地名由来「今宿・庄能」 宍粟市山崎町
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■庄能(しょうのう)
揖保川と支流伊沢川の合流付近。「風土記」に宍禾郡七里の1つ高家里(たかやのさと)のうちとして塩村が見え、同村は当地が遺称地。地名由来は、鹹水(しおみず)が出る場所があり、牛馬が好んで飲んだといわれ、そこを塩村(しおのむら)といったことによる。
【近世】庄能村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。「正保郷帳」では高家村、「元禄郷帳」では「古ハ高家村と申し候」と肩書されて見える。庄野とも書く。寛永8年(1631年)に川西道ができ山崎の町場と奥筋とを結ぶ街道の村となった。明治22年山崎町の大字になる。
【近代】庄能 明治22年~現在の山崎町の大字名。江戸期の奥筋への道は国道29号によって受け継がれ、その整備に伴って商店や工場が増加し、また宅地化が進行している。
現在は、庄能北と庄能南に南北に分離している。
■今宿(いまじゅく)
揖保川中流右岸(川西)。地名の由来は、山崎藩の城下町山崎町の東側に隣接し、町場と揖保川上流(奥筋)の村々とを結ぶ道筋にあたることによると思われる。奥筋への道は以前は主として揖保川左岸の街道が利用されていたが、寛永8年(1631年)に当地内を通る川西道の整備が行われ、次第に交通の中心になった。
【近世】江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。枝村に出石があり、渡しがあった。揖保川をはさんで西出石、東出石と呼んだが、安志・林田・姫路方面と山崎とを結ぶ重要な交通路であった。元和年間(1615から1624年)には出石から、揖保川河口の網干港まで高瀬舟の通行が可能となった。西出石の船着場を出石浜(出石川原)とい呼び、藩の米倉を置いた。荷を扱う問屋は6,7軒あった。(播州宍粟郡誌) 。山崎領内や奥筋の荷の発着点であり年間のべ2,000艘前後が就航した。明和年間(1764~1771年)には高瀬舟運上1艘につき30匁とあり、(郷中古事録)、藩の財源の一つであった。神社は、神明神社。
【近代】今宿 明治22年~現在の山崎町の大字名。
大正期後半には今宿には川舟が無くなったが、出石浜への高瀬舟発着は年間4000回に及んだ。出石からの積荷は、薪炭・木材・木炭が主であった「宍粟郡誌」。陸上交通の発達により高瀬舟の運航は昭和初期で終了したが、出石川原には、船着場の石組みが一部残っている。昭和40年国道29号の改修完了に伴い地内に官庁などの新設・移転がすすみ、商店などが立ち並んだ。
◇今回の発見と願い
・高瀬舟運航からみた、今宿・出石及び藩財政の盛況と、山崎の町場と奥筋を結ぶ街道の村として発展した庄能が見える。