退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

「桜をみる会」の問題は重要なのです。

2020年02月24日 13時50分16秒 | 日記

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 ある寄り合いで今の新型感染症の話が出ました。必然的に政府の対応の誤りを指摘する複数の意見が示され大方の賛同を得ていました。

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 ここまでは良いのですが、その後、「今の政府じゃダメだけど野党もダメだよね。いつまで『桜』をやっているのかねぇ~。」と一人が声高に言うと、「そうだよねぇ~。」という声がまた大方の数に上ってしまいました。

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 「いや、違いますね。」という声は愚輩一人。四面楚歌!

 「なぜ?」という誰かの声で再び大方の耳が愚輩に向いてしまいました。

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 否応なしに何かをしゃべらなければならない状況になってしまいました。

 以下、愚考卑見の要旨です。

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 日本が採用している代表民主制は国民の信頼の上に成り立っています。日本国憲法の前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」という一文があります。原文では「Government is a sacred trust of the people」となっています。つまり、「信託」と訳されてはいますが国政は国民の信頼(trust)の上に成り立っていなければならないことを日本国憲法は命じています。

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 なぜこんな当たり前のことを日本国憲法の前文にわざわざ書き記したのでしょうか。

 それは前文が日本国憲法の解釈原理を定めたものであるからです。

 先ほど「原文では(云々)」という表現をしました。もとより、日本国憲法の原文は英文です。異論があるようですが事実は事実。したがって、愚輩ども研究者は日本国憲法を考えるときは必ず原文から出発します。

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 GHQが日本に示した日本国憲法の原文には米国が実現できなかった理想国家の姿が描かれています。

 そして、それと同時に米国が懸念する統治の失敗要因、すなわち「権力は堕落する」という真理を前提に代表民主制の基礎には国民の信頼があるということ、逆に言えば国民の信頼を失えば為政者はその地位を去るべきだということを前文に刻み込んだと言ってよいでしょう。

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 これを今般の「桜をみる会」の問題で考えれば、もし野党が指摘していることが真実であるならば政府に対する国民の信頼は限りなく0に近づくはずです。

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 しかし、政府も野党の指摘に対して100%反論し反駁することができます。

 それは野党が求める資料を国会(=国民の代表による意思決定機関)に提出し、野党が求める証人を国会で喚問し、政府の潔白を証明すればよいだけのことです。至極簡単な事であり、かつ正義に、とりわけ手続的正義(procedural justice)にかなう立派な反論となるはずです(ちなみに、手続的正義とは難しい概念ではない。一本のビールを二人で公平に分けるにはその半分以上が入る同じ容量のコップを二つ準備して一方が分け、他方が先に取ればよいのですね。)。これが手続的正義の基本です。

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 つまり、政府は野党の求めに応じて資料でも証人でもなんでも出せばそれで潔白は証明できることになり、潔白が証明できれば野党の指摘は「言いがかり」であったことになり国民の信頼は急上昇するはずです。

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 これに対して、「私は悪いことはしていません。私の言っていることを信じてください。」と百万遍言っても、信頼が失われかけた状態ではその言葉を信頼することはできないでしょう。浮気の現場を押さえられた人が、「私は浮気していません。私の言っていることを信じてください。」と言って信じてもらえるでしょうか。

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 つまり、日本の議会制民主主義は代表民主制で成り立っている。代表民主制は国民の信頼で成り立っている。桜問題はその信頼を揺るがす事態である。国民はあらゆる政策課題論争よりも、何よりもまず政府に対する信頼を回復できるよう桜問題を、そして、何故か消えてしまった、モリカケ問題の真相を明らかにする審議を国会に求めるべきでしょう。

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 日本人の多くは政府に対して、なぜか捜査機関が政治家に捜査の目を向けない限り「政治家は白」という根拠のない信頼を寄せているようです。

 しかし、政治家の責任と義務は大きな政策を実現すること以前に、先ず、何よりも国民の信頼を得ることなのですね。

 そして、政治責任は法律上の責任とは次元が異なる高位の責任であることを政治家、すなわち、国民の代表者には認識して頂きたいと思います。

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 捜査機関は犯罪の疑いが無ければ動きません。したがって、政治責任を刑事責任と同列に置けば、犯罪の疑いが無ければ国民の信頼が無くても政治家は政治を継続できることになってしまいます。しかし、それは違うと思います。

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 日本で最も強力な調査権限を持つ機関はどこでしょうか。大学生に聴くと「検察庁です。」と答えます。

 違いますね。

 日本国憲法第41条には「国会は、国権の最高機関」であると定められており、同じく第62条には「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。」と定められています。

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 犯罪の疑いなぞ無くても国政上必要ならばこの調査ができます。日本で最も強力な調査権限を持つのは国会です。検察庁の特別捜査部は犯罪の疑いが無い限り動きません。

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 国会の国政調査権はこれほどまでに強大なのに、議会の多数派政党がこの調査権の発動を阻止しているのです。「権力は堕落する」とはこのことなのでしょう。

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 だから、「桜をみる会」の問題は重要なのです。

 そして、消えてしまった、否、消されてしまったモリカケ問題も重要だったのです。

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 と、こんな内容の話をしたところ、「そういうもんかねぇ~。」と懐疑的なご意見と「あぁ~、そうなんだ。」と少しご納得の意見に分かれました。

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 本題をすこし離れますが、人は一度信じたことを疑うことを嫌う習性があるようですね。

 裏切られた人を信じた自分を嫌悪せざるを得ないからでしょうか。

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 これが政党や政治家が相手となるとなおさら根拠のない信頼を維持しようと自分を納得させるみたいですね。

 「何かの間違いだろう。」、「野党は政権を奪還したいから針小棒大な表現をしているのだろう。」と、こんな感じで何度裏切られても一度信じた政党や政治家を信じ続け支持し続けるのですね。

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 「無党派層は信念が無い。」という批判を耳にしたことがあります。

 そうではないと思います。

 候補者の人柄も真の業績も分からず、また、当選後どんな活動をするのかも全く分からないまま人々は投票に行きます。ときには当選後に想定外の政党に入党する当選者もいます。

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 ほぼ熟慮無く政党を妄信して投票する人々よりもその時その時の必要政策と人柄に従って候補者を吟味する無党派層の方がよっぽど信念があると愚考しております。

 

浅学非才愚考卑見乱文長文多謝。m(_ _)m。。。