郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

昭和の風景「町営住宅(横須・段」

2019-11-08 09:20:25 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の風景「町営住宅(横須・段」   宍粟市山崎町

 
                閲覧数903件(2011.8.22~2019.10.31)

山崎町の横須町営住宅

昭和41年 横須町営住宅15戸が建設されました。


段町営住宅

昭和32年 段町営住宅が20戸建設されました。



写真・説明:「やまさき40周年記念号 1965」より

地名由来「三津・梯」

2019-11-08 09:14:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「三津・梯」   宍粟市山崎町

                 閲覧数1,383件(2010.1.7~2019.10.31)



山崎町神野地区内

■三津(みつづ)
揖保川中流右岸、同川とその支流伊沢川との合流点北側に位置する。

【近世】三津村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)には、「水須村」と見える。年月未詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(九我家文書)に「ミツ丶」の名主の名がみえ、「上ミツヽ」とも記されている。当村の特産物は木綿・薬草(※茯苓)。なお願現寺とみられる官弦寺(かんげんじ)の小字が今も残る。
 寛保年間(1741~44年)~宝暦年間(1751~64年)にかけて対岸三谷村の志ゆうせん川原で砂鉄の採取が行われ、当村の官弦寺でそれを原料として蹈鞴(たたら)製鉄を行った(山崎町史)。今も製鉄跡を物語る鉄滓の撒布池が残る。神社は、武太(たけだい)神社。明治22年神野村の大字となる。

※茯苓(ぶくりょう):サルノコシカケ科のキノコ。アカマツの根などに寄生。漢方で鎮静・利尿薬などに用いる。


【近代】三津 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年の国道29号拡幅工事実施以後、道沿いに飲食店・工場・倉庫・商店が立ち並び、中三津地先の揖保川には昭和53年さつき橋が架橋された。




■梯(かけはし)
揖保川支流梯川の上流域。地名は急な傾斜面に屋敷を開いていることから起こった。

【近世】梯村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「かけ橋村」とみえる。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716年)からは安志藩領。寛文年間(1661~73年)五十波杣(そま)と呼ばれる人々が当村で藩御用材を伐採、商人の請負山もあった。神社は、岩上神社。明治22年神野村の大字になる。

【近代】梯 明治22年~現在の大字名。はじめ神野村、昭和30年からは山崎町の大字。戦後姫路市網干校区の夏季キャンプ場、昭和59年神野運動公園が開設された。



◇今回の発見:三津についての地名由来は、記されていないが、慶長時代に水須村と記されていたことがあり、水との関係が深いことは言える。

地名由来「岸田・野々上」

2019-11-08 08:58:01 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「岸田・野々上」  宍粟市山崎町


                閲覧数1,542件(2010.1.6~2019.10.31



山崎町河東地区内

■岸田(きしだ)

揖保川中流左岸に位置する。地名の由来は、沖積地の耕地化以前は、河岸段丘上が主たる農地であったため、岸(段丘)の田という意で命名されたと伝える。天正8年(1580年)頃と推定される正月28日の丹波守澄忠書状は「五ミやう・〈河東〉とう田・〈川西〉いかは・いせ・石作、此外所々惣御門徒衆中」に宛てられており、これは石山合戦の際に石山本願寺から宍粟郡の真宗門徒に寄せられたものである(願寿寺)。このうち、とう田は現在岸田の小字名として残る。

【近世】岸田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に村名が見える。神社は、八幡神社。同社は文政11年(1828年)隣村五十波村から勧請したという。寺院は、浄土真宗本願寺派法流山明宝寺。同寺は天文8年(1539年)正円開基と伝え、証如裏書の開基仏がある(郷中古事録)。当村には天保5年(1834年)まで大庄屋をつとめた久保忠中兵衛がいた。明治6年岸田学校、明治9年博文小学校開校。同校は当初明宝寺にありのち八幡神社に移り、さらに神谷村へ移転。良米および薬草の産地である。

【近代】岸田 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年から山崎町の大字。昭和24年字松ノ本に河東・神野両村の組合立神河中学校(のち町立)設置。昭和35年簡易水道が敷設され、その工事中に神河中学校前から壷に入った小銭約35kgが出土した。昭和54年度から数回に分けて圃場整備が実施され、農道新設、保喜橋・五助橋の架橋、中川(東川)河川敷の耕地化などが行われた。




■野々上(ののうえ)

揖保川中流左岸に位置する。地名の由来は、揖保川左岸の農耕地のうち最も北(上)であることによるという。

【近世】野々上村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に村名が見える。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、京都所司代・姫路藩預り地・大坂城代堀田氏領を経て、明和6年(1769年)から摂津国尼崎藩領。当村北端に釜が岨(そ)と呼ばれる出石舟着場への近道があったが、寛永8年(1631年)田井村に渡し舟ができるとともに釜が岨への道路修理費が当村の過重負担となり、文政6年(1823年)現実に「物資輸送に利用している今宿村・中広瀬村の問屋を相手取り費用負担の訴訟を起こした。神社は、天保元年五十波村から勧請した八幡神社。寺院は、真言宗東雲寺・同宗西雲寺・浄土宗永尾山陸雲寺。東雲寺は天文23年(1544年)宗専開基、西雲寺は永禄元年(1558年)長祐開基と伝えるが、のち両寺とも廃寺となった。陸雲寺は千葉兵庫助(天誉)開基、創建は明暦3年(1657年)とも正徳元年(1711年)ともいう。(山崎町史・河東村誌・宍粟郡村々反別郡玉帳)。同寺に大野善太夫が寺子屋を開いた。明治22年河東村の大字となる。

【近代】野々上 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村。昭和30年から山崎町の大字。昭和25年1町8反を開墾。昭和39年藤田半次郎が養蚕方法を改良し、翌年養蚕共同飼育組合を設立。昭和36年簡易水道落成。昭和46年釜が岨道路が廃され、野田橋が架橋されると、橋詰に鉄工所・製材所倉庫・化成工場が進出した。昭和47年河東頭首工完成。昭和54年補助整備完了。



◇発見:河東地区は、各村々ではやくから家塾、寺子屋などが開設され、教育に力をいれていた。明治の初めには小学校が設立される教育基盤ができていたようです。

地名由来「神谷・矢原」

2019-11-08 08:50:46 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「神谷・矢原」  宍粟市山崎町

                 閲覧数2,366件(2010.1.5~2019.10.31)


山崎町河東地区

■神谷(こうだに)
揖保川中流左岸に位置する。

【近世】神谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。石作庄のうち。年月日不詳の播州国石作庄・段銭等算用状(久我家文書)に「神谷」の名主の名がみえ、河谷とも記されている。同算用状には「橘村」や「橘山田」がみえるが、現在の神谷地区に立花・山田の小字名が残り、揖保川の河岸段丘上の北側に山田、中央から南にかけて立花が位置する。慶長国絵図に村名がみえる。神社は、八岡(はちおか)神社。当村には、大庄屋栗山儀右衛門がいた。同氏宅の長屋門などが残っている。幕末栗山孫十郎によって寺子屋が開かれた。明治11年岸田村の博文小学校が当村に移転。同校で教鞭をとった当村出身栗山新は※岡山藩閑谷黌に学び林田藩儒者※河野鉄兜の門下で、山崎藩の典医もつとめた。明治22年川東村の大字となる。

※閑谷黌(しずたにこう):閑谷学校。岡山藩主池田光政(みつまさ)が創設した庶民教育のための藩営の学校。校地は特別史跡、講堂は国宝。
※河野鉄兜(こうのてっとう):文政8年(1825年)〜慶応3年(1867年)。揖東郡網干垣内に生れる。江戸時代末期の詩人、医者。林田藩の藩校の教鞭をとる。

【近代】神谷 明治22年~現在の山崎町の大字。昭和53年揖保川にさつき橋を架設。昭和55年河東小学校が三谷へ移転。昭和59年圃場整備完了。



■矢原(やばら)
揖保川中流左岸に位置する。中世は石作庄のうち。

【近世】矢原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。年月日不詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久保家文書)に「矢原」の名主の名がみえ、屋原とも記されている。慶長国絵図に村名が見える。天保年間隣村岸田と境界論争を起こしている。神社は、矢原神社(牛頭天王社)。同社は五社天王と呼ばれるうちの1社で、もと1社であったものが分離したという。

【近代】矢原 明治22年~現在の大学名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和55年がら圃場整備が実施され、農地の中央部を南北に農道が貫通し、同時に揖保川に堤防が造成された。


◇発見:揖保川の東地域の沃土に古代から人々が住み着いていた痕跡が数多く発見されている。