【閲覧数】1,635(2014.10.10~2019.10.31)
関ヶ原古戦場に地元郷土研究会主催の旅行で訪れた。予定より30分早く着いたので、ボランティアガイドさんの勧めで歴史民俗資料館の北向うにある黒田長政の陣跡に行くことになった。
山すそでバスを降り、そこから山手を望むと陣旗がたなびいていた。関ヶ原の地形を見てみたいという個人的な思いがあったので、予定外の動きにワクワクしながら上っていった。
見通しがよい陣跡からは、工場や建築物のため当時の風景とは違うが、戦場の広さと周辺の地形がわかり、南正面には小早川秀秋が陣をしいた松尾山も見ることが出来た。
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関ヶ原は、北は伊吹山系、南は鈴鹿山系にはさまれた南北2km、東西4kmほどの狭い地域である。古代より東西交通の要衝の地であった。伊吹山の影響を受け、日本海型の気候が見られ、冬季は北西の方角から伊吹おろしと降雪に見舞われる。
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▲彦根市の佐和山城跡からみた伊吹山
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天下分け目の関ヶ原の戦い
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍がここ美濃不破郡関ヶ原において激突した。それは全国の大名が二つに分かれ雌雄を決する天下の分け目の戦いであった。
関ヶ原の戦いまでの黒田如水の動き
関ヶ原決戦が近ずくなか、九州豊前の黒田如水は豊後の主力のいない西軍の城を次々と落としていた。慶長5年8月28日如水は元の領国の奪回を狙った大友義統(よしむね)が豊後に上陸したことを知り、急きょそれを追った。豊後国速見郡(別府市)の石垣原で黒田・細川連合軍と大友軍の死闘が繰り広げられた。それは関ヶ原の戦いの2日前の9月13日であった。
黒田長政 丸山(岡山)に陣をしく
長政の陣は西軍の本陣石田隊の近くの丸山に陣をしいていた。その場所は東軍の陣の中で最も高い位置にあり、味方の陣地も見通せる格好の場所で、烽火(のろし)場が置かれた。
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▲南に松尾山が見える 丸山烽火場より
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▲松尾山のズーム 小早川秀秋の陣跡が残る
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▲黒田長政の陣跡からのlパノラマ(北から南方面)
この丸山の陣には、竹中重門(しげかど)がいた。二人は奇しくも黒田と竹中の二(両)兵衛の息子であった。二人は、長政(松寿丸)が重門(吉助)の父竹中半兵衛に匿われていたときに、関ヶ原の北東の菩提山城(垂井町岩手)に8ヶ月ほど過ごした幼なじみであった。実に20年ぶりの再会であったという。
長政は地元であり関ヶ原の地理に詳しい重門と組み、西軍石田隊を守る屈強の島左近清興に勇猛果敢に立ち向かい追い詰める働きをし、さらに西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作、いわゆる調略が功を奏し、戦いはわずか1日で決着した。
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▲ 陣形図 (東部の布陣は省略) 昭和22年の航空写真(国土交通省)上に作図
戦後の論功行賞では、長政は関ヶ原で一番の働きと評価され筑前名島(後の福岡)で52万3千石を受領した。ちなみに竹中重門については、最初は西軍に組みしていたが、途中東軍に寝返えっている。関ヶ原では伊吹山中に逃げ込んだ西軍の小西行長を捕縛するなどの手柄を立て、美濃岩出山6千石を安堵され、以後幕府旗本として仕えた。
関ヶ原戦陣図屏風(部分) 石田三成隊を攻撃する黒田長政隊
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福岡市博物館蔵
昭和22年 大日本紡績関ヶ原工場 航空写真(国土交通省)
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昭和22年の航空図を見ると何やら大工場のような建物が見える。ボランティアガイドさんがこの地に昭和の時代ユニチカの工場があり、女工3、500名が働き活気に満ちていたことを話されていたので、これがユニチカなら時代が合わないが・・・何だろう? と調べてみると、ユニチカの前身の大日本紡績関ヶ原工場(大正13年・1924年創業)であることがわかった。
この関ヶ原町には関ヶ原の戦い、壬申の乱など歴史の転換期の貴重な遺跡・遺産が残されている。明治以降の日本の基幹産業の一つ紡績で栄えるも、ユニチカが80年代の紡績不況で去ったあと大規模な土地の再利用が町の課題として残されていることも知った。
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雑 感
長政の高台の陣跡から小早川のいた松尾山や東軍・西軍の陣地を見て、おおよその地形・陣配置がわかった。次回ここへ来る機会があれば、その松尾山に登りたいと思っている。小早川が東・西両軍の陣と兵力が見て取れる格好の場所に陣をしき、いつ寝返りを決意したのか、それは陣をしく前からなのか、それとも戦況を見てからなのかを想像してみたいからである。また小早川の動きに呼応した脇坂・朽木等の陣跡も見てみたいと思っている。
関ケ原布陣図について
関ケ原の東軍・西軍の布陣や戦いの状況などがどこまでわかり、わかっていないのか気がかりで、新しい見解や発見に興味をもっている。
現在知られている関ケ原の戦いや布陣図は、江戸時代成立の二次史料に基づき、その文献に、『黒田家譜』、『石田軍記』、『関ヶ原軍記大成』、『大垣藩地方雑記』等があるが、互いの記述は一致していないというのである。
私たちが、よく目にする布陣図についは、明治26年(1893年)旧陸軍参謀本部によって刊行された『日本戦史』関ヶ原の役(附表・附図)に掲載されたものがベースとなっている。これは何を根拠に作成され、あるいは創作されたのかはっきりしないのでその信憑性がおぼつかない。
ただ、これらを基に記述された著書や映画などによって、何ら疑問もなく信じられてきたこの戦いが、最近では一次史料を基に様々な分野の研究手法により見直され、従来の説にメスが入っているのは興味が尽きない。
よく「歴史は勝者・為政者によって塗り替えられてきた」とよく耳にする。そのため後世に書かれた文献の扱いは二次史料としての扱いであり、鵜呑みにすることの危険性もあることなど、改めて感じている。
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▲関ケ原の布陣図 部分 『日本戦史』(附表・附図) 旧陸軍参謀本部 (国立国会図書館デジタルコレクション)
【関連】
関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①
播磨・宍粟の城跡一覧