はぐれ雲

毎日世界のどこかや身の回りで起きることを自分のことばで書いていきます。かなり過激な場合もありますがいつも本音です。

書くということ。

2020-09-30 19:39:14 | 日記
職業的文筆者はつねに「読者」を意識する。言論の自由といううるわしいことばがあるが、じつは読者という相手があるから、筆者はけっして自由ではない。題材や用語にも注意しなければならないし、他人から抗議をうけそうな表現は遠慮する。わたしじしんも、ウエブページに書くさいはずいぶんそういう苦労をしてきたし、いまでも事情はかわらない。
しかし、「読者」を前提としない文章は、ほんとうに自由でありうる。メディアがとりあげてくれない問題だって自由に書けるし、メディアの悪口を書いても文句はいわれない。世の中で「中傷」とか「差別用語」などとレッテルを貼られそうな表現をつかったっていっこうにかまわない。おおげさにいえば、ものを「書く」という行為は、「読者」を意識したとたんに自由を失い、拘束をうけ、ときには屈辱的にならざるをえない。つまり「発表」などという大それた行為を視野にいれると「言論の自由」の完全な保障はなくなるのだ。皮肉なようだが、虚飾と妥協のない文章は「読者からの自由」のもとにはじめて成立するのである。
もとより人間には欲があるから、書いた作品がしかるべきメディアに発表され、読者をもちたいと夢みるものだ。大手の雑誌、新聞などにじぶんの書いた文章が掲載されればうれしいし、ましてや小説であれ評論であれ、それが単行本になれば自慢もできる。うまくいくといささかの原稿料も手にはいる。だが、その代償になにを失うかは、くわしく書かずとも刷り込み済みであろう。そのことがよくわかるのは、たとえば永井荷風の『断腸亭日乗』(岩波書店)であろう。荷風は『腕くらべ』をはじめとする小説をのこしたが、『日乗』は自由な日記体。かれのばあい、若いころから「発表する日記」という形式に興味をもつていたから、この日記体文学に「読者」を想定していなかったといってはウソになるが、いまなお『日乗』がおもしろいのは、ひとつひとつの文字の背景にそれぞれの時代が自由に描かれ、かれの内面生活が躍動しているからであろう。枚数制限もないし、締め切りもない。わたしが荷風の真髄は『日乗』にあるのではないかとひそかにおもつているのは、このような理由による。

今日も買い物をすべてアルコール消毒。缶。ビン類はすべて洗って冷蔵庫へ。
わてほんまによういわんわ。