地名由来 「大谷・東下野」 宍粟市山崎町
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山崎町蔦沢地区内
■大谷(おおたに)
竹ノ内とも称する。揖保川の支流伊沢川中流左岸に位置する。
【近世】大谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは宍粟藩領。延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。竹ノ内村とも記される(「下村家手控帳」下村家文書)。当村は、上牧谷村の項に本村分(上牧谷村)と大谷村分が記載され、当村は上牧谷村からの分村であることがうかがわれる。
神社は、須賀神社。明治22年蔦沢村の大字となる。
【近代】大谷 明治22年~現在の村名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和40年県道塩田一宮線改修に伴い。大谷橋が完成。
■東下野(ひがししもの)
【近世】下野村 江戸期~明治8年の村名。伊沢川中流以北は都多川(都多谷)ともよばれ、同川の下流にあるのが村名の由来という。江戸期は「都多下野村」とも書いた。揖保川の支流伊沢川の中流域に位置する。地名は、明治8年に郡内には下野村が2か村あったために、東下野村と改称し、千種川筋の下野村(元佐用町西下野)を西下野と改称した。
神社は、吾勝(あがつ)神社がある。当地以北は現中野の桓武伊和神社の氏子圏で、当地南端の上牧谷村との境に同社の大鳥居がある。
宝永5年(1708)の「宍粟郡誌」の山川の項に当村の「なさらべの滝」がみえる。「都多谷下野村東の山、山崎より二里余り北に有、滝水岩尾づたひに流れ落て、滝頭より落る水直下す。昔は滝頭迄来り、水筋に草木覆ふて家根のごとしと伝へり。今は山やせ、茂れる草木もなし。滝頭より下皆一片の滑石なり。里人雄滝と伝えり」と記され、今は小滝(約2m)と下流大滝(約10m)に分かれている。険しい山腹にあるため訪れる人もないが、降水量の多いときには滝の水しぶきが平地からも確認できる。
【近代】東下野村 明治8年~22年の村名。宍粟郡のうち。明治22年蔦沢村の大字となる。
【近代】東下野 明治22年~現在の大学名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和23年蔦沢中学校校舎落成。昭和63年3月に統合のため廃校になり、平成14年※生涯学習センター「学遊館」がその跡地に完成。
◇今回の発見:大谷が上牧谷からの分村であったこと。地名には方角を表す東西南北や位置を示す上中下があるが、蔦沢村に東下野のみの単独名称があり不自然とは思ったことがあったが、明治初期郡内に下野村が2カ所あったことにより、下野を改称していたことを知り納得。