郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 田和城跡

2020-05-03 11:08:06 | 城跡巡り
 
 
 


 大屋の道を通るたびに城名の書かれていない「城山」の表示板が気にかかっていた。大屋の樽見桜を見に行ったとき、城山の前を通ったのを機会に後日訪れようという気持ちが起きた。これが大屋の城跡探索の発端にもなった。
 



▲田和城跡全景 西から
 



 ▲北の高台から
 

 
 
 田和城跡  養父市大屋町夏梅字田和・西ノ谷
 

 田和城跡は大屋町夏梅(なつめ)の西端に位置し、大屋川が城裾を大きく蛇行し、田和の淵にせり出した細い尾根筋の先端部標高174m・比高35mの地点にある。主郭(10m×17m)を中心に梯郭式で約10の曲輪で構成されている。城域は東西約25m、南北約120mの小規模な城跡である。大きな堀切が中央部分にあり城域を分断している。

 この城は、三方庄と大屋庄の境目にあり、大屋庄の出入り口を押さえていたと考えられている。

 この城に関しては、加保集落に残されている「正垣小左衛門家文書」によれば、天正の頃栃尾源左衛門と居相肥前守(孫作)は藤堂高虎の小代一揆制圧に味方し、その功績によって田和城は居相孫作に与えられ、その後栃尾源左衛門に譲渡されたと記されている。

 尾根筋は南西に延びていたが、城の南裾のたわみ部分(乢)が削られ、県道が敷かれている。
 
※田和城の田和は夏梅字田和の地名から名づけられ、もとは乢(たわ=峠)から来ているという。
 
参考:「大屋町史」
 


 ▲田和城縄張り図 大屋町史より
 
 


アクセス
 

  表示板の左に車1~2台止められるスペースがある。そこから登って行った。左下に川に降りていく道もある.

 登り始めるとすぐに数段の曲輪跡を見ることができる。上部の曲輪跡(縄張り図6)の北側に土塁跡があり少し盛り上がっている。
 
 

 
▲城山登口                     ▲「城山」の表示板
 
 
▲登り始め                       ▲上部に曲輪跡が見える    
  


 ▲途中 南の眺望
 
 

 曲輪跡(図6)を進むと崖状になった大きな堀切がある。堀切を降り主郭に向かうが、登りやすいように切岸に階段の歩道が付けられている。

 この城跡の西側面は川淵上にあり絶壁状なり、東側もかなりの勾配があるため、ふれあいの森の整備として歩道が付けられたのだろう。
 
 

 
▲最初の広い曲輪跡                




▲堀切   
 



▲堀切の歩道
 
 

 堀切の歩道の上には主郭下の曲輪跡があり、主郭の切岸を回り込むようにして登ると主郭に至る。切岸の一部に川石を使った石積みが見られた。

主郭はコケに覆われていた。ここからの展望は、木々がなければ見渡しはいうことない。

主郭の一段下に曲輪跡がある。
 

     
▲主郭の切岸                           ▲主郭の石積み(川石)の一部
 



▲主郭
 
 
 
▲主郭の一段下の突き出た曲輪跡           




▲主郭の下から西方面(加保集落)
 
 
     
▲西方面(夏梅集落)               ▲北方面  あゆ公園と上部が見える
 

 
   
▲「田和の淵」南方面 城跡は左側          




▲「田和の淵」北方面   
 
 


雑 感
 
 田和城跡の登城はあっという間であった。この城跡の造りは単純明快で、曲輪跡がはっきりしていてわかりやすかった。三方庄と大屋庄の境の見張りには最適な場所にある。城を取り巻く大屋川が造りだした「田和の淵」という岩場の流れが絵になっていた。
 
 帰りがけに近くにおられた I さんと出会い、城跡や地域の歴史のお話しを聞くことができた。城跡については大屋町史に詳しく出ていることを教えてもらい、早速大屋市民センター図書室に立ち寄り確かめることができた

 それ以後、養父市大屋町内のそれぞれの顔をもつ城跡とのわくわくの探索であった。
 
 
【関連】
周辺の城跡
・但馬 蔵垣城跡
・但馬 大杉城跡
・但馬 加保城跡


◆城郭一覧アドレス


備前 岡山城をゆく

2020-05-03 09:54:24 | 名城をゆく
(2019.3.26~2019.10.31)  


 
 
▲五重六階の岡山城天守閣  昭和41年に復元  



 
▲天守閣から南東を望む 古城絵図(下図)にはこの旭川の南の京橋町に橋が描かれている



    
▲大手の内堀から                 ▲内下馬門(うちげばもん)跡の石垣 



 
▲城門  不明門(あかずのもん)  



▲天守閣の礎石 礎石の移転保存
 



  
▲みごとな算木積みの石垣              ▲大納戸(おおなんど)櫓の石垣 
 


 
▲西側からみた天守            


▲狭間(さま)
                 

▲廊下門                 


▲月見櫓
 


                
 岡山城は、かつて後楽園の庭園から見たことがあったが、今回初めて天守に登った。
 同じ山陽路にある白の漆喰が美しい姫路城(白鷺城)とは対照的に天守は黒っぽく、それゆえ別名烏城(うじょう)と呼ばれてきた。また金烏城とも呼ばれたのは、築城時の天守には多くの瓦に金箔が使われていたからである。



岡山城のこと   岡山市丸の内
 
 

▲歴代城主一覧


 戦国時代に、宇喜多直家が岡山の石山城(現在の城郭二の丸付近)の国人領主金光氏を滅ぼし、石山城を大改修し、本格的な城下町を築いた。その跡を継いだ秀家は、備前・美作の二国と備中東部、播磨西部を領有し、現在の場所に築城を開始し、一大城郭を完成させた。しかし、築城まもなく関が原の戦いで西軍に組したため、八丈島に流罪となる。

 宇喜多滅亡後、小早川秀秋が入城し、天守閣や大手門を改修し、池田忠雄(ただかつ)が城全域を増改築し、近世城郭の完成をみている。光政以降は、幕府の城普請の統制が厳しくなり、軍事施設の増改築は一切行われず、明治維新を迎えている。
 


 
▲岡山城古城絵図(国立国会図書館蔵)    
   

▲京橋の渡りぞめの版画  

 
▲古写真 明治初期 (岡山市立図書館蔵) 
 
※上下の写真を見比べると、左端の大手門石垣は当時と同じであることがわかる


▲現在の写真



 第7代城主池田綱政のとき、大庭園(当時の名称「御後園」)を造営している。これは綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたものである。現在後楽園は国の特別名勝に指定され、金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園とともに日本三名園のひとつに選ばれている。
 


主な城郭建築物の状況

▽昭和22年(1947)の航空写真(国土地理院)




●岡山城は明治15年までに、天守閣・月見櫓・西丸西手櫓・石山門を除く城郭建築物は破棄された。

●本丸、二の丸が学校・病院の用地となり、内堀や外堀も次第に埋められ、昭和初期には本丸沿いの内堀を残すのみとなる。(上写真参照)

●昭和20年の空襲により、天守閣と石山門が焼失したため、往時の建物は、月見櫓・西丸西手櫓を残すのみとなる。

●昭和39年から3年をかけ、天守閣・不明門・廊下門などが再建され現在に到っている。

※参考:日本城郭体系、角川日本地名辞典、他



雑 感


 昭和20年の空襲で当時国宝であった天守閣や石山門を焼失してしまったのは残念だ。しかし石垣は健在で、大手の入口の古写真に写っている石垣と現在のものとが一致していることがわかり、大手門向うに大手渡櫓、本丸表書院、大納戸櫓等の存在を知る。その石垣の工法にも時代の変化が見られるのが面白い。

 小早川秀家は、秀吉の寵愛をうけ「秀」の一字を与えられ、秀吉の養女(前田利家の娘)豪姫を正室とするなど、外様であっても秀吉の一門衆に加わっている。秀吉の末期には若くして五大老に抜擢されている。
 その秀家の築城の天守は漆黒を基調として、安土城天主さながらの金箔瓦をふんだんに使い、さらにいくつもの華麗な破風を設けて変化をつけている。そのつくりは秀吉の趣向にそったものと感じた。


 

▲古写真 岡山城天守閣(焼失前)
 

▽ 漆黒と金箔瓦、破風の並びと曲線が美しい


▲現在の城