何故、祥月命日に疑問符を付けたか不思議に感じる読者の方も多いでしょう。
故人の正確な命日が分から無いからだ、遺骨も遺品何一つ戻らず一通の手紙だけで済まされた、それを受け取った時の母の顔が今でも忘れられないと昔お袋が話してくれた、昭和20年4月何日は不明だ、南方で若干十九歳の戦死だった。
名誉の戦死だ?、当時戦死者の葬儀は村葬で行われ名誉の戦死者の家族として涙する事も許されず、心中で悲しむだけだ故に当日が命日に成ったのだろう。本当に悪き思想教育は無残だ。
お袋は三姉妹の長女で叔父は末弟の後継ぎ倅として生まれ、母親に大事に育てられたと聞いた、長寿の家系では無いが生きて居れば九十五歳、現代では不可能な年齢では無い残念だ。
証人が誰も生存していなく不明だが,もっと詳しく聞いて聞いておけば良かったと後悔の極みだけだ。
私は戦後生まれで団塊の世代だが、産めよ増やせの時代の最後の世代で姉や兄からよく聞き記憶に残ってる。そして親類に数人の戦死者を持ち戦争が嫌いなのだ。
叔父の話に戻そう、恐らく赤紙一枚で招集されたのだろう、赤紙を一千五厘と俗語で言うハガキの郵送料がその価格だったから揶揄して呼ぶのだ。人の命を一千五厘で時の悪為政者が買ったも同じだ、本当に情けない話だ。
しかし実際は郵送では無く役所で配ったのだ、配った本人の話を引用しよう。
真夜中でも起きてくるまで強く戸をたたきました。口上は決まっていました。「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」
反応はさまざまでした。「おお、前田君。俺(おれ)にも来たか。待っていたぞ」という人。「これでうちも肩身の狭い思いをしないですむ」といった父親。「ご苦労さまでした」といいながらじっと赤紙を見つめた妻…。三年八カ月の間に赤紙の配達先は六十人近くに。
今も忘れられないのが兵役経験もある屈強な三十六歳の山林労働者のことです。十二歳の男の子を頭に子ども六人と妻の八人家族でした。
いつものように口上を述べた前田さんに返ってきた言葉は「とうとう来たか」という本人の静かな言葉。しかし、赤紙に目を留めた妻は、突然夫の背中にしがみつきました。「死んだらあかん、死んだらあかん」と泣きじゃくりました。起きてきた一番上の男の子は黙ったまま赤紙を見つめていました。
「夫は妻をなぐさめるように『戦場に行っても死ぬとはきまっておらんのう、前田くん』と私に声をかけてきました。私は軍国少年でしたから、ほかの家の妻は泣いたりしないのに、どうしてこの家は、と思いました」
戦後彼は軍国主義に疑問を持ち反省して、赤紙配りから赤新聞社に転職して平和な日本国家を目指し頑張ったそうです、思想の自由結構な事です。
叔父はどんな気持ちで赤紙を受け取ったのだろう、無理だが真相を聞きたい。
話は飛ぶが2010年8月15日NHKで15歳の志願兵のドラマが放映されたそうだ
しかし現在NHKのアーカイブで視る事は出来ないそうだ不思議だ、しかし簡単に謎は解ける。
現在のコロナ問題でサイコパス安倍の態度で一目瞭然だろう、NHKは御用放送局だしマスコミも悪電通の傘下で全てご