車は熊野速玉大社を発し国道四十二号線を南下す
那智駅前より県道四十三号線に入りたり
那智川に沿ひて緑したたる道を走りぬ
午後二時十五分
右手に涼しげにして美しき竹林の現れれば車を停めてしばし眺めたる
左手の道沿ひに茗荷あり
弟子なるtoshiは好物とて 竹林も見ずに茗荷を採る
toshi曰く 足の二箇所を蚊に刺されたると
見れば 大きなる蚊とみへて刺されたる場所の大きく膨らみぬ
痒し 痒し と幾度も嘆きつつ掻きてゐるもあはれなり
大いなる蚊の刺す音も竹林と 奮太
午後二時二十分 那智飛瀧神社前の駐車場に到着す
まずは那智の瀧を拝せんとて階段を下りて正面を見れば
をを
眼前に荘厳にして偉大なる大瀧の現れたり

飛龍直下三千尺 なる漢詩のあるも
この大瀧は百三十三米なりて日本第一なるとふ
階段を下りて鳥居前に立てば
凄まじくして清らかなる水音より溢れる力の我が身を貫きて弾けん
あな素晴らしき威力なり
拝礼を済ませ瀧を見上げれば
神々しきばかりの真白なる世界を見たり

暑き日を切り裂きて立つ那智の瀧 奮太
石段を登り登りて
熊野那智大社 青岸渡寺 に向かへり
まずは左手の那智大社の境内に入れる
をを
朱色まぶしき社殿かな
ただし御屋根は本宮大社の御屋根を見るがごとき風格を感ず
社殿は是 國の重要文化財なるとふ

我が國の再生の道はいづこなりと那智の大社の八咫烏に問ふ 丹人
拝礼を終えれば つづいて青岸渡寺を参詣す
寺の伽藍を歩みいけば
木の間より 三重塔と那智の瀧の見へてきたれり
嗚呼 絶景かな
いと素晴らし

さても六世紀に伝来された仏教なり
是 次第に神道と融合すれば
平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の広まりたり
神の本体は仏なるとふ思想なり
また
仏菩薩は人々を救うがために神の姿を借りて現はれたるとふものなり
本地とは是 仏 菩薩なり
神の姿を借りて現はれしこと 是すなはち垂迹なり
して 現れたる神を権現といふときけり
熊野三山の各々十二の社に祀られし神々は熊野十二所権現と称され
すべて本体は仏や菩薩なりと伝へられてきたれり
本宮の主神なる家都美御子神の本地は 是 阿弥陀如来なり
那智の牟須美神は千手観音なり
新宮の速玉神は薬師如来なり
本宮は西方極楽浄土
那智は南方補陀落浄土
新宮は東方瑠璃光浄土の地なれば
熊野全体は浄土の地なりとみなされてきたれり
されど
明治元年の神仏分離令に依て
神仏習合の信仰形態は根底より破壊されにけり
時の政府は神仏習合の霊地に対して
神か仏かいづれか一方を選択するやふ命を下したりき
をを 何たるをぞましさかな
那智大瀧なる飛瀧権現にては
千手堂が廃され仏教も修験道も廃したりき
本宮及び新宮におきては
神を選びて仏を捨て寺院を取り壊したりき
那智におきても
神を選びて廃仏毀釈を行ひ仏寺坊舎を取り壊したりき
那智権現は明治四年に熊野那智神社と称すれば
仏教も修験道も排して神社となりにけり
那智の本堂なりし如意輪堂は
西国三十三所霊場の第一番札所なれば
取り壊しは免れたるも仏像仏具類は補陀洛山寺などに移され
空堂とされにけり
いとすさまじきことなり
如意輪堂は 後に山内の人々の願ひによりて
明治七年 神社側から独立し青岸渡寺の名となりて
天台宗の一寺として再興されたるとふ
火に水に時の政府の謀略に屈せず今に残る熊野ぞ 丹人
午後四時 那智大社を発ちぬ
途中 那智蓬莱の湯に浸かりて身の疲れを流し
午後五時 勝浦に至れる
車を置きて船着き場より中の島に渡れる
ホテル中の島は 島全体が敷地とふ
いと広し
午後五時二十分 夕暮れの勝浦湾を眺めつつ紀州潮聞の湯に入りぬ
潮聞の湯の柔くして勝浦の海にとびうを五度舞ふを見る 丹人
午後七時 夕餉となりぬ
特産なるまぐろを贅沢に使ひたる料理に舌鼓を打ちぬ
刺身
寿司
フレーク
そして ステーキなれば
いと素敵なり

をを
いとむまし
午後八時三十分
再び潮聞の湯に入れば
月さやに照りて 勝浦の海に影を落として 花火のごとく煌めきたる
潮の音のつぶやきを聞きつつ月の光にまどろみにけり
勝浦の中の島辺の月影は夢の字書きてきらり散りゆく 丹人
画像一:那智の竹林
画像二:那智の瀧
画像三:那智の瀧
画像四:熊野那智大社
画像五:青岸渡寺三重塔 那智の瀧
画像六:マグロのステーキ 2007.7.24 撮影




↑現在30位前後なり↑現在茨城1位なり
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