「奥小屋村(神保)」 元宍粟郡菅野村
閲覧数3,380 件(2010.10.7~2019.10.31)
宍粟ゆかりの地 奥小屋村(神保)のこと
~昭和14年まで宍粟郡菅野村に属していた地~
■奥小屋(おくごや)村
揖保川水系栗栖(くりす)川源流北方に位置する。江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年宍粟藩領、延宝7年幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。
▼奥小屋村(奥麦子)の風景
▼栗栖川
当村は山間部に位置したため、再々山論が起こっている。享保年間(1716~36)に地内西山の帰属をめぐって当村と山崎藩領市場村・高下村の請所であった西山が当村の三日月藩領編入とともに領主変更となったことによる。このため、市場村の浪人時朝(ときとも)五郎左衛門が村人に代わって幕府に直訴した。彼は処刑されたが西山一帯は宍粟藩(山崎藩)領となったという。寛政12年(1800)には当村内の12か村入会を6か村にしようとする動きもあったが、もとどおりの裁許となった。神社は、八幡神社・明神社
〔近代〕奥小屋 明治22年から現在の大字名。はじめ菅野村、昭和14年西栗栖村、同26年からは新宮町の大字。昭和11年4月電灯架設。明治14年の戸数33、人口163.人、昭和14年戸数23、人口104人
■奥小屋村の神保(じんぼ)地区
元は宍粟郡山崎町菅野村に属し、昭和14年新宮町西栗栖村に編入。
西栗栖編入後も神保の小学・中学生だけは菅野村に通学していた。昭和初期には7戸程の家があり、藤田・山下の姓の集落。電気は、奥小屋村の最後に付けられ昭和30年架設。電話は要望するも架設されることはなかった。
昭和47年に最後の住民が下山し、廃村となる。
消えた奥小屋村神保
かつて、菅野村の南の西山に神保という村があった。今から約50年前に廃村となった。その神保に住んだ人たちは数少なくなり、その生活の記憶は月日の流れに消えかかろうとしています。このような事例は、前回の三日月の大下りでもありました。現在過疎化で「※限界集落」と呼ばれている地域が全国的にも、そして宍粟とその周辺の地にも目立ち始めました。神保の廃村は、そんなに昔ではない身近な地域の現実でした。地域活性の支援とともに宍粟や宍粟のゆかりの地の人々の歩みの記録をいつまでも残していきたいと考えさせられました。
※限界集落:住民の半数が65歳以上、共同体としての生活の維持機能が難しい集落