郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

昭和の街角「神姫バス営業所付近」

2019-11-01 10:35:45 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の街角「神姫バス営業所付近」  宍粟市山崎町山崎

                 閲覧数1,268件(2010.1.7~2019.10.31)

昭和30年代の神姫バス営業所付近


▲昭和40年代に鹿沢に営業所が移転するまで、ここがバスの発着場所であった。正面に本町のさつき通り、右に山崎農協、三浦精肉店が写っている。



 
▲南の方から山崎町農協を写したもの、バスがボンネットタイプなので、年代は上の写真より少し前のものでしょう。

昭和の街角「旧ジャスコ」

2019-11-01 10:15:07 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の街角「旧ジャスコ」   宍粟市山崎町鹿沢
  
                                             閲覧数2,358 件(2009.11.18~2019.10.31)


街中にジャスコがあった頃
写真には、開店16周年記念とある。 



 この場所は、昭和38年商店街の店主を驚かした新方式のスーパーストア「フタギ」が進出してきた場所であった。

 移転後、今は宍粟防災センターが建つ

地名由来「山田・中広瀬」

2019-11-01 09:49:48 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
「山田・中広瀬」 宍粟市山崎町

                閲覧数2,692件(2009.12.16~2019.10.31)


■山田(やまだ)
揖保川中流右岸(西)の平野部に位置する。

【近世】山田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。中世末に段丘面西部に山崎村、東部に当村があったが、寛永8年(1631年)、町場化に伴い城下町に居住していた農民を当地に移住させて成立。農人町・田町とも別称。郷帳類では江戸期を通じて山崎村の一部として扱われた。城下町の南東端の清水口を出た道は当村で姫路方面と龍野方面に分かれる。分岐点に寛政9年(1797年)に立てられた石の道標がある。(写真2)

【近代】山田 
明治22年~現在の山崎町の大字名。

■中広瀬(なかびろせ)

揖保川中流右岸(西)、篠の丸山の南東麓。古くは広瀬郷ともいったといい、南方には下広瀬の地名がある。地名は揖保川の氾濫原で沃野が広がることが郡内一であったことに由来するといい(宍粟郡誌)、また揖保川の流れが広くなる地点であることにちなむとも考えられる。
【近世】中広瀬村
江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は稲垣神社。当村は揖保川筋にあり、高瀬舟による舟運にもかかわり、安政年間には川船が3艘あったという。また、洪水の被害が出ることも多かったという。

【近代】中広瀬
明治22年~現在の山崎町の大字名。揖保川の舟運はその後衰微しながら昭22和初期まで続いた。大正8年に郡是製糸宍粟分工場が安志(あなし)村安志から地内に移転し、山崎工場と改称。昭和6年には従業員712人、生産高3万7,526貫、工場周辺には下請け業者が集中し、周辺の農山村の養蚕業とともに活況を呈したが、戦後絹織物の需要減退により、次第に規模を縮小。同34年に工場は閉鎖された。昭和32年に始まる国道29号の改修・整備と山崎インターチェンジの開通により、交通の要地として工場や商店などが増加。

◇今回の発見 現在地名で中広瀬、下広瀬として残る広瀬郷は、揖保川の氾濫でできた大きな沃地であった。

※広瀬郷:秀吉軍が長水城を攻めたときに、出石の愛宕山に陣を張り、広瀬郷先の長水山にある長水城を望んで詠んだ句に「かがり火に、鵜(宇野)の首みゆる 広瀬かな」というのがあり、広瀬郷が出てきます。長水城は別名広瀬城ともいう。






地名由来「今宿・庄能」

2019-11-01 09:41:45 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「今宿・庄能」  宍粟市山崎町

                閲覧数3,047件(2009.12.15~2019.10.31)


■庄能(しょうのう)

 揖保川と支流伊沢川の合流付近。「風土記」に宍禾郡七里の1つ高家里(たかやのさと)のうちとして塩村が見え、同村は当地が遺称地。地名由来は、鹹水(しおみず)が出る場所があり、牛馬が好んで飲んだといわれ、そこを塩村(しおのむら)といったことによる。

【近世】庄能村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。「正保郷帳」では高家村、「元禄郷帳」では「古ハ高家村と申し候」と肩書されて見える。庄野とも書く。寛永8年(1631年)に川西道ができ山崎の町場と奥筋とを結ぶ街道の村となった。明治22年山崎町の大字になる。

【近代】庄能 明治22年~現在の山崎町の大字名。江戸期の奥筋への道は国道29号によって受け継がれ、その整備に伴って商店や工場が増加し、また宅地化が進行している。
現在は、庄能北と庄能南に南北に分離している。



■今宿(いまじゅく)

揖保川中流右岸(川西)。地名の由来は、山崎藩の城下町山崎町の東側に隣接し、町場と揖保川上流(奥筋)の村々とを結ぶ道筋にあたることによると思われる。奥筋への道は以前は主として揖保川左岸の街道が利用されていたが、寛永8年(1631年)に当地内を通る川西道の整備が行われ、次第に交通の中心になった。

【近世】江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。枝村に出石があり、渡しがあった。揖保川をはさんで西出石、東出石と呼んだが、安志・林田・姫路方面と山崎とを結ぶ重要な交通路であった。元和年間(1615から1624年)には出石から、揖保川河口の網干港まで高瀬舟の通行が可能となった。西出石の船着場を出石浜(出石川原)とい呼び、藩の米倉を置いた。荷を扱う問屋は6,7軒あった。(播州宍粟郡誌) 。山崎領内や奥筋の荷の発着点であり年間のべ2,000艘前後が就航した。明和年間(1764~1771年)には高瀬舟運上1艘につき30匁とあり、(郷中古事録)、藩の財源の一つであった。神社は、神明神社。

【近代】今宿 明治22年~現在の山崎町の大字名。
大正期後半には今宿には川舟が無くなったが、出石浜への高瀬舟発着は年間4000回に及んだ。出石からの積荷は、薪炭・木材・木炭が主であった「宍粟郡誌」。陸上交通の発達により高瀬舟の運航は昭和初期で終了したが、出石川原には、船着場の石組みが一部残っている。昭和40年国道29号の改修完了に伴い地内に官庁などの新設・移転がすすみ、商店などが立ち並んだ。

◇今回の発見と願い 
・高瀬舟運航からみた、今宿・出石及び藩財政の盛況と、山崎の町場と奥筋を結ぶ街道の村として発展した庄能が見える。