郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

備前 砥石城跡  宇喜多氏ゆかりの城③ 

2020-05-25 13:15:05 | 城跡巡り
   



▲砥石(といし)城跡全景



▲頂上部ズーム



▲宇喜多氏のゆかりの城跡の位置関係    by Google Earth






砥石城跡のこと  岡山県邑久郡邑久町豊原(現岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

 瀬戸内市の西部にあり、千町平野がパノラマに見え、北には長船町福岡の商都を一望できる位置にある。

 城主は、宇喜多直家と伝わる。『宇喜多伝』また、島村観阿弥が在城し、宇喜多三代(能家・興家・直家)在城とある。『備前記』

 城跡の形状は主郭の前に幾つかの細工があまりなされていない曲輪跡がいくつか見られる。主郭には金毘羅宮が幕末期に建てられ、それ以降お宮の台座縁の石垣が新しくなり、その周辺が改変されている。

砥石城及び周辺の地での合戦
 応仁・文明の乱後(1467~1468)の文明15年~16年(1483から1484)の福岡合戦があり、山名俊豊と松田元成に備前守浦上紀三郎則国は破れ、赤松政秀の播磨高田城(上郡町)に逃れた。山名俊豊が備前に乱入し射越(いこし)村の余慶寺涅槃像が散失し、修復したときの記録が寺の文書にも残されている。

 文明17年(1486)の守護赤松政則の復活にともない則国は再び山名・松田軍と合戦を交えるも、戸石城(砥石城)にて討ち果たされた。『庶軒日録』なお、松田元成は余勢をかって、浦上の三石城を攻撃したが、逆に敗退し敗死したという。

 天文末年(1555)頃、砥石城の城主で宇喜多直家の同族でもある宇喜多大和守が浦上宗景の兄政宗に味方をしていたため、浦上宗景が乙子城主宇喜多直家に砥石城を攻撃させ、激しい戦いの後、弘治元2年(1556)頃砥石城を陥落させ大和守を滅ぼしている。(『馬場家記』(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の関連伝承について」) 


参考:「砥石城 落穂ひろい ふーむ氏 web」、『日本城郭体系』、『角川地名辞典』




▲説名板より



▲イメージ図 「高取城 落穂ひろい ふーむ氏)の縄張り図をもとに作成




アクセス


登城口は①、②の2か所ある。 所要時間は10~15分程ですぐに登れる。








▲①の登城口

▲登り始め



▲砥石城の説明板


 
▲登城途中



 
▲主郭前                             ▲主郭





もう一つの②登城口は、左に曲がり谷に入ると、間もなく登山道の石柱が道脇にある。この近くに車一台ほどは止められる。




▲右に砥石城跡登山道、左に笠形神社参道とある



こちらの②登城口前には、「宇喜多直家生誕の地」の石碑が立っている。








 



登りきると、城跡の背後に出る。ここに案内版があり、右に進む。直線的な道がつづき途中から石段が敷かれている。











 









▲説明板 




▲眼下に千町川、とりまく千町平野が一望



▲主郭 北側から



▲本丸東石垣 『日本城郭体系』(昭和55年発行)より



上記写真の主郭東の石垣は見当たらない。




▲お宮の台座の下の新しい石垣とやや古い石垣




雑 感

 3年前(2017年)備前の城で、宇喜多氏ゆかりの城としてはこれが最初でした。今になってやっと「宇喜多氏ゆかりの城跡」として紹介しているところです。

 砥石城跡は小規模の連郭式の城跡で、『日本城郭体系』に写真にある主郭東の石垣を探すも見当たらない。お宮の石垣と並んだ自然石の石垣をみてもちがうようだし、また出丸(出城)跡(実は高取城跡)が鉄塔の辺りだと勝手に思い、見落としていたこと。(^^; 
 これを機会に、高取城跡と従来高取城といわれてきた城「高尾城跡」を行きたいと思っています。

 登城中ハイキングのグループの人達に出あって「おくの細道アルプス」(下掲載)というマップをいただきました。この周辺は高くても200m級の山々が並びつながり散策コースが豊富です。「躑躅の小径」があります。たまたま登城した時がツツジがきれいな時期でした。芭蕉の「奥の細道」ならず「おく(邑久郡※)の細道アルプス」とはしゃれています。この山々を南下すれば瀬戸内方面に出ます。




赤〇は射越(村)と余慶寺、仁生田古戦場跡、大賀島寺に宇喜多一門供養の塔


【関連】
・沼城
・新庄山城
・乙子城
・天神山城

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