2の1.つぎに感想文の本体の書き方をご案内しましょう。ここにもコツがあります。先ほど上げた「感じる」、「想う」、「考える」をキーワードにご案内しましょう。
1)まず、「1.」の作業が終わった直後に感じたことをメモしましょう。多くの場合、「あぁ~疲れた。」が直後の感想ですか。次に、「難しいなぁ~!」ですか。そこで、このとき、「あぁ~疲れた。」や「難しいなぁ~!」の後に「なぜ」をつけます。「あぁ~疲れた。なぜ疲れたのかな?」、「難しいなぁ~!なぜ難しいと感じたのかな?」というふうにします。でも、ここでは気付いたことをメモするくらいで本格的に書いてはいけません。書こうとすると思考が止まります。
2)何かを感じたら、次に何か想ったことをメモして下さい。
「『感じたこと』と『想ったこと』とは同じだろう。」と思いますか。これが違うのですね。いや、違うことを意識するほうがいいのです。感じるのは自分の勝手です。「寒い!」と感じても他の人は「寒くないよ!」っていうときがあります。でも、「寒い」と感じた人は寒いと感じたのですから寒いのです。他人は文句を言えません。これに対して、「想う」というのは自分の外で起きていることを一度自分の意識の中に取り込んで、それからそれについて心が動いた結果が「想う」という現象に現れるのですね。寒い季節が終わり、次第に暖かさが増してきたころ桜のツボミがふくらんでいるのに気づいたとします。「春が近いなぁ~」と想いますね。「『春が近いなぁ~』と感じるかもしれないじゃないか。」との反論が聞こえそうですね。「感じた」と思ってもいいのですが、ここでは「想う」のですね。その違いは何か。「感じる」のは勝手に感じるだけですが、「想う」のは桜のツボミを見たからです。「感じる」と「想う」の違い、分かってくれたかなぁ~。
「なぜ、『春が近いなぁ~』と想ったのですか。」と問われたら「桜のツボミがふくらんでいるのに気づいたから。」とその根拠を示すことができます。「自分の発言に何らかの根拠を示すことができる場合を『想う』で表現する」と理解するといいと思います。
3)さて、最後が「考える」ですね。「考える」は「感じる」や「想う」とどう違うでしょうか。「〇〇と考えます。」と発言したり、文字で書いたときはその論理的根拠を示す必要があります。ただ、ここで注意しなければならないことは、論理的根拠とは言っても難しい結びつきを示さなければならないというわけではありません。ここでは、大多数の人が納得できる程度の一応のつながりさえ示すことができれば論理的根拠が示されたと言ってよいと思います。「桜のツボミがふくらんでいるのに気づいた。例年、桜のツボミがふくらんでいるのが見えると数日後に暖かな強い南風が吹き気象庁が『春一番が吹いた』と発表している。だから私は春が近いなと想ったのです。」と大多数の人が納得できる程度の一応のつながりを示すことができます。「桜のツボミ」→「数日後の暖かな強い南風」→「気象庁」→「『春一番が吹いた』という発表」、このように「なるほど」と納得できるつながりがあれば論理的根拠が示されたと言ってよいでしょう。こういうときは「考えた」ことになります。
「感じる」、「想う」、「考える」にこのような意味内容がもともとあるということを言っているのではありません。そうではなく、何かを表現するときにはこのような違いを自覚していると表現しやすいということを言っているだけです。
ちなみに、「感じる」、「想う」、「考える」という順に従って何かが付け加わっていることにお気付きだと思います。「感じる」には何も客観的要素がありません。しかし、「想う」には「桜のツボミ」という外部的で客観的な要素が加わっています。そして、「考える」には「桜のツボミ」の他にさらに「数日後の暖かな強い南風」、「気象庁」、「『春一番が吹いた』という発表」という外部的で客観的な要素が加わっています。そしてさらに!外部的とか客観的と言ったこと以上に大きな要素が加わっていますがお気付きですか。それは「例年」という二文字です。これは大きいですね。強い説得力を加えています。つまり統計上の経験則ですね。経験則とは経験によって何らかの規則性があることが分かり将来の予測がつくことと言ってよいでしょうか。これは目には見えないものですが論理的な説得力を高めることに大きく貢献しています。
そして最後に、「考える」に不可欠な要素が「つながり」です。上記の外部的で客観的な要素がどれほどあっても、それらがばらばらに登場したり順序が逆だったりしたら論理的な説得力は無くなります。つまり、論理的なつながりが必要になるのですね。しばしば「論理的証明」を説明する場面で引用される三段論法がその典型ですね。「A=B、B=C、よってA=C」というやつです。(つづく)