新世界都市伝説ノート~事実の裏に潜む真実~

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ウバイド人と日本人の関係とは?ウバイド族の末裔、落合莞爾。

2023-09-07 19:23:28 | シュメール文明

ウバイド人たちは元々はシベリアに住んでいてたが、そこで農耕をしており、シベリアキャベツも作っていた。

そのシベリアキャベツの化石がなぜか日本でも発見されている。

この時期、日本は縄文時代。

中川代遺跡(なかしろだいいせき)では、大陸と交易をしていたという証拠である中国製の石斧(せきふ)も見つかっている。

縄文時代、日本中で黒曜石を交易していたことが分かっているが、ウバイド人たちもシベリアから南下してアナトリア文明を築いた際に、チグリス・ユーフラテス川を活用して、黒曜石の交易をメソポタミアの平野部地域の人々と行っていたことが分かっている。

日本人もウバイド人も、黒曜石とシベリアキャベツを扱っていた。

もちろん、ウバイド人と日本人が直接やりとりをしていたわけではなく、そこには仲介する海洋民族がいたのではないかと推測できる。

北極海航路を通っていた海洋民族ラピュタ人と交流があり、ラピュタ人を通じてウバイド人と古代日本人は繋がっていたと考えられるが、それを確定できる証拠は今のところない。

 

証拠は今のところないのだが、ウバイド族の末裔だと自称する落合莞爾さんという人物がいる。

落合さんによると、

ウバイド人たちは、ビュルム氷期を高山地帯で過ごし、ビュルム氷期が終わった紀元前8000年ころからしばらく時を経て、メソポタミア地域に登場した。

ビュルム氷期中でも、ウバイド人たちは、比較的温暖であった太平洋沿岸の地域にも存在していて、縄文人もその一つだと考えられている。

ウバイド人たちは、メソポタミアに登場した時から、農耕・漁労・牧畜の三つに社会的分業を行っていた。

生産物の取引では、物々交換は手間がかかるため行われておらず、「黄金」を介してやりとりされていた。

ウバイド人たちは、世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図っていた。

ウバイド人は、高度な社会システムを運営する知識を持っており、金の価値を理解する民族だった。

ウバイド人は、各地に移住し高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に、密かに金を収集していた。

こうして、灌漑によって飛躍的に食糧生産規模を高めたエリアは発展していった。

紀元前6500年~3800年ころまではウバイド人、以降はシュメール人がメソポタミアエリアの文明を引き継いだ。

金が取りつくされたメソポタミアはシュメール人に任せておいて、ウバイド人たちは東西への移住を推進していった。

東へ移動を開始したウバイド人たちは、やがて日本へと到達する。

日本にやってきていたシュメール人たちとバトンタッチするかのような動きを見せる。

大陸で活動をするウバイド人たちで、黄金を管理したり移動を担う氏族が「呂氏」(りょし)となった。

歴史上では太公望、呂尚(りょうしょう)、呂不偉(りょふい)呂公(りょこう)などとして登場する。

ウバイド人たちは、お金で王様をまつり上げて統治させ、自分たちは金を採取し、文明が発達したらまた違う土地へと移動していた。

日本では、この呂氏では「秦氏」(はたし)を名乗った。

聖徳太子が立て続けに重要な施策を提案しているが、その背後には、秦河勝が聖徳太子のブレーンとして活動していたからとされている。

今の日本があるのは、実は秦氏の影響がとても強い。

秦氏が高度な知識と技術をもって大量に日本に移住してきた際、なぜ秦氏は日本を占領しなかったのか?という疑問がしばしば提起されるが、秦氏がウバイド人たちだったとすると、なぜ征服しなかったのかその理由が分かる。

ウバイド人たちは、世界へ拡散する中で、スキタイ人の上層部として所属していたり「ケルト人」「フェニキア人」と呼称されたりもしていた。

 

落合さんの証言に学術的な証拠はない。

しかし、ウバイド人の特徴は、金を採集していたり、ケルト人やフェニキア人に影響を与えていたという大きな歴史の流れで見れば、海洋民族ラピュタ人とよく似ている。

海洋民族ラピュタが世界各地に高度な巨石文明を広めた。

古代ヨーロッパに住んでいた古ケルト族がその叡智を授かった。

そして、その古ケルトの文化が、世界各地でおこった製鉄の技術や造船・公開技術のきっかけとなり、大陸ケルトやフェニキア人にも大きな影響を与えていった。

ウバイド人も、シベリアから南下してきてシュメール文明の基礎を作ったり、その他地域にも影響を与え、歴史を動かし、ケルトやフェニキアにも影響を与えている。

 

そんなウバイド人とシュメール人が交わり、シュメール文明が開花する。

あらためて、高度な知識・技術を持っていたシュメール人たちは一体何者だったのか。

シュメール人たちは、大河の河口から川筋に点在する都市国家に船で移動していた。

シュメール語の7割が漁労の言葉であった。

このことから、シュメール人たちは海洋民族が元にあったのではないかという説が存在する。

高度な文明を備えた海洋民族といえば、「ラピュタ人」ということになる。

シュメール人とラピュタ人と日本人、この関係性について深堀りしていく。

 


シュメール文明が発展したのはウバイド人たちのおかげ。

2023-09-07 14:59:53 | シュメール文明

日本各地の巨石には、シュメール古拙文字が刻まれたペトログリフ(不思議な文字が刻まれた石碑のこと)がたくさん発見されている。

日本の各地になぜシュメール文字が散らばっているのか。

日本とシュメールにはやはり古くて深い関りがあるようだ。

日本とシュメールの関係を深堀していく。

そのためには、まず、シュメール人たちより前に住んでいたウバイド人たちについて説明をしなければならない。

 

シュメール人は紀元前4500年ごろ突然メソポタミア地域にやってくるわけだが、シュメール人がくる以前には、ウバイド人たちがその地域で農耕を営んでいた。

紀元前6500年ころは「ウバイド期」と言われ、最初期のシュメール文明とされ、紀元前4000年頃の「ウルク期」へと引き継がれていった。

なので、シュメール人たちが突然現れたとは言われているが、それ以前にウバイド人たちがシュメール文明の礎を築いていた。

そして、シュメール人たちが優れた灌漑技術や高度な知識で、ウバイド人たちが作った土台・文化をさらに拡張していった。

 

ウバイド人たちは元々シベリア地方で農耕をしていた民族であったが、地球の寒冷化に伴い、紀元前6500年ころにメソポタミア地域に南下し、先住していた人たちと混血していった。

ウバイド人たちは南下する際に、ノアの箱舟が辿り着いたアララト山を越えて、アナトリア高原にアナトリア文明(紀元前7000年ころ)を築いていた。

このころには既に、チグリス・ユーフラテス川を利用して黒曜石の交易を行なっていた。

日本においても、縄文時代に広い範囲で黒曜石の交易が行われていた。

特に諏訪で採れる黒曜石が有名だった。

 

ウバイド人たちの移り住んだメソポタミア地域では、紀元前5000年~前4000年にかけて、都市化が進んでいった。

大きな規模の集落、部屋が複数ある長方形の泥レンガ造りの家々を特徴とした。

ウバイド期の後半では、神殿など公的な施設が作られるようになっていく。

10ヘクタール以上の面積の大きな集落を1ヘクタール以下の小さな集落が多数取り囲むという集権的な集落の構造が現れ始める。

シュメール文明の中央集権体制の始まりともいえる時代がウバイド期に現れる。

ウバイド期の次は、紀元前3500年頃から始まるウルク期であり、都市ウルクを中心に本格的な都市国家が形成され、数万人の人口を抱える都市が現れ始める。

このウルク期の文化がメソポタミア全域へと広がっていく。

 

ウルク期後期には、粘土板に記号を刻む「記録システム」が使われはじめ、「ウルク古拙文字」が誕生する。

このシュメール文明の先駆けとなったウバイド期・ウルク期の前半は、文字がなかったために、どのような文化を持ちどのような生活を行っていたのか詳細はよく分かっていないが、ウルク期後半の古拙文字によって徐々に明らかにされてきている。

ウバイド期・ウルク期の遺跡から分かる情報と、ウルク古拙文字の情報を比較してみると、そこには重大な文化的断絶は確認されていない。

そのため、ウバイド文化とシュメール文化には連続性があり、ウバイド人たちはシュメール人に支配されたのではなく、緩やかに交わっていったと考えられている。

ウバイド人とシュメール人を同一とみなす説、ウバイド人とシュメール人が徐々に混血していった説などあるが、正確なことは分かっていない。

しかし、ウルク期にシュメール人が突如現れ、ウバイド文化によって整えられた都市と掛け算するかのように、一気に高度な文明を発展させていったことは事実である。

 

次に、ウバイド人と日本人との関係について解説していく。