地名由来「三方町・公文・森添」 宍粟市一宮町
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三方地区内
■三方町(みかたまち)
揖保川上流、同川とその支流の公文川・高野川などの合流点付近に位置する。味方町、味方村とも記された。三方谷(三方郷)の中心で、但馬への道や上野(うえの)村(現波賀町)への道が分岐する交通の要衝である。中世は三方庄に含まれていた。
ミカタの地名は、播磨風土記でイワノオオカミの投げた三つのつづら(三条:みかた)の一つがこの地に落ちたという逸話にちなむ。
【近世】三方町村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「見形村」とみえる。正保郷帳には味方町、旧高旧領取調帳に三方町村とみえる。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。養蚕・炭焼・紙漉あるいは富土野鉱山への出稼ぎなどが主な副業であった。特産物に「御形の半紙」とよばれる和紙がある。
天明5年(1785)百姓木一(木市)は親孝行の模範として三日月藩(当時は幕府領三日月藩預地)から青銅三貫文、幕府から銀20枚を与えられ、寛政元年(1789)に庄屋となっている。その養子儀助も同11年に老中安藤対馬守から銀7枚の褒美を受けている(小阪文書)。
文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は四人で、村に過料銭が科されている(一宮町史)。
室町時代初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、産土神は神明神社。明治22年三方村の大字になる。
【近代】三方町 明治22年~現在大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
昭和22年三方小学校・同校分校・三方中学校が開港・
■公文(くもん)
揖保川支流の公文川・東公文川の流域に位置する。三方谷最大の面積を有する。地名は、中世三方庄の庄官(公文)の居所があったことにちなむと考えられる。
【近世】公文村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。明和5年当村は東公文村・西公文村として村役人庄屋1・年寄1・百姓代1がそれぞれに置かれていたという(一宮町史)。公文川流域では砂鉄の採取が行われ、古くから鉄山も開かれ、奥地には今も蹈鞴(たたら)跡が残る。北部の溝谷・小原両地区には木地屋も多く、家業のかたわら耕地開発を進め、しだいに百姓化していった。宝永7年(1710)正式に百姓村となり、公文村の枝郷となった。当村は和紙の産地として名が知られる。
文政8年(1825)の三方騒動では当村の庄屋源七宅が襲われているが、村から参加者もあり、捕縛者六人、村に過料銭が科せられている。(一宮町史)
産土神は西公文地区が川上神社、東公文地区は若宮神社、ほかに日吉神社がある。寺院は、正保2年(1645)実證禅師開基と伝える臨済宗妙心寺派実際(じっさい)寺。伝統行事の数珠回しは現在も続いている。明治22年三方村の大字になる。
【近代】公文 明治22年~現在の大学名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
■森添(もりそえ)
揖保川支流の公文川と東公文川の合流点東側に位置する。地名は、御形神社の鎮守の森近くに位置することに由来していると思われる。
【近世】森添村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。慶長国絵図には「森そい村」とみえる。
文政8年(1825)の三方騒動では一揆の首謀者が当村の御形神社に参加者を集めた。その後、福野村と公文村の庄屋宅を襲い、次の行動に移るべくいったん御形神社に引き上げた。このとき同社神官ほか五人の説得により一揆は鎮まったが、当村からの参加者もあり、捕縛者は三人で、村に過料銭も科せられている(一宮町史)。
産土神の御形神社は森添集落の南に鎮座する。「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「御形(ミカタ)神社」に比定され、旧県社。御形谷全域の氏神様として祀られている。同社の本殿は大永7年(1527)の造営といわれ室町期の神社建築様式を伝える。明治22年下三方村の大字にとなる。
【近代】森添 明治22年~現在の大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
昭和42年御形神社本殿が国重要文化財に指定された。
◇今回の発見
天明5年に三日月藩(幕府領預地)から三方町の百姓木一が親孝行の模範として恩賞を受け、4年後庄屋になっている。この頃は天明の大飢饉で各地一揆頻発のさなか。一連の恩賞行為の背景に何があったのだろう。賞罰のけじめにより、藩の体制維持や農民支配を図ったのか・・・。三方騒動の起きる40年前にあたる。