の太鼓台は、西日本にしか見られない文化である。(※①) 比較的豪華となった太鼓台は、江戸時代後期に、大坂(大阪)を基点とした海運によって西日本の津々浦々へ広まって行ったことが偲ばれている。大・小及び豪華・簡素が入り混じる太鼓台の形態は、私見として凡そ芸予諸島の東と西で発展の様相を異にしている。大坂に近い東部では、発達した形態のものが数多く分布しているが、大坂がより遠くなる西側の地方では、簡素で小型の太鼓台が多くなっている。また、太鼓台を体験(見聞きしその存在を知る、或いは運行に関係する)している人々は意外と多く、現在推定で約2,300万人を数える。西日本の各地に広がる同様な太鼓台の体験エリアを、私は愛着をこめて「太鼓台文化圏」と称している。

太鼓台は、各地へ伝えられたものが互いに関連し合い、或いは当時の大坂商人の販売戦略の影響で高級化され、段々と発展して今日にある。ただ、私たちが更に知りたい太鼓台誕生の経緯や発展の詳細な過程など、太鼓台の歴史に関する論及等は、これまでほとんど知ることはなかった。しかし、各地には誕生時を彷彿とさせる簡素な太鼓台も多く伝えられていることから、それらを比較検討することで、原初の太鼓台がどのような形態であったのか、それがどう発展していったのか等、この文化の歴史の一端を追体験することは可能である。そのような作業を通じて、各地の太鼓台が単独の存在ではなく密接に関連していることを、改めて理解することとなる。現在、蒲団型や屋根型のものだけが太鼓台と思われがちだが、私たちは、それ以前の簡素な形態、即ち、櫓型・四本柱型・平天井型も、広い範囲に流布されていることを理解する必要がある。(※②)

各地に広まる太鼓台の呼称についても形態同様に千差万別で、掛声・形態・担ぎ方の特徴等から、「ちょうさ・やっさ・せんだいろく・ちょうさい・さしましょ・こっこでしょ・どんでん・よいやせ・よいや・さっせぃ」(掛声等)、「蒲団太鼓・だんじり・四ツ太鼓・櫓(やぐら)・太鼓山・屋台(やたい)・あばれ・揉(も)み山」(形態・担ぎ方など)、地方毎に異なっている。

各地の祭礼記録に太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、私の住む香川県から愛媛県東予地方では、やや遅く18世紀後半である。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ形態の祭礼奉納物として神輿に供奉していたことがほぼ理解されている。文化圏全域で、初めて「太鼓台」と表記されたのは、現時点の最も古い記録で天保5年(1834)のことであり、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれている。(※③) 近隣地方での太鼓台関連の古記録では、「神輿太鼓」寛政元年(1789)伊予三島、「ちょうさ太鼓」同・大野原、「神輿太鼓」文化3年(1806)川之江、「太鼓」文化5年(1808)伊吹島、「ちょうさ太鼓」文化6年(1809)観音寺、「輿太鼓」文化10年(1813)琴平、「太鼓」文政5年(1822)新居浜などが古い。(これらのほかにも、太鼓台の呼称は特定できないが、装飾品保管箱の存在等で、太鼓台の存在が確認できている地方はある。ただ、姫路市のように「太鼓台」と表記されたものは、今のところ確認されていない)

<香川県下太鼓台の概要>

勇壮に担がれている大人太鼓台は、県下で凡そ350台が確認されている。(※④) 地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、次いで中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、小豆島と直島地区で52台となる。また、中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台が分布している。勿論、子供太鼓台も多数ある。香川県は、人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄となっている。

中・西讃から愛媛県の東予にかけての太鼓台は、豪華な金糸の刺繍飾りが特徴となっている。これは、この地方から太鼓台専門の刺繍職人(縫箔師・縫師)が多数出たことや、伝統文化特有の、他地区に負けまいと華美を競ったこと等により発展したものである。この地方は、太鼓台文化圏の中でも兵庫県と並び、現在では「豪華・大型」の最右翼となっている。

明治以降における太鼓台装飾刺繍の制作や供給元は、琴平の旧金丸座近くに刺繍工房・松里庵を構えていた髙木家で、元々は、金毘羅芝居や各地地芝居の豪華な刺繍入り衣裳を、主に制作していたとみられている。明治中期になって、髙木家では、芝居衣裳制作の将来性を憂慮し、西讃・東予で需要が増してきた太鼓台刺繍へと転進を図っている。このため工房を、東予に近く船便の良かった観音寺へ移し、四代目の現在に至っている。しかしながら、髙木家を含む明治初期頃までのこの地方の刺繍工房の詳細については、全く未解明のままであり、早期の解明が待たれている。

髙木定七縫師(嘉永5年1852生まれ、松里庵・初代と目される)が琴平から観音寺へ転居した明治中期頃を境に、西讃・東予の太鼓台刺繍は急速に発展している。また、やや遅れて登場した山下茂太郎縫師(文久元年1861年生まれの山下縫師・初代、旧姓・川人、阿波池田出身、主に西阿波から東予及び西讃で活躍。現在、三代目が伊予三島で活躍中である)も、この地方を代表する縫師であった。この二人の縫師と、男女を問わず彼らに続く多くの無名の職人たちの尽力がなければ、恐らくこの地方の太鼓台は、今日ほどの隆盛はなかったはずである。

太鼓台を持つ各地元では、地域の「よすが・宝物・象徴」として伝統を受け継いでいる。観音寺と小豆島では、1台の太鼓台を維持していくのに、驚くほどわずかな人数でしかない。0歳の子供からお年寄りまで含めても、観音寺で520人、小豆島で550人ほどである。各地とも太鼓台維持には、人と金、どちらも重い負担が当り前なのである。

<香川県下の太鼓台文化遺産>

太鼓台保有地区では、遺産に値する年代物が、殆んど伝わらないのが普通である。装飾は甚だ痛み易いこと、本体は激しい使い方のため何度も補修を重ねて大きく変容していること、また、中古としての売買が多々あること等が、大方の理由である。

現在までに確認されている県下の主な遺産としては、観音寺市伊吹島に、太鼓台の蒲団枠をバラバラに分解して収納する「保管箱」(東部・文化2年1805)と、太鼓台新調(拵え直しを含む)以降を記録した「太鼓寄録帳」(西部・文化5年1808)及び「太鼓帳」(南部・天保4年1833)が伝わる。伊吹島にはこの他にも年代物の収納箱や古記録等が複数ある。三豊市山本町にも、西側太鼓台の新調(拵え直しを含む)以降の記録「割帳」(弘化元年1844)がある。また、観音寺市大野原町には、嘉永2年(1849)起しの下木屋太鼓台記録文書が若連中によって保管されている。更に、当時の太鼓台規模が実感できる絵画史料として、小豆島町・亀山八幡宮祭礼の様子を、地元絵師が描いた「奉納祭礼絵馬」(文化9年1812作画、安政5年1858再画)がある。

 

(伊吹島・東部太鼓台の蒲団枠保管箱)

 

(小豆島池田・亀山八幡宮の奉納絵馬)

太鼓台にも甚だ貴重な遺産が伝えられている。三豊市詫間町の箱浦屋台(県立ミュージアム蔵)は、太鼓台本体・装飾の刺繍幕・保管箱など一切で、制作年代が判明している。太鼓台本体と初代蒲団〆は明治8年(1875)製、以下、掛蒲団が明治14年(1881)、水引幕が明治29年(1896)、二代目蒲団〆が明治41年(1908)である。箱浦屋台は、中・西讃及び東予の太鼓台が豪華へと発展した過程が偲べる貴重な存在であり、正にこの地方の「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産なのである。

(箱浦屋台の全容と初代の蒲団〆)

<文化圏の旗頭(トップランナー)として>

人口減少と老齢化社会の到来は、地域の存続や伝統文化の継承などに、大変な危機感をもたらしている。今それぞれの地方では、危機解消に向けたさまざまな対策が為されようとしている。私は、豪華な太鼓台が多い私たちの地方(四国の瀬戸内地方)の場合には、身近な太鼓台そのものを、危機打開の「最強ツール」として選定していくべきではないかと考えている。私たちの「よすが・宝物・象徴」的存在である太鼓台を、お祭りの数日間だけに活用しているのは、余りにもったいないと思う。太鼓台は地域の誰からも愛され、老いも若きもさまざまな人々を結びつけ、これからの時代にも、地域をまとめていく役割を、多方面に亘り、まだまだ十分に果せると考えているからである。

行政サイドのものの考え方には、太鼓台は伝統文化ではあるが、宗教行事の一環(即ち神道、政教分離の原則に反する)であるとして、「ノー・タッチ」を決め込む自治体も多い。果たして、大多数市民の精神的よりどころとなっている伝統文化・太鼓台を除外した単純思考で、これからの超少子・高齢化の人口縮小・減衰社会を、乗り切れるのだろうか。若い世代の活力を地域に取り込むことができるのだろうか。文化の旗頭を自認している地方であるからこそ、太鼓台文化を「地域活性化の核」として、再認識していく必要があるのではないだろうか。お祭りの数日間のみ太鼓台やその文化を活用するだけでは、余りにももったいないと思う。

上のユネスコ無形文化遺産登録・略地図と太鼓台文化圏・略地図を重ね合わせて見ていただきたい。太鼓台文化の認知度がどのようなものであるかが、一目瞭然であることがご理解いただけると思う。太鼓台文化圏は、そっくりそのまま伝統文化の「空白地」に甘んじている。文化的には若干後発の伝統文化ではあるのは間違いの無いところではあるが、太鼓台もユネスコ登録の「大型祭礼奉納物」と同様な存在だと考えている。悔しいとか失望とかを言うつもりはない。格差のあり過ぎに、「これが太鼓台文化の現状なのだ」と、改めて文化圏各地へ突きつけられた思いがするばかりである。同時にこれまで、その格差そのものに気付こうとせず、「なぜ、格差があるのか」をも考えてこなかった太鼓台文化圏に生きている自分たちの力の無さを痛感させられ、改めて自問自答している。

<出でよ 「太鼓台文化圏の旗頭」> 

太鼓台の形態の違いや規模の違いに見るように、伝統文化・太鼓台は、現在に至ってもなお歴史不透明な「解明途上の文化」に甘んじているし、文化圏各地でしばしば見られる「自・太鼓台が一番」と主張する我田引水や排他性の解消もままならない。間違いなく近年までは、「太鼓台文化としての統一性」がほとんど感じられることはなかった。この文化圏の旗頭と少なからず自負している私たちの地方は、文化の未知や謎を解明していくこと、文化圏各地への協力や共生関係を後押ししていくこと等、発展の恩恵に見合った、相当に重要な役割があるのではないかと考えている。新たな文化の解明事実が各地で共有され、各地の協力・共生関係が少しずつ前進していけば、ささやかかも知れないが、私たち地方の貢献する姿勢が、各地間の信頼関係構築に役立ち、ひいては同一文化圏としての進むべき方向も、より明確になっていくものと思われる。私たちの地方は、旗頭ゆえの文化的発信や各地への貢献を至極当り前と受けとめ、文化圏内の互いの信頼関係を築いていくことに、より心を砕く、「太鼓台文化のふるさと」でありたい。各地との「貢献と信頼」のキャッチボールによって、この文化圏全域の活性化に貢献し、太鼓台文化を真の伝統文化へと高めていく、誇りある町になりたいと想う。

[脚注]

※① 北海道・旧洞爺湖村…北海道開拓団出身者の地縁で旧財田町からの寄贈。愛知県豊橋市…太鼓台を奉納する神社が、大三島・大山祇神社の摂社という関係からの伝播。この二ケ所のみに存在。

※② 太鼓台の発達は、櫓型(大太鼓を中央に垂直に積み、太鼓叩きの乗子座部だけが備わる)・四本柱型(櫓型の四隅に四本柱が備わり、竹笹・御幣・梵天などを装飾)・平天井型(四本柱型の上に平らな天井を載せた形態)へと続き、豪華さを増し、屋根型や蒲団型の太鼓台へと発展していく。

※③ 『故郷に神の華あり』(2005刊・粕谷宗関氏著439・442頁)を参照させていただいた。

※④ 「山車・だんじり悉皆調査」の「香川県」編(http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/)を参照させていただき、若干部分を補正した。

[参考] 太鼓台文化探求に関する図書等は、観音寺市立中央図書館2Fにありますのでご参照ください。

<私自身の発表に関係するもの>『太鼓台』(アルバム1978私家本) 『新居浜太鼓台』(1990)『ちょうさ‐観音寺市の太鼓台』(1991)『小豆島の秋まつり 太鼓台』(1998)『太鼓台の原風景』(1999私家本)『太鼓台刺繍の一考察』(2005私家本)『伊吹島太鼓台資料集』(2009)『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』(2012)『太鼓台文化の歴史』(2013)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化』(2015)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅱ』(2016)『地歌舞伎衣裳と太鼓台文化・Ⅲ』(2017)

<以下は姫路市・粕谷宗関氏著作‥播州地方の屋台探究の大家。画像も多く、参考となる点が多い>『イキマの美 播州祭屋台学宝鑑』(2001)『故郷に神の華あり』(2005) 『祭屋台記』(2008)『祭屋台史余話』(2011)『祭彫刻志』(2012)『祭屋台伝』(2014) 『写真集 江戸期の祭屋台工芸文化』(2015) 『写真集 和唐吽(ワカラン)文化 祭屋台総観』(2016)『三つ巴紋の謎を求めて』(2017) 『播州屋台蔵』(2018)

<画像が多く、1830年代の西讃・東予地方の太鼓台装飾の概要がよく分かる>『西条祭礼絵巻』(2012西条市総合文化会館)

★この小論は、香川県立ミュージアムで開催(2019.8.3~9.7)された『香川・瀬戸内の風流 祭礼百態』の販売図録に掲載された小文「太鼓台文化圏と香川の太鼓台」を、加筆訂正したものです。

(終)

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「これからの地域社会と太鼓台文化」について~香川県観音寺市を一例として~

2019年04月20日 | 随想

観音寺市は瀬戸内海中央部、四国・愛媛県東部(東予地方)に隣り合わせ、燧灘に面しています。現在の人口は6万人弱、人口は減り続け、高齢化率(65歳以上の人口割合)も毎年上昇を続けています。大合併前は、豊浜町・大野原町・観音寺市の3つの市・町が行政単位でした。この旧・3地区の文化的共通点として特筆されるのは、お祭りの奉納物“ちょうさ”(太鼓台)が、各地区毎に大人用110台余りが大切に継承されていて、全国的に眺めても(太鼓台は西日本にのみ分布する伝統文化であるが‥)、最も太鼓台の密集した地域であることです。

全国津々浦々、ご他聞に漏れず〝地域活性化〟と〝伝統文化の後世への継承〟は喫緊の課題となっています。ここ観音寺市でも、市民の間からようやく将来の在り様を危惧する声が上がり始めました。太鼓台などの伝統文化を保有する地域は、観音寺に限らず、将来の地域と文化の在り様に、大いに悩んでいるのが現状だと思います。本論では、このような地方都市・観音寺を例にして、「地域社会と太鼓台文化」について述べてみたいと思います。ここでは観音寺市を例示していますが、皆さんが住む◇◇◇と読み替えて、一緒に考えていただきたいと思います。

これからの時代は、人口減少や超・少子高齢化がますます進み、間違いなく若い世代の少ない〝高齢者社会〟となります。地域の中では、コミュニティの維持や伝統文化の継承など、従来からの密接な生活基盤の活性化や発展が、大変に難しくなってきます。特にこれと言った特徴のない地方の小さな町では、都会よりも人口減少・高齢化は早まっており、既に65歳以上の高齢者が多い〝高齢者社会〟となりつつあり、私たちの周囲の自治会でも、高齢化率が40%以上を超えているところが目立つようになってきました。地域の活力や伝統文化・太鼓台の伝承等に対し、既に赤信号が灯りつつあると言っても過言ではありません。地域も伝統文化も、後継者が少なくなり高齢者ばかりになってしまえば、盛大な太鼓台祭りを今に誇る〝太鼓台・先進地〟も、自分たちの伝統文化や地域社会を維持していくことさえ困難になってくるのも、当然のことです。

「地域社会の活性化と、太鼓台文化の伝統継承」については、その双方が成り立っていくように、私たち自身が早急に取組まなければならない大変大きなテーマです。私たちの地方には〝太鼓台しか、ない〟と決して悲観せず、パワー溢れ、地域活性化に益する〝太鼓台が、ある!〟と楽観して、かなり思い切った<飛躍的?な思考>をしていかなければならないと思います。古くからこの地方では、幾多の人々が、厳しい日々の生活や政治・宗教に優先して、地域の〝宝物・象徴・よすが〟として、日常の中に太鼓台を棲(す)まわせてきました。人々の原風景の中には、等しく伝統文化・太鼓台が存在しています。この地方はこれまでのように、太鼓台が豪華になることばかりを優先して考えるよりも、自分たちの足下を照らし、太鼓台文化そのものを深く掘り下げ、伝統文化を見直すことによって、太鼓台文化を、一致団結できる地域活性化の〝起死回生の妙案〟にしていくことを考えるべきではないでしょうか。この地域で生きている太鼓台を、年に数日、お祭りの時期だけに活用するだけでは、余りにももったいない話だと思います。太鼓台文化圏では2300万の人々が生活しています。私たちもその中の一員です。〝先人からの賜り物・太鼓台〟があることに、安心と感謝の気持ちを持って、文化圏の人々と手を携えて、この文化を更に掘り下げていかねばならないと考えています。

(以下は、2019.4.24(水)に香川県観音寺市室本町の「つくも塾」で開かれた講演会のレジメと補足の資料等です)

                                                      

「これからの地域社会と太鼓台文化」について

1.そら寒い近未来の地方社会
(1)超少子化・超高齢化・人口減少・勤労者不足・後世へのツケ・地域間格差・限界集落等々‥厳しい現実  
①「超少子・高齢社会」が容赦なく地域を覆う。人口減少は今後も続き、殆んど改善する見込みはない。
②高齢化率(65歳以上)は次第に高くなり、既に4割近くに達している。(地方の自治会では超えているところが多い)
③深刻な「老齢者社会」が始まる。(特に地方では、人口減少による影響が都会より相当早く出てくる)
医療や社会保障費の増・災害や安全への備え・老老介護・独居老人等、課題が山積している。今後のコミュニティの存続や伝統文化継承の危機にも直面している。更に、私たち現役世代が地域を支えきれなくなってくる等が、大きな社会問題となってくるものと思われる。
(2)厳しい近未来、予測される危機打開への「起死回生の妙案」は、果たしてあるのだろうか?
①私たちは、地域社会の総力を結集して「妙案」を探し出し、「目標」を定め、地道に確実に、「前進」していくしかない。
[選定の要素]
(a)地域の誰にも身近な存在であり、且つ地域のよすが・宝物・象徴として大切にしているもの。
(b)豊浜と大野原と観音寺の市内3地域の老若男女全てが、心を通わせ、一つになれるもの。
(c)政治や信仰の問題を超越し、人々の心の奥深くへ自然に入り込めるもの。
 ※以上を全て満たすものが、互いに意見もまとめ易く、協力し易く、実行もし易い。
②[妙案は、太鼓台]‥親しまれている太鼓台を活用することで、困難を打開し、地域も活性化できる-身近な太鼓台文化を、多方面で究める。太鼓台やコミュニティは、これからも地域社会の中で無くしてはならない、この地方では必要不可欠の存在。
 
2.地域の現状を私たちの世代は、どのように認識し、計画を立て、打開いくべきなのか。「太鼓台文化の活用」と「前進」について考える。
①地域社会と太鼓台とは車の両輪。上手く噛み合わないと、どちらも衰退・消滅の憂き目にあう。高齢者社会=老齢者社会に突入しようとしている今、大きな曲がり角にある。
②双方活性化を思考する心構えとしては、これまで以上に、かなり思い切った「飛躍的思考」が必要になってくる。
・「太鼓台のふるさと・先進地」を積極的に受け入れ、「太鼓台文化・日本一」(決して「太鼓台が日本一」ではない)を目指し、努力する。
・「太鼓台文化・貢献都市=観音寺」を掲げ、常に観音寺が太鼓台文化に貢献している姿勢を鮮明にし、且つ発信し続ける。
・強いリーダシップを得るためには、文化圏各地との距離を縮めていくことが必須となる。(相互理解や相互信頼の推進)
・太鼓台文化圏は思いのほかバラバラな文化圏であり、抱えている弱点も多く、先頭に立つ旗頭となる自治体(トップランナー)が出てこない。
③何を実施し、文化圏各地へ貢献していくのか。どのようにして各地から好感を得、観音寺のリピーターとなっていただくのか。
・「学びの大切さ」を発信していくことが重要。各地間の偏見や我田引水は、文化の理解不足や無関心・欠如から生じている。そこを解消し、各地が互いに尊重されなければ、太鼓台文化圏としての団結や発展は期待できない。
・「太鼓台文化専門図書館(室)」開設や「ウェブ発信」の開始等は、かなり簡単に始められると考えている。
・学びを支援する仕組みづくり(太鼓台文化の出前講座)や信頼される情報提供は、他地方のためだけでなく、観音寺の人々にも絶対に欠かせない。
・この文化圏に人知れず遺されている貴重な太鼓台文化遺産を「常設展示」して、「歴史・伝統を愛でる贅沢」を、観音寺から各地へ向けて発信・提供できないか。これは、各地に眠る歴史遺産に陽の目を当て、文化に誇りを持つための一助になる。
④文化圏各地が「究極の観音寺応援団」になっていただくことと、それに見合う「観音寺からの貢献」は、表裏一体の関係にある。
 
3.太鼓台文化圏と共に生き、私たちの地域と文化圏各地が「共に輝く時代」へ- (まとめ)
特徴の乏しい地方都市・観音寺で、この地域が大同団結して力を発揮できるもの。
それには、全ての市民が「太鼓台のふるさと・先進地」と自負する伝統文化・太鼓台に向き合うしかないのではなかろうか。
地域皆がこぞって心を寄せ合えるものがある幸せに、私たちは感謝したい。
厳しさ増す近未来に、この地域には「太鼓台しかない」のだと思う。
いや、「太鼓台がある」と訴えたい。
2,300万人規模の同一文化圏の人々との間に、好感・信頼・貢献の精神的交流を活発にしたい。
信頼感あふれる「協調と共生」の関係を連帯して構築していきたい。
そのためには、他地方の太鼓台や地域事情に精通し、共通する太鼓台文化を真剣に学ぶ必要がある。
先頭に立つ文化圏の旗頭(トップランナー)としての強い気概を持ち、広大な地域と繋がっていかなくてはならない。
「地域が活性化する」というのは自分たちだけでなく、関係する全ての地方にも活性化が連動していって、初めて言えるのではなかろうか。
各地と観音寺「双方、共に輝いて」こそ、広大な文化圏の存在意義や太鼓台文化の真の解明につながってくるものと思う。
私たちは、絢爛豪華な現状を謳歌するだけに太鼓台を使ってはならない。自分達の太鼓台を、行き過ぎて自慢してはならない。
待ち受ける近未来の困難にこそ、観音寺も文化圏の各地も、運命共同体として共に考え、互いの太鼓台を活かせる活性化策を講じるべきだと思う。

[補足資料]

人口ピラミッドの推移。戦後のベビーブームで生まれた70歳世代が、頭でっかちとなり、ますます増加していく状況がよく理解できる。

日本の総人口の長期的推移。この種の統計は各機関のもので多少の違いはあるが、このグラフはとても分かり易いと思う。

何回も出てくる「太鼓台文化圏」の略地図。本稿で出てくる「観音寺市」は、香川県の西端で燧灘に面している。太鼓台密度(1台の太鼓台に対する人口割合)は極めて高く、530人を割っている。(2019.4.1の人口60,292人、大人太鼓台約114台。因みに香川県全体では、人口約96万人・太鼓台約370台で、約2,600人/台となっている)

下の略地図は、2016年にユネスコ無形民俗文化遺産に登録された、太鼓台と同様な祭礼文化の「山・鉾・屋台行事」の分布地(新聞発表から私製したもの)です。上の太鼓台文化圏の略地図と見比べていただきたい。そう、そっくり太鼓台部分が抜けていると思いませんか? 決して、伝統文化のユネスコ登録が羨ましいとか、登録を望んでいるとかを言うつもりはありません。私は、太鼓台文化が「欠け落ちている理由」や、ものの見事に「無視されている?根拠」を、突き詰めたいのです。太鼓台文化は、他の祭礼奉納文化と比較して、何が不足し、なぜ説得力に欠けているのか。そこの部分が、とても重要なこの文化のキモなのだと考えています。言わば、2,300万人に支えられている伝統文化な訳です、太鼓台文化は。でも、正確な納得のいく歴史は、全く明らかではありません。もういい加減で、この不条理な伝統文化の扱いから脱却すべきではないでしょうか。そのためには、何が必要なのか-。この文化に関わる一人ひとりが、真剣に考えなければならないテーマだと思います。

こちらもよく出てくる「太鼓台の発展想定図」。現時点での私たちの地方の太鼓台は、最も発達しきったカタチである。但し、その恩恵に見合う文化的貢献は全く不十分で、「これから」であると言わざるを得ない。

※本件記事と関連する発信として、講演に用いたプロジェクター画像がありますので、ぜひご覧ください。

(終)

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