(2019.3.24~2019.10.31)
黒田官兵衛孝高の足跡を追って、播磨国(兵庫)から豊前国(大分)まではるばるやってきた。
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▲おっくんとクロカンに遭遇 ▲天守から山国川(中津川)河口を望む
今から400年余り前、官兵衛は秀吉の命で家臣ともども、豊前(大分)に向かった。
播磨国から山陽道を下り、馬関(現在関門)海峡を渡りざっと600kmの長い道のりだった。播磨の武将を数多く引き連れて下ったことは、家臣に播磨の武将の名が多く残っていることで容易に想像できる。
時代を経て、豊前中津城主は黒田・細川と代わり、小笠原長次が播磨国龍野(現たつの市)から移ってきた。小笠原五代の長邕(ながさと)が早死のため一旦は改易されたが、許されて長邕の弟長興(ながおき)が、安志藩1万石として、同じ道を通り宍粟郡安志(現姫路市安富町)に入った。
このように豊前国と播磨国は武士の移動という面で歴史的なつながりをもっていることを意識しながら、豊前中津城に入った。
▼ 九州諸国
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中津城のこと 大分県中津市二ノ丁
天正15年(1587年)播磨国から黒田官兵衛が豊前国6郡(福岡県東部・大分県北部)12万3千石(18万石とも)の領主として入部し、翌年中津城の築城を開始したが、完成を待たずして福岡に転封した。慶長5年(1600)に細川忠興が入り本格的な工事が始まった。
慶長7年(1602)には、忠興は小倉に居城を移し、この中津城は忠利の居城となった。元和6年(1620)に忠興は忠利に家督を譲り、翌年中津に隠居した。この頃中津城はほぼ完成し、城下町づくりが進められた。寛永9年(1632)に小笠原長次が城下の工事を引き継いだ。小笠原5代長邕が早死したため、改易された。そのあと享保2年(1717)奥平昌成(おくだいらまさしげ)が丹後宮津(京都府宮津市)から中津に入城した。奥平家は9代で幕末を迎えている。
▲中津城古城絵図 (江戸中期-後期 国会図書館蔵)
中津城の天守は、昭和39年本丸北東の櫓跡に建てられ、その南に二重櫓が並んで建てらた。もともとこの城には天守はなく、櫓跡に模擬天守が観光用につくられたものだ。天守は歴史資料館として奥平家の宝物・古文書等が展示されている。
城跡の見どころは、黒田・細川時代の石垣改修の跡。城の西対岸の小祝地区からも古い石垣がよく見える。
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▲中央の継ぎ目より右が黒田、左が細川時代
▲二重櫓 本丸上段の東面 (明治中頃の古写真)
▲本丸南の石垣 (明治に取り壊された石垣を復元している)
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▲西門跡 ▲小倉口(小倉方面につづく小さな小倉橋)
黒田官兵衛の豊前での手始め
豊前国6郡の京都(みやこ)、仲津(なかつ)、築城(ついぎ)、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、宇佐郡を領し、最初は馬ヶ岳城に入り、領内の検地を始めた。翌年山国川の河口のデルタ地帯に中津城の築城と城下町づくりを開始した。しかし領内の土豪の鎮圧※、文禄慶長の役・関ヶ原の戦い等のため築城途中で慶長5年(1600)に筑前福岡に移った。
豊前の第一の国人領主城井鎮房(きいしげふさ)の抵抗(※)
城井氏は宇都宮氏が城井谷城を本拠としてから城井氏を名乗っている。城井氏は、周防の大内氏や豊後・筑後の大友氏の勢力に翻弄されながらも、豊前の最大の国人として勢力を維持していた。
秀吉の九州征伐に城井鎮房は従った。秀吉から伊予国(愛媛県)に移封が命じられたが、鎮房はそれを拒み、秀吉に豊前の地の安堵を懇願したが聞き入れられず、豊臣軍(黒田孝高・長政・毛利勝信)と争うことになった。城井鎮房は地の利をいかした城井谷城に立て篭もり、豊臣軍の大軍を撃退した。そのあと黒田孝高による長政と鶴姫(城井氏の娘)との婚姻による和議提案を受け入れ、婚約成立の日城井鎮房を中津城に呼び寄せられ謀殺されてしまった。合元寺(ごうがんじ)に待機していた従臣を襲撃したときに、寺の白壁が真っ赤に染まったという。
のち官兵衛は城井鎮房を謀殺したことを悔い、(一説に、中津城内に城井鎮房の亡霊が出たため)、城井神社を建てその霊を弔ったという。
▲宇都宮(城井)鎮房を祀った城井神社(本丸西)
如水村、如水原(ばる)を探って
中津に如水村や如水原という地名があるのがわかり、官兵衛が隠居の号を如水としたことと関連があるのではないかと調べてみると面白いことがわかった。
まず如水村を調べてみると、明治22年に助部(すけぶ)村・下池永村・是則(これのり)村・合馬(おうま)村・全徳村が合併してできた村とある。最初の助部村というのは、戦国期に見られる古い地名(村名)で、すけぶまたは、すけべと呼ぶとある。
助部の由来には、付会伝説として慶長5年(1600)黒田孝高が豊後統治に際して、当地で陣揃えしたとき、近村から多数の応募兵があったことから助部のがついたという話が載せられている。『角川日本地名大辞典』
しかし、助部村は永正7年(1510)の古文書にみられ、黒田如水がこの地に来る以前からあったわけで、付会伝説とあるようにこの伝承はこじつけということになる。
ともあれ、明治22年までこの助部村の住所は下毛郡助部村で存在し、出身地を答えるときは抵抗があったため、合併の新村名に如水伝説にちなんで如水村と名づけたと言われている。ちなみに、明治22年以降は如水村の助部は大字に表記され、昭和18年中津市に編入時に上如水と改称され、住所から助部は消え、下毛郡も平成17年郡内4町村が中津市に編入され消滅した。
雑 感
官兵衛は豊前に入ってまず領地を検地し、中津を選んで城と城下町造りに取り組んだ。城は山城ではなく、海に面した河口に堀を巡らせ、本丸、二の丸等を石垣で取り囲み、近世城のモデルとなるような平山城の縄張りを引いた。官兵衛は築城の名手でもあったゆえんだろう。その築城の作業を遅らしたことの一つが宇都宮城井氏の抵抗であった。
宇都宮城井氏は官兵衛親子の策略により一族は討たれた。婚礼という隙を突いたという手口が、龍野城主赤松政秀による播磨室山城の浦上政宗の息子清宗と黒田職隆の娘との婚礼の襲撃に似ている。この時花嫁の兄官兵衛は18歳前後、兄弟の惨殺を生涯忘れなかったと思う。(大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田家の養女という設定。)
それにしても、伝承ではあるが、花嫁鎮房の娘までもが山国川原で磔にされたというのは,非情な扱いであった。秀吉の指示命令の遂行とはいえ黒田親子の行動は数少ない汚点の一つで、黒田家は代々宇都宮城井氏の怨念による災いを気にしていたところが見受けられる。
もうひとつ疑問が残る。宇都宮城井氏がなぜ伊予国への国替えを拒否し、勝てる見込みのない戦いを選んだのか。いつか機会があれば、城井氏の居城の城井谷山城周辺を見てみたいと思っている。
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耶馬溪(やばけい)の風景
中津城から山国川を14km遡上したところにある青の洞門で知られる景勝地耶馬溪に立ち寄ってみた。この地へは2度目で、そびえる奇岩や青の洞門をじっくり見ることができた。
しかし洞門の入口にあった数枚の写真が、2012.7.3と7.22山国川の氾濫で大きな被害があったことを教えてくれた。
▲耶馬溪
▲ここにも大河ドラマ黒田官兵衛孝高をPR
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▲六十余州名所図会羅漢寺下道 豊前 ・広重作
(国立国会図書館蔵)
▲山国川の氾濫 (洞門の展示写真)
山国川のこと
中津城の西を流れる山国川は、豊前国最大の川で、地域によって高瀬川、広津川とも呼ばれてきた。古代は御木川(みけかわ)とあり、川の流域は御木郡(みけのこおり)といっていたのが、御毛郡となり、のち川の左岸と右岸に上毛郡(こうげぐん)と下毛郡(しもげぐん)に分かれたという。