郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

水運物語1 「出石の河岸」

2019-11-23 23:06:09 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
水運物語1 「出石の河岸」

【閲覧数】1,202件2009年12月14日~2019.10.31)



昭和10年出石(いだいし)の河岸


現在


  高瀬舟の発着場、筏流しの中継点でもある。揖保川上流(波賀・一宮)で切り出された木材は、筏にして運ばれ、出石で一部引き上げられたり、更に束を連結して、龍野・網干へ下っていった。

  旧山崎町は、古くから交通上の要所で山崎を中心に道路網が四方にのびていた。もうひとつの重要な交通が水運であった。

17世紀のはじめころ、揖保川を整備し、南は網干港まで、高瀬舟により物資が南へ運ばれた。また、橋のない時代は、渡し舟が活躍した。

もみじ情報11月23日

2019-11-23 18:57:53 | 2019最上山もみじ情報
もみじ情報11月23日(土)

快晴。汗ばむ陽気。今日、明日はイベント日。朝9時にすでに訪れる人があり、昼前後の酒蔵通りは人だかりとなる。予想外の人出となった。





もみじ山は赤く染まり、ベンチのあるベストポジション付近の木々が輝いている。
もみじ山の頂上の少し先にあるモミジは長老で葉も大きく、真っ赤に色づいた。

▼真っ赤に色づいた長老のもみじ

▼11日前(11月12日)の状態




これから落葉が始まり、あと数日はモミジの絨毯が見られるだろう。


▲展望台に足を延ばした人も多かった。




養蚕物語2「郡是製糸山崎工場」

2019-11-23 07:07:07 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
ぐんぜせいし
郡是製糸(株)山崎工場  宍粟市山崎町中広瀬(現在の宍粟市役所周辺)


【閲覧数】1,128件(2009.12.10~2019.10.31)





沿革と現況
明治36年元宍粟製糸(株)の設立に係るものを同42年買収、宍粟分工場と称して、営業せしも大正7年安志村より山崎町へ移転改装し現在に至れるものなり。
現在釜数  403
従業員数  700
購繭数量  1ケ年 240,000貫
生糸製造高 1ケ年 30,000貫
                       

「宍粟郡で従業員の最も多いのは、郡是製絲(株)山崎工場である。この工場の本社は京都府綾部市にあり、傘下に33工場ある。
原料 山崎工場購繭区域は、宍粟、佐用両郡を主とし、県内5市9郡よりなる広い地域より年間約4万5千貫を収納している。・・・
山崎工場 従業員 男子25名、女子135名、計160名 従業員は本郡出身者が大部分である。」とある。「宍粟1952 宍粟地方事務所編」より

1貫=3.75kg (尺貫法の重さの単位。1貫は1000匁(もんめ)、すなわち3.75キロで、明治24年(1891)から昭和33年(1958)まで商取引で用いられた。)

換算すると実に168、750kg 約169トン。あの軽い繭が169トンとは、凄い量が生産されていたことが、数字でわかる。
明治・大正・昭和にかけての一大産業 養蚕業を物語る写真です。当時の若い女工さんは、かなりの高齢になられているのだろう。

昭和36年12月 群是製糸山崎工場閉鎖、昭和38年この地に東洋建材操業開始

 

◆グンゼ(郡是)の社名由来
「郡是」の社名は、京都府何鹿(いかるが)郡蚕糸組合の組合長であった波多野鶴吉氏が、前年に、日本養蚕会会頭の前田正名氏を招いた演説会の際、前田氏が力説した「国に※国是、郡に郡是、村に村是の要あり」の言葉に由来するという。※国是は国民から支持を得ている方針や計画をいう。


地名由来「三方町・公文・森添」

2019-11-23 06:42:38 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「三方町・公文・森添」  宍粟市一宮町

【閲覧数】4,952件(2010.2.10から2019.10.31)



三方地区内

■三方町(みかたまち)
揖保川上流、同川とその支流の公文川・高野川などの合流点付近に位置する。味方町、味方村とも記された。三方谷(三方郷)の中心で、但馬への道や上野(うえの)村(現波賀町)への道が分岐する交通の要衝である。中世は三方庄に含まれていた。
ミカタの地名は、播磨風土記でイワノオオカミの投げた三つのつづら(三条:みかた)の一つがこの地に落ちたという逸話にちなむ。

【近世】三方町村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「見形村」とみえる。正保郷帳には味方町、旧高旧領取調帳に三方町村とみえる。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。養蚕・炭焼・紙漉あるいは富土野鉱山への出稼ぎなどが主な副業であった。特産物に「御形の半紙」とよばれる和紙がある。
天明5年(1785)百姓木一(木市)は親孝行の模範として三日月藩(当時は幕府領三日月藩預地)から青銅三貫文、幕府から銀20枚を与えられ、寛政元年(1789)に庄屋となっている。その養子儀助も同11年に老中安藤対馬守から銀7枚の褒美を受けている(小阪文書)。
 文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は四人で、村に過料銭が科されている(一宮町史)。
室町時代初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、産土神は神明神社。明治22年三方村の大字になる。

【近代】三方町 明治22年~現在大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
昭和22年三方小学校・同校分校・三方中学校が開港・





■公文(くもん)
揖保川支流の公文川・東公文川の流域に位置する。三方谷最大の面積を有する。地名は、中世三方庄の庄官(公文)の居所があったことにちなむと考えられる。

【近世】公文村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。明和5年当村は東公文村・西公文村として村役人庄屋1・年寄1・百姓代1がそれぞれに置かれていたという(一宮町史)。公文川流域では砂鉄の採取が行われ、古くから鉄山も開かれ、奥地には今も蹈鞴(たたら)跡が残る。北部の溝谷・小原両地区には木地屋も多く、家業のかたわら耕地開発を進め、しだいに百姓化していった。宝永7年(1710)正式に百姓村となり、公文村の枝郷となった。当村は和紙の産地として名が知られる。
 文政8年(1825)の三方騒動では当村の庄屋源七宅が襲われているが、村から参加者もあり、捕縛者六人、村に過料銭が科せられている。(一宮町史)
 産土神は西公文地区が川上神社、東公文地区は若宮神社、ほかに日吉神社がある。寺院は、正保2年(1645)実證禅師開基と伝える臨済宗妙心寺派実際(じっさい)寺。伝統行事の数珠回しは現在も続いている。明治22年三方村の大字になる。

【近代】公文 明治22年~現在の大学名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。





■森添(もりそえ)
揖保川支流の公文川と東公文川の合流点東側に位置する。地名は、御形神社の鎮守の森近くに位置することに由来していると思われる。

【近世】森添村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。慶長国絵図には「森そい村」とみえる。
 文政8年(1825)の三方騒動では一揆の首謀者が当村の御形神社に参加者を集めた。その後、福野村と公文村の庄屋宅を襲い、次の行動に移るべくいったん御形神社に引き上げた。このとき同社神官ほか五人の説得により一揆は鎮まったが、当村からの参加者もあり、捕縛者は三人で、村に過料銭も科せられている(一宮町史)。
 産土神の御形神社は森添集落の南に鎮座する。「延喜式」神名帳にみえる宍粟郡七座のうちの「御形(ミカタ)神社」に比定され、旧県社。御形谷全域の氏神様として祀られている。同社の本殿は大永7年(1527)の造営といわれ室町期の神社建築様式を伝える。明治22年下三方村の大字にとなる。

【近代】森添 明治22年~現在の大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
昭和42年御形神社本殿が国重要文化財に指定された。




◇今回の発見
天明5年に三日月藩(幕府領預地)から三方町の百姓木一が親孝行の模範として恩賞を受け、4年後庄屋になっている。この頃は天明の大飢饉で各地一揆頻発のさなか。一連の恩賞行為の背景に何があったのだろう。賞罰のけじめにより、藩の体制維持や農民支配を図ったのか・・・。三方騒動の起きる40年前にあたる。

地名由来「生栖・深河谷・西深」

2019-11-23 06:35:13 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「生栖・深河谷・西深」  宍粟市一宮町

【閲覧数】3,717 件(2010年02月05日~2019.10.31)



下三方地区内

■生栖(いぎす)
揖保川下流左岸に位置し、集落中央部を支流築谷(つきだに)川が流れ、合流点南部に平地が広がる。地名由来は、生栖の「生」の「いぎ」と発音するのは事の始まりを意味し、三方の谷の始まる地に立地することからといわれる。栖は、住み処(か)、住んでいる所の意。

【近世】生栖村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村より上流の揖保川流域は三方谷(三方郷)と称され、当村はその際南部に位置していた。
文政8年(1825)12月、三方谷18か村の※小前百姓は惣氏神御形神社の鐘を合図にするなどして決起し、26日に庄屋の福野村七兵衛宅・七太夫宅および公文村の源七宅へ打毀(うちこわし)を行った。原因は凶作にもかかわらず七兵衛が高値で米を売却し、七太夫・源七は他国へ多くの米を売りさばいていたためという。打毀は三方騒動といわれた(以上、同年「深河谷村百姓願書」・同9年「深河谷村過料請書」土居家文書など)。この騒動に当村の者も参加、捕獲者一人を出し、村に過料銭も科せられている(一宮町史)。
 ※小前百姓(こまえひゃくしょう):一般百姓のなかでも土地を持たない弱小で格の低い百姓をさす。

 築谷川上流の滝に昔から鰻が住み、旱魃(かんばつ)の際にこの鰻に酒を飲ませて祈ると雨が降ったと伝える。
 産土神は大歳(おおとし)神社。秋の祭礼では勇壮な獅子舞が現在でも続けられている。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】生栖 明治22年から現在の大字名。昭和51年の抜山(ぬけやま)崩れにより大被害を受けた。




■深河谷(ふかだに)
揖保川上流右岸に位置し、支流深河谷川流域と合流点南部の平地を主とする。地名は、奥深い谷間を流れる深河谷川に由来する。慶長国絵図に「谷村」とみえ、その北西の「池のかいつ」は現在の深河谷内池ノ河内(かいち)であろう。

【近世】深河谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、明和6年(1769)尼崎藩領、文政11年(1828)幕府領となり幕末に至る。
 神社は、池王神社。同社は長寿の神と伝え、秋の祭礼には伝統の獅子舞が現在も奉納されている。伝統行事の川スソ祭は、深河谷川と揖保川の合流点に臨時の堂を建て祭礼を行う。近隣では当地と河原田のみに伝わる特色のある行事。明治22年下三方村の大字になる。

【近代】明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。






■西深(にしぶか)
揖保川上流右岸。地名は、揖保川右岸(西岸)のかなり奥深い、細長い地域であることによる。

【近世】西深村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。明和3年(1766)頃から寛政3年(1791)頃まで三日月藩領地(西深区有文書)、以後幕府領として幕末に至る。明治22年下三方村の大字になる。稲は早稲で裏作は、麦、畑作は五穀のほか蕎麦・煙草など。
 文政8年(1825)の三方騒動に当村から参加したものがあり、捕縛者二人。このとき村役人が大坂谷町代官所(現大阪市中央区)に出張し、当村に過料銭も科されている(一宮町史)。
 産土神の御武(みたけ)神社は安産の神で、古来出産による死亡者はないと伝える。秋の祭礼には伝統の獅子舞がある。

【近代】西深 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和51年の抜山崩れで大被害を受けた。



◇今回の発見
・難解な読みの地「生栖」、生をいぎと読むのは、山崎町蔦沢谷の入口にある生谷(いぎだに)と同じ。
・生栖・深河谷・西深には、獅子舞などの伝統行事が今も息づいている。
・文政期(1818~30)は、全国的に百姓一揆・村方騒動(一村単位の騒動)が頻発しはじめた時期であり、この打毀し「三方騒動」もその地方版ということになる。