郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「中井・鶴木・春安」

2019-11-05 16:03:02 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「中井・鶴木・春安」     宍粟市山崎町

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■中井(なかい)
揖保川の支流菅野川の下流域。菅野川左岸から山崎町の町場との境をなす段丘崖にかけての水田には、条里制の遺構が見られ、志水ケ坪・泉ケ坪・小牛ケ坪の坪名が残る。

【近世】中井村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は、田中神社。明治初年地内東部。中井に山崎の町場中央から南下する道路が新設された。町場から段丘崖を下る坂道を敷設の中心となった人物の名をとって遠藤坂と呼ぶ。

【近代】中井 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和50年地内を東西に中国自動車道路が開通。近年主要県道山崎南光線の整備などにより商店などが増加しつつある。

地名の由来は、水路に係わるもので、今宿から揖保川に井関をつくりその水路(溝)が城下平野に伸びている。その水路のちょうど中ほどで二股に分かれており、つまり水路の流れの中の井関から由来している。(「地名の由来」 西川氏)



■鶴木(つるぎ)
古くは靏木とも書いた。揖保川の支流菅野川下流域。

【近世】鶴木村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は金比羅神社(鶴木神社)明治22年城下村の大字となる。

【近代】鶴木 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、明治30年からは山崎町の大字。菅野川周辺には竹薮が多いことで知られたが、戦後はほとんど姿を消した。西部に小規模な宅地開発が行われている。

地名の由来は、金比羅神社の伝説につながっている。土中から剱(つるぎ)が発見されたのを祭り、その地を剱村と称し、社を建ててのち、鶴木と改めたという。



■春安(はるやす)
揖保川の支流菅野川の下流域。慶長11年(1606年)11月26日姫路城主池田輝政は、安養寺内蔵助に春安村151石1斗を含む都合2,000石を※宛行っている。(鳥取県立博物館所蔵文書) ※宛行う(あておこなう):禄や所領を割り当てること、あてがう

【近世】春安村
江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は、天神神社。寺院は、天台宗中寺円明院(円明寺)。同寺は、山崎藩主池田氏の菩提寺であったが同氏の断絶によって衰退。のち願行寺(がんぎょうじ)成就院と改めた。なお、江戸初期には浄土宗青竜山大雲寺・清光寺(清光寺)があった。のち山崎の町場に寺町が形成されて両寺の寺跡には山崎藩主の墓なども残っている。明治22年城下村の大字になる。

【近代】春安 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。兼業農家を主とする農村で、近年菅野川の周辺に若干の商店などが立ち並ぶ。昭和50年の中国自動車道が地内を通過する。

地名の由来は、春安は城下平野西の段丘にあり、いち早く朝日を仰げる見晴らしのよい地である。春安のハルは「治、墾」に由来する。『日本地名辞典』。その開墾地は平安末期に成立した名田百姓村の一種が美称されたとある『ひょうごの地名』。まとめれば、景色のよい開墾地の佳名と思われる。


今回の発見
◇春安は、伝統の天神祭りがおこなわれている。江戸期には当村内の中寺に大雲寺、清光寺(現廃寺)があり、その後、池田藩主の菩提寺円明寺が建った場所であり、山崎城下町内に寺町ができるまで仏教ゆかりの地であった。





地名由来「野・船元・下広瀬」

2019-11-05 09:27:06 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「野・船元・下広瀬」   宍粟市山崎町

              閲覧数】4,273 件(2009.12.22~2019.1031.)



■野(の)

揖保川中流右岸。条里制の遺構が水田中に認められる。

【近世】野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと船本村の一部、同村から分村して成立。なお、郷帳類では船本村に含めて書きあげられている。神社は、稲垣神社。寺院は、浄土真宗本願寺派正福寺。同寺は宝暦13年道場から始まったという。

【近代】野 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。



■船元(ふなもと)

舟元とも書く。揖保川中流右岸の平野部。

【近世】船本村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。当村から野村が分村したと思われるが、郷帳類では船本村一村として書きあげられている。慶長年間(1596から1615年)当村で千種鉄を利用して姫路藩主池田輝政建造の日本丸の錨が製作されたという『播州宍粟郡誌』。

 慶安年間(1648~1652年)には揖保川の渡しが置かれ、藩主の参勤交代に利用され下座場があった。寺院は、浄土宗一雲寺(一雲庵)。同寺は大雲寺(山崎町史)末寺で、17世紀前半に廃寺となった一雲寺(同)の本尊仏を移置したものという。同寺には寛政元年(1789年)金屋村鋳物師長谷川孫兵衛銘の梵鐘も残っている。また、墓地には安政2年(1855年)俳人二頃庵年足建立の芭蕉の句碑がある『山崎町史』。明治22年城下村の大字となる。

【近代】船元 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年国道29号線改修工事が完了。同50年これに連絡する中国自動車道山崎インターチェンジが開通。交通量が増大し、自動車関連の商店などが増加している。



■下広瀬(しもびろせ)

 揖保川中流右岸の平野部。北方に中広瀬があり、古くは付近一帯を広瀬と称したものであろう。羽柴秀吉の中国攻めに同行した連歌師の里村紹巴(さとむらしょうは)が、この地で「かがり火に鵜の首みゆる広瀬かな」の発句を詠んだという(豊鑑)。地名は、揖保川の瀬のひろい流れによるものと考えられる。水田中に条理の遺構が見られるが、揖保川の氾濫により大きく撹乱されている。

【近世】下広瀬村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。明治22年城下村の大字となる。龍野、網干への道として中広瀬村の稲垣神社西方の寛政9年(1797年)に立てられた道標を南にとり、当村から御名村を経て揖保郡へ通じる道があった。(山崎町史)狐山神社がある。

【近代】下広瀬 明治22年~現在の大字名。はじめ城下村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年に改修が完了した国道29号線が、北から東へ大きく屈曲して通過し、これと連絡して中国自動車道(同50年開通)の山崎インターチェンジが設置された。

◇今回の発見:今回あげた揖保川沿いの3つの地は、揖保川の恵みと同時に、氾濫に悩まされてきた地である。条里制の遺構もあるが、撹乱されているという。




昭和の街角「道標」

2019-11-05 07:19:55 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の街角「道標」  宍粟市山崎町中広瀬 市役所付近


                 閲覧数979件(2009.11.17~2019.10.28)

昭和15年(1940年)頃中広瀬の一角(うしろは郡是製糸山崎工場の塀)




 江戸時代、本多藩時代の参勤交代には、この道標を左(東)に入り、稲垣神社前を通り、渡し船で揖保川を渡り、安志・林田を経て、姫路に向かっていました。
(写真提供:山崎町北川様)



▲現在

道標 
左 あんじ(安志)、ほうでう:ほうじょう(北条)、
    はやし田(林田)、ひめち(姫路)
右 志ん宮(新宮)、あぼし(網干)、
  たつの(龍野)、むろつ(室津)

※この道標は、29号線の施設工事のとき、元々あった場所200m南に移築されています。