薩摩芋郎 STORY

100の議論より100円の寄付。
人生は100の苦しみ1回の喜び。
SHOCHU IS MY LIFE

酔いお年を!!

2018-12-29 | Weblog
来年こそ、酔ってカウンターの角に太腿を強打しないようにしよう。
来年こそ、酔って階段から転げ落ちないようにしよう。
来年こそ、酔ってカウンターで朝まで眠りこけないようにしよう。
来年こそ、酔って西郷どんの最終回を思い出して泣かないようにしよう。

みなはん、今年一年、おやっとさあでごわしたなあ。
どうか、よか一年になりますように!

チェスト〜!


*かごんまのばあちゃんからうちんげえ畑で採れた野菜やら果物やらどっさい届いた。
「あいがとさげもす。長生きしっくいやい」

秒殺されもした

2018-12-22 | Weblog
おいどん「西郷どんの最終回、観た?」
二才どん「ぼく、西郷どんは1秒も観たことないんですよ〜」
おいどん「お、、おう・・・・だ、だよね。。」

今週、おいどんは、来たお客はんほぼ全て(といっても数人だが)と西郷どんの
最終回の話しをしてきた。いかに感動し、いかに西郷どんが日本のため、侍のため
にきばってこられたのか、を共感したいために。
ぐあ!
昨夜、某20代の福岡出身のよか二才(にせ)どんがやってきたのでワクワクしな
がら同じ問をふってみたのだが。
い、、1秒も、、、、って、、、おまんさあ。ちご言い方があいもんそ!

薬丸示顕流の使い手、桐野どんに秒殺されるくらい
あっけなく会話は途切れもした。

む、無念でごわす。


西郷どん補足2

2018-12-17 | Weblog
いやはや、泣いた。嗚咽に近い啼きだった。
昨日の西郷どん最終回のことである。
ほんなこっよかドラマでごわした。

さて、西郷どんの最期に関しては、「通説と違う」と思われた方々も多いとは
存じますが、西郷どんの城山における最期は、生き残り薩軍への取り調べ・証言
(西南の役薩軍口供書、従軍日記)、官軍(勝てば官軍、負ければ賊軍)による
従軍日記や南洲翁遺訓などを元に(こうだったのではないか)したもので「誰も
西郷どんの最期の声を聞いていない」(諸説あり)ため歴史学者や一部の小説家
が脚色している部分も多く有り、それがいつの間にか定説(史実)になってしま
った感も否めない。実際「弾に当たっているが、四方八方からの銃弾が飛びまく
っているので官軍の銃弾なのか薩軍によるものかはっきりしてない」説、「官軍
に西郷どんが射たれ捕われる前に、先に西郷さんを射って身体を隠そう」説など
?な異説すらあるんです。なので、昨日の西郷どんの最期は通説である「自刃し
てからの介錯」説にせず、あのような最期に?なの?と拙者は思った。(自刃で
はなく銃弾に倒れてから晋どんが首を介錯説)史実で正しいのは、佐賀の乱後の
「江藤新平」公のように晒し首になるのを恐れ避けるため西郷どんの頭部を隠し
たこと(隠し場所も異説あり)後に官軍に発見され、身体との検証が行われた。
ことは事実。

通説は仮説や脚色でできていることも多々あるということを頭の片隅に思いながら
大河ドラマなどは楽しむ方がいいと、拙者は思っているだけで、その思いを他人様
にとやかく言う気、熱く語る気はさらさらない。

とにもかくにも、今宵も西郷どんを偲んで涙酒を呑むとしよう。
そうしよう。



西郷どん補足

2018-12-10 | Weblog
昨夜の「西郷どん」における「西南戦争」はあまりに駆け足だったので
ちと、補足させてくいやったもんせ。
西南戦争はご存知とは思いますが約7ヵ月続いた日本最後の内戦。
ざっくりその経過は1877年(明治10年)のこと
2月15日、50年ぶりの大雪の中、鹿児島を薩摩軍(一番大隊)が出発、
西郷先生は桐野利秋どんらと2日後の17日出発。薩摩軍約13,000人。
22日に熊本城攻撃(熊本城や周辺家屋に火をつけたのは官軍自らとの説が有力)
したが薩軍は熊本城を落とす事が出来ず(後に西郷どんは「官軍ではなく(加藤)清正公に負けた」
といったとか*諸説有り)
、ここから激しい合戦となる。
3月の約1ヵ月間、田原坂の戦い(映画「ラストサムライ」のモデル)他に高瀬などでも。
敗れた薩摩軍は4月から7月にかけ熊本から宮崎、鹿児島を転戦、八代、人吉、
大口、久木野、都城、佐土原などで激戦(一部豊後でも)、そして
8月2日、延岡へ
※延岡には妻「西郷糸子」さんが戦の最中、延岡に来たという言い伝えが残っている。
(昨夜の糸さんと西郷どんの再会シーンは満更作り話ではない。*諸説ありだが)

そして、(薩摩軍約3,500人と政府軍約50,000人)事実上の最後の決戦、
8月15日、和田越の戦いで破れ8月16日に「薩摩軍を解散」。(投降、自決多数あり)
で、故郷鹿児島で最期を迎えるため精鋭約600人が17日、延岡の可愛(えの)岳から
山越え(途中でも数回戦闘あり)し、9月1日鹿児島入り。
そして、城山に決死隊が突入し城山にて篭城状態。
最後まで西郷どんを慕ったラストサムライ372人が政府軍約50,000人(70,000人とも)
に包囲され、9月24日早朝4時、総攻撃を受け、無念にも、城山の地に散ったのでごわす。
(無論、怪我等で投降した侍約200名もいた。その後、処刑されたり牢獄多数あり)

ご参考までに。
(人数や期日には諸説あるので詳細は文献、ネットなどでご確認くだされ)

※戦死者/政府軍6,403名、薩摩軍6,765名

合掌

最後の侍の言霊に支えられ

2018-12-03 | Weblog
何度も何度も辛く苦しい経験をしてこそ、人の志は初めて堅くなるのだ。
真の男は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となって生き
長らえることを恥とせよ。            *西郷先生の言霊


*西郷先生のお言葉を本懐とし、薩摩下級武士の血を細々だが連綿と受け
継ぐ薩摩隼人としての矜持を常に胸に秘め抱き、喰わねど高楊枝を貫く、、
つもりが、辛く苦しい日々を焼酎に逃げ、人様に頼り生き恥を晒し、玉砕
もできず、今日に至るやっせんぼ人生を歩んで過日、16周年を迎えもした。

あいがとさげもした。



※現代の政治家様、お役人殿には西郷どんのこの言霊を贈いもんそ。

国民の上に立つ者は、いつも心を慎み、普段の行いを正しくし、驕りや贅沢
を戒め、つつましくすることに努め、仕事に励んで人々の手本となり、国民
がその仕事ぶりや生活を気の毒に思うくらいでなければ、政府の命令は行わ
れにくい。



さて、もうここらでよかろかい。
今宵は最後の侍達の無念の思いと、未来への思いを馳せ、呑むとするか。
ほんなこて、おやっとさあでごわしたなあ。



こんな世になっせえ、まこちすんもはん。