薩摩芋郎 STORY

100の議論より100円の寄付。
人生は100の苦しみ1回の喜び。
SHOCHU IS MY LIFE

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ3<夢>

2005-08-31 | Weblog
子供がいる。しかも何人もいる。しかし、どの顔も悲しげな表情だ。
日本人ではない。インド系?チベット系?中国人か?
近づいていくと、途端に笑顔になる。ニコッ、クスッ、可愛い・・
まるで赤ちゃんのように汚れを知らないピュアで澄んだ瞳だ。
離れていくと、途端にまた悲しげな表情に変化する。
何か恐いのかい?苦しいの?
また、近づく。再び笑顔が戻る・・その繰り返しだ。
だんだん離れていく、
子供達の悲しみの顔が徐々にぼやけ、とうとう見えなくなってしまった。

妙な夢だった。
夢を見た数日後、僕はカミさんに、旅に行くと告げた。
「どうぞ」一言で終わった。
この時期毎年、決まって海外に一人旅をしていたのでさして驚きもしない。
「で、今度はどこ行くの?」
「ネパール」
「ネパール!?」ちょっとだけ驚く。
あの夢が気になっていた僕は、ここ数日間図書館や書店でインドやネパール、
チベットの勉強をした。そして、中国から侵略され国を追われネパールや
インドに亡命しているたくさんのチベット難民、「チベタン」の存在を知った。
夢は夢であり、何のインスパイアードも感じなかった。と思いたいが、何か
ひっかかっていた。そして、どうせならチベット難民の子供達に逢ってみたい
と思うようになっていた。
翌日、カミさんとまだ幼い二人の息子を連れ近所のディスカウントストアに行き
カート2個分の大量のステーショナリーを買い込んだ。
夢を見てから3週間後、パンパンに膨れ上がったバックパックを背負い
僕は聖なる国ネパールへと旅立った。

つづく

*夢で見た子供達なのか?(Tibetan Refugee School)


タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ2<地震>

2005-08-30 | Weblog
遡ることおよそ3ヶ月前・・・
某通信系CMのプレゼンで勝利し、統括プロデューサーだった僕は、年末年始その制作
準備(TV-CM,RD-CM,新聞,ミニコミ誌,ポスター,ノベルティ,プレスリリースetc)で
あわただしく動き回り、ようやく撮影当日1995年1月17日を迎えようとしていたが
けたたましく鳴る携帯電話のコール音に叩き起こされた。
「タニーさん、テレビをつけてください!」電話口で撮影コーディネーターが叫ぶ。
すぐにリモコンのスイッチを押した直後、僕の血の気は一瞬にして引いた。
次々に飛び込んで来る臨時ニュースの空撮映像、炎上する神戸の街を見て凍りついた。
自然の驚異への畏れ、人的被害に対する怖れだけからではない。
CMに出演予定のタレントが前日神戸入りしていたことをキャスティングから聞いて
いたからだ。すぐに撮影スタッフに連絡し、タレントの安否を確認しようとしたが、
関西方面への電話はすべて不通。タレント本人、マネージャーへの連絡どころか
すべての交通機関も遮断されなすすべなし。
午後になっても消息不明で、やむなく、撮影はキャンセル、数日後へ延期が決まった。
ON-AIRまでがめちゃタイトであったが幸い理解のあるクライアント、撮影クルー・
スタッフに恵まれ終日スケジュール調整に奔走した。
気がつけば、当然であるが、まったく嬉しくない、誰も祝ってくれない37回目の
誕生日は終わっていた。
数日後、無事タレントがスタジオに到着。聞けば倒壊した宿泊先のホテルから命から
がら脱出。しかも、生まれ育った土地を憂い被災直後に1000万の寄付までして福岡に
たどり着いたとのこと。その記事がスポーツ紙の一面に掲載されたのを見てスタッフ、
クライアントも感激し、お陰でその後の撮影は順調に進み事なきを得たのであった。
後に広告賞の栄誉にも輝く作品が完成し、代理店を経由して無事各メディアに納品する
ことができた。
その後、極度の緊張、度重なるストレスから解放され、同時に猛烈な虚脱感に襲われ
酒浸りの日々を過ごしたある日、僕は不思議な夢を観た。

つづく

*カトマンドゥの寺院でひたすら祈る。

タニーヤン・ネパール放浪ダイアリーズ1<機上にて>

2005-08-29 | Weblog
いまからちょうど10年前、1995年3月29日。
関空~上海,そしてネパールへ。カトマンドゥまでの飛行時間と天候が英語でアナウンス
されているロイヤル・ネパール・AIR機内でじっと手のひらを凝視する僕がいた。
こんなに手のひらを見つめたのはこの世に生を受け始めてのことだった。
手のひらの皺を一つ一つ見ていると不思議な感覚になる。まるで樹の年輪のようだ。
人生の縮図にも、人生のレールにも、轍にすら見えてくる。
見つめながら、命、生と死、大震災のこと、家に残した幼き息子と妻、家族のこと。
そしてカトマンドゥでやり遂げたいことなど様々な思いが交錯、神経を刺激し撹乱した
挙げ句アドレナリンが大量に放出され、どわっと手のひらに汗が噴き出してきた。
その時、すぐ横に座る社会を教えているという40才位の先生が急に話しかけてきた。
「あなたのすぐ前の座席の人はね。実は学校の同僚なんですけど・・・
 教え子がこの間の大震災で亡くなったんです。」
1月17日、図らずも37回目の僕の誕生日におきた阪神淡路大震災の犠牲者への
供養、追悼の旅だという。前をちらりと見ると寂しく苦しげな表情で目を閉じていた。
ふと、機外に目をやる。雲がめまぐるしく変化していく。
僕には動物や人の顔に見えた。
象、ネコ、女性、子供、犬、ライオン、カバ、ねずみ、牛、老人・・
やはり聖なる国の上には天国があるのか。
葬儀場の煙突から煙になった魂が天国に召される前に気化し雲になるのかな、
と思いながら、慌ただしかったここ数ヶ月と
ネパール行きを思い立った3週間前の夢のことを思い出した。

つづく

*機上より雲を眺める(以下すべていまは亡きコンパクトカメラで撮影)

熊と闘った男

2005-08-02 | Weblog
正確に言うと熊のような犬と激突し、闘わずして撃沈した男の悲しい思い出話。
忘れもしない昨年の10月20日、早朝3時。僕はいつものように焼酎5合呑み
愛車ボッキーに股がり鼻歌唄いながら帰路についてたのさ(すみません。自転車で
飲酒運転という道路交通法違反す。二度としないです。)
♪僕が生まれーたー、鹿児島のー、僕はーどれーくらい、」
ゴン、グシャッ、ボキッ。天罰が下された。
T字路から飛び出して来た熊のような巨大な犬2匹(追いかけっこしていた)と激突。
アスファルトの固い地面に右肩からもんどりうって転倒した。
眼前の冷たいアスファルトにうずくまり意識朦朧としながら熊犬を見る。
「ウーッ」低い声でうなる。しばし睨み合いの後、闇夜に消えていった。当て逃げだ。
(黒と白っぽいゴールデンレトリバー、飼い主はどいつや!ちゃんと繋げ!)
「ウーッ」(痛い)僕も低い声でうなる。
なんとか立ち上がり腕を回してみる。ゴッキッ、ボッキッ、グオキゴキ・・
骨の擦れる鈍い音・・完全に折れている。のか・・
救急病院にたどり着き、診察室で診てくれた先生、これがまた、ちゅらさんの女医役
似の女医さんだったのさ。レントゲン見ながらポツリ
「完璧に折れてます。しかも粉々ですねー。鎖骨粉砕骨折ですねー。あと打撲5カ所」

それから6ヶ月。入っていた自転車保険も各種保険も通院にも痛飲にも効かず、
自転車の修理費(一応外車)も数万の出費、さらに電車・バスの通勤代、少ない仕事
のPCでの企画書制作もままならず、結局犯人も解らず、踏んだり蹴ったり。
打ち所が悪かったのか、今ではすぐ寝てしまったり、客との都合の悪い会話や約束を
忘れたり計算を間違えたり、ふらっとよその店に呑みに行ったりしてる今日この頃す。

*千手観音のような屋久杉