地名由来「百千家満・上岸田」 宍粟市一宮町
【閲覧数】5,772 件(2010.2.12~2019.10.31)
繁盛地区内
■百千家満(おちやま)
揖保川の上流域両岸に位置する。地名は、古くから風水害による山崩れや落石などの天災に見舞われ、村の繁栄を願って百千家満に改めたと伝える(改称の年代は不詳)。
【近世】百千家満村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に「おち山村」とみえる。天保郷帳では「古者落山村」と注記がある。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は3人で村に過料銭も科されている。なお当村の常楽寺の住職は一揆の説得にあたった一人である『一宮町史』。
産土神は臼木(うすき)神社。寺院は、弘仁14年(823)の開基と伝える満福寺と元和9年(1623)海春法印開基伝える高野山真言宗常楽寺がある。満福寺の薬師如来座像は秘仏として20年ごとに開扉される。同像は藤原様式の典型的な彫像といわれる。明治22年繁盛村の大字となる。
【近代】百千家満 明治22年~現在の大字。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。
■上岸田(かみきしだ)
揖保川と黒原(くろはら)川の合流点付近に位置する。
【近世】岸田村 江戸期~明治12年の村名。播磨国宍粟郡のうち。古くは半瀬村・山岸村とも称したという。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。検地は慶長13年で、半瀬村となっている。
文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は3人で村に過料銭も科されている。
産土神は、日野神社。寺院は、明暦元年(1655)大安長和尚禅師開基と伝える臨済宗妙心派仏心寺。室町時代初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。明治12年上岸田村と改称。
【近代】上岸田村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。江戸期の岸田村が同郡内に2か村あるために改称して成立。
【近代】上岸田明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。


◇今回の発見
・難解呼び名の百千家満の地名由来が、古くからの風水害による山崩れ落石の地名「落山」からの改称だということ。今の地名には、村が豊かで家が満つるという村繁栄の願いが込められている。
・上岸田村の元の名は岸田村。川下の揖保川中流域の山崎町河東地区にある岸田村と区別するため、「上」を付け、上岸田村と改称した。繁盛地区の中心地。なお繁盛(はんせ)村(地区)の繁盛は半瀬村からの改正。この地名改正も繁栄への願いからだろう。
・百千家満の満福寺の秘仏薬師如来座像が20年に一回の開扉というが、次はいつだろう。