先生との出会い(7)― ライフガード(2) ―(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
その新人さんは某大学の現役水泳部員で救助員の有資格者であった。自信満々で練習に加わって来た。もちろん、競泳の練習では私は全くかなわない。彼は選手なのだから。
救助法の訓練に移った。何を思ったか先輩が「H、ヤツの面倒を見てやれ。」と私に言った。「了解しました。」と返事をしてダイビングプールへ移動した。
「救助法は知ってるよね。」
「はい、大丈夫です。」自信満々に答えた。
「じゃあ~、一回やってみようか。」
「はい。了解です。」
そういうことで私が溺者役となって訓練を始めた。「H、ヤツの面倒を見てやれ。」と私に言った先輩はプールサイドに立って見ていた。これは万一に備えた監視でもある。
溺れる前にもう一度確認した。「運べるよね。」と。
「大丈夫です。」と答えてくれた。
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私は溺れた。彼が救助に来てくれた。教科書通りである。多少上下はするもののスイスイ運ばれるままに体重をあずけ天井を眺めていた。楽ちん。
「上手だねぇ~。できるねぇ~。」と私が言う。
「H、ダメだよ甘いことしてちゃ。しがみつけ。おまえ、浮いてんじゃないの。」とプールサイドの先輩から声が飛んだ。
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泳げる人は何もしなくても水面で浮いてしまう。したがって、彼が運んだのは水面に浮いている私を引っ張って来ただけだという評価である。
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「君、離脱法、知ってる。」と尋ねた。
「はい、大丈夫です。」と元気な声が返って来た。
「じゃぁ~、しがみつくよ。」と言うと「了解です。」と再び元気な声が返って来た。
「立体、巻き足、大丈夫だよね。」と訊くと。再び「大丈夫です。」との答えが返ってきた。彼としては万全なのだろう。体格も貧弱な私より大きく、太股も太かった。
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「溺れるよ~。」と言って溺れた。先輩が、「救助!」と声をかけた。彼は勢いよく私に向かって来た。そのまま私にぶつかりそうになったので私は首にしがみ付いた。一瞬二人とも沈んだ。教科書通りの離脱法を行って無事態勢を整え水面を運び始めた。
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「ダメだよH、そんな優しいことしたら。いつもの練習みたいにやってみろ!」と先輩の声が飛んだ。 彼は少し息を切らしていた。
「今日はじめてですよ。」と私が言うと、「大丈夫だ!」と「大丈夫です。」が同時に聞こえた。
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「本当に大丈夫?」と訊くと「大丈夫です。」と彼は答えた。少し火が付いたみたいだった。明らかに貧弱でやせた私を扱うのに少し手間取ったからだろうか。このとき私の体重は53kgだった。
「じゃぁ~、溺れるよ~。」と言って再度私は溺れた。
彼が近づいてきた。先輩もいくらか前よりは真剣に見ている。「仕方がない。かわいそうだがやってみるか。」と決めて目前に迫った彼にしがみ付いた。私の方が一瞬早かったので私の顔を押しのけられない。一回目のように少し沈みかけたので足を絡めた。彼の巻き足は十分ではなかった。ふわふわ水を踏んでいる両足に私の足を絡めた。もはや彼には浮いている手段が無かった。そのまま水底5mまで沈んだ。
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彼の口から泡が出たので手と足を離した。彼は一気に浮上し水面でフウフウしていた。手で浮きをとっていた。
「大丈夫?」と訊くと「はい、大丈夫です。」と息苦しそうに答えた。大丈夫ではなかったようだ。少し溺れていた。
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「ああいうのは一度溺れた方がいいんだ。」と先輩は私と二人になった時に言った。先輩は彼の自信が危険だと判断した。「一度(鼻を)折っておく方が良いんだ。お前のこともなめてたからな。」
そういうことか。
その後、彼は非常に熱心に練習していた。とりわけ巻き足の練習には力がこもっていた。
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水底に沈んだとき、彼も苦しかっただろう。だが、これはいま時のイジメやシゴキではない。溺者の苦しさを知り自己の安全を確保する訓練でもあった。
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また、救助法の有資格者には得てして彼のような自信に満ちた人がいる。自信を持つことは良い。だが、それが油断を生み自分が危険に曝されることは避けなければならない。
先輩たちの腹にあるのは、表現は悪いが、馴れ合いに近い状況で会得した救助法はこのプールでは役に立たないということのようであった。
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私は中学生の時、学校のプールで溺れたことがある。背が小さくかろうじて足のつくプールだったが水底の排水口に引き寄せられた。わずかに循環する流れに吸い込まれた。何もできなかった。怖かった。たまたま気付いてくれた先生が助けてくれた。
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その自分が今、溺者を助ける訓練をしている。不思議な感覚だった。水底まで引きずり込まれても相手から離脱し、さらに相手を水面まで引き上げなければならない。
特殊な技術だが「どこぞの救助法普及組織では教えていない。」と誇らしげに先輩は言った。
もっとも、自然の海や川では通用しない。いわんや着衣泳の領域に至れば話は全く変わる。その点は自覚していたはずだ。
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激しくも楽しい訓練期間は思いがけず早い時期に完了し、正勤務につける日が来た。嬉しかった。
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ライフガードの業務は徹底したチームワークだった。二人一組のバディーで、コントロール、タワー、休憩、レストを回して行く。混雑時にはこれにパトロールが加わる。30分交替だ。
コントロールはプールサイドにあるコントロールカウンターにバディーで入る。コントロールカウンターには小型の五輪がぶら下がっている。
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コントロールの主たる業務は場内放送と定時パトロールだ。10分間隔で、交替でパトロールにも出る。場内放送では休憩時間や場内規則の案内をする。コントロールでは貴重品の預かりもする。タワーから指示があるとすぐにプールサイドに出て対応する。レコード室があるので場内に流す音楽も担当する。一度、軍艦マーチと君が代を流して上司に叱られた。
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タワーは監視業務全体の目だ。50メールを半分に区切り、半分に区切った部分の窓側サイドの中央に高さ5メール程の頑丈な木製の監視台が立っている。主たる業務は入場者の誘導だ。水深を知らずに深いところに入ろうとする人に「そこは深いですよ~。」とメガホンで声をかける。「泳げま~す。」と返事をする人もいる。入ったとたんに沈みパトロールを呼んだことがある。
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シャワーを浴びていない人にはシャワーを浴びるよう促す。髪の毛に付いた整髪料で水質が汚染されることを防ぐ意味もあるが、主たる目的は水慣れだ。シャワーを浴びないで入場する人の中に溺れる人がいる割合は高い。
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このプールで普通の人が立てるのはスタート台から5メール付近までだ。そのラインを超えると急に深くなる。したがって、「スタート台から5メール以内の所からお入りください。」と声をかける。ムッとする人もいる。
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このプールには入場口側のサイドに水中棚という厄介なものがあった。棚と言ってもプール本体に作り付けのコンクリートのせり出しで50cm程しかない。ここに立つと大人のヘソのあたりが水面となる。その為、その高さを深さだと思ってプールに入り溺れる人がいる。
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溺者の判定は難しい。ドラマや映画の溺者をイメージしたら見落とす。溺れている人の典型は水面に手しか出ていない。それもないときもある。バチャバチャもがいて「助けて~」と言える人は溺れてはいない。
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しかし、ぜんぜん泳げないわけではない人が水深を知らずに泳ぎだし、立とうと思ったら足がつかなかったという場合は難しい。なんとか泳ごうと努力するので対応が難しい。
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こういうときはパトロールを呼ぶ。呼ばれて最初に出動するのはコントロール担当者の内の一名だ。それで間に合わないときはレストが出る。レストは文字通り待機なので、この間は控室にいなければならない。タワーを降りたあとの休憩時間に飯を食ったり泳いだり横になったり休息をとる。
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ここで、溺者発生時の動きを再現しておこう。(つづく)
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