退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(40)―分からないところを質問できる人はすでに分からないところが分かっているのだから、自分自身が分からないところが分からないわけではない―(愚か者の回想四)

2021年04月05日 16時36分44秒 | 日記

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 これまでと全く同じように塾長が先に教室に入り、これまでと全く同じように言った。

 「今日からこの先生だから。しっかり勉強しろよ。」

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 「え~~~!」と大騒ぎになった。

 人数が少ないとはいえ、さすがに3年生だ。体格は大人なので「え~~~!」のボリュームが凄かった。

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 「黙れ!うるさい!静かに勉強しろ。」と、これまでと全く同じように笑いながら言った。

 「前の先生はどうしたの!」と一番元気な生徒が言った。 

 「年だからやめた。分かるだろ。」この一言で終わった。

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 塾に対する私の偏見の一部が消えた。

 子供たちは自然に、ノビノビとそして真剣に学んでいた。

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 塾長の経営方針というか教育方針が良かった。

 「学校の宿題には手を貸さない。仁義に反する。」というのである。

 ここでいう「仁義」が何なのかは分からない。だが、塾は塾、学校は学校という立ち位置らしい。

 学校の教科書を教材に使っているのだから学校の勉強の予習や復習、そして補習をする場所ではないというのはいささか不自然だがそういうことらしい。この立ち位置が私は好きだった。

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 私自身がほとんど学んだことが無い中学英語を教えるのである。難しいことは何も無いが難しかった。

 そこで、改めて中学英語を学習し直した。「Hi,Mike. Hi,Kathy」で始まる中一の教科書から始め、三年生の教科書の末尾にあるやや長文の読み物まで全部読み通した。

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 塾長から教科書と一緒に渡された指導書にも隅々まで目を通した。指導書には教科書で取り上げた項目を説明する際、補足として使用すべきトピックまで書き込まれていた。

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 塾長の助言もあり、当初は教科書にそって授業を行った。

 新出単語の発音と意味、新たな表現の仕方、テキストの日本語訳、これらを繰り返す授業となった。

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 数日後、塾長の先輩が経営しているという山奥の塾へ連れて行かれた。

 教室はまさに山小屋そのものであり、その広い教室に80人ほどの生徒が集まり先生の説明を聴いていた。

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 これは研修であった。

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 しかし、少し違うなと感じた。

 「違う」というのは塾長が醸し出す塾の空気とあの研修先の塾の空気とでは流れる方向が違うと感じた。

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 後日、この点を塾長に確認してみた。なるほど、やはりそうであった。方向性は異なる。ただ、私が「塾講師は初めてだ」と言ったので連れて行ったのだとの説明を受けた。

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 塾長の目指す方向が見えた。

 そこで私流の授業をすることにした。私流とは目的を見据えた徹底練習である。

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 修士2年のこのとき、私はドイツ語に少々自信を持っていた。勉強をするために入った大学で納得の行く勉強ができなかったのは自己責任である。改めて納得の行く勉強をするために大学院への進学を決めた。その勉強の過程で多くの先生に未知の世界を見せていただいた。また、勉強に向かう姿勢も学ばせていただいた。

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 小学校の頃、先生は、「勉強は他人のためにするのではなく自分のためにするのだから一所懸命しなさい。」と言った。

 「自分のためにするのならばする必要は無い。僕は良い成績なんか取りたいとは思わない。」と屁理屈を言い先生に睨まれた。

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 しかし、当然のことながら、大学院でする勉強は「自分のためにする」ものではなかった。

 とりわけ、我々法学を志す者は法による救済を必要としている人に分かりやすく法の仕組を伝えるために勉強しているのである。

 At先生は言い切った。

 「金儲けや立身出世のためにする勉強ならやめろ。」と。

 この哲学はグサッと腹に突き刺さった。

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 大学院に入るまでの勉強の原動力はただ勉強をしたいという一念であった。しかし、At先生のあの一言で自分は全く違う世界に飛び出した。そんな感じがした。

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 「他人様のためにする勉強」これが自分の勉強心情となっていた。

 よく、「他人の踏み台にはなりたく無い」と言う人がいる。

 私はそうではないと分かった。

 「勉強は他人の踏み台になるためにする。」

 踏み台がグラついたらその踏み台に乗った人が困る。

 踏み台が壊れたらその踏み台に乗った人がケガをするかもしれない。

 踏み台は頑丈でなければならない。

 頑丈な踏み台になるために勉強をする。

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 少年Hは小中学生の頃、勉強の意味を知らなかった。

 「なぜ勉強するのか。」

 この問に答えてくれる大人が自分の周辺にはいなかった。

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 やむを得ず勉強のマネ事をしようとしても、何をすべきか分からなかった。

 先生は「分からないところがあれば質問しなさい。」といつも言っていた。

 しかし、自分にはどこが分からないのかも分からなかった。

 だから、質問もできなかった。

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 しかし、修士一年の時、あの唯一日本語で行われるYa先生のゼミで「分からない」とはどういうことかを痛感させられた。

 つまり、分からないところを質問できる人はすでに分からないところが分かっているのだから、自分自身が分からないところが分からないわけではないということなのだ。

 本当に分からないというのは何が分からないのかも分からないので質問すらできない。

 逆に言えば、自分の認識の欠如を指摘されても、「何を認識していなければならないのか」ということ自体が分からない人は、その指摘の意味や趣旨がまったく分からないのである。

 そのため、指摘された側、つまりその指摘の意味が分からない人に社会的地位や権力があると、「指摘が見当違いだ」と一蹴する危険がある。

 自分が分からないことを自覚することは非常に難しいことだ、と思う。このことを実感したのが修士一年の一年間だった。

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 ちなみに、これに気付かせてくれた先輩は現在どこかで裁判官をされているはずだ。否、私の先輩だからもう退官し弁護士をしているはずだ。

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 私は試みにこの体験を、表現を変えて塾の子供たちにぶつけてみた。

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 私の経験では中学英語は、私が中学生だったときも、途中から授業が始まっていた。

 「途中から」というのは生徒がある程度英語について知識があるという前提で始まっているということである。

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 そこで、私が一年生を担当するときは始めのはじめから授業を始めた。

 その当時も、小学生の頃から英語を勉強しているものもいた。

 しかし、私流の授業ではその程度の予備知識では余裕も優越感も持つことはできなかった。

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 私はなぜ日本人が中学校の一年生から英語を学ばなければならないかという問を投げかけた。

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 このときのやり取りを別の場所で別の人に話すと、「中一にそれを質問してもダメでしょう。」という答えが異口同音に帰って来た。

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 しかし、当時の中一生は、この問を発する私の話に聴き入ってくれた。

 成績が落ち込んでいるため途中から入って来た生徒がいると、そのときも同じように少し時間を取ってこの話をした。

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 英語の勉強を諦めていた子供が英語に向き合い始めた。

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 あるとき、知る人ぞ知る「bookの訳し方」を問うてみた。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(39)― 親父になった!塾講師になった! ―(愚か者の回想四)

2021年04月01日 19時58分45秒 | 日記

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 1982年10月、私達の長女が生まれた。嬉しかった。

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 話はほぼ一年前にさかのぼる。

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 寒い日であった。妻が体調不良を訴えた。

 その期間が少し長く続いたので病院へ行くことにした。

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 念のため受診した産科で妊娠が分かった。

 妻は複雑な顔をしていた。

 私はただただ手放しに喜んでいた。

 しばしば、「男は呑気なものだ」と言われるがまさにその通りだった。

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 子ができたことが分かってからも妻は調子が良いときはKa先生の独法ゼミに出席していた。

 しかし、ツワリが強くなる時期から出席は困難になった。

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 この頃の生活は実に波乱万丈だった。

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 妊娠が分かって帰宅。

 「さて、これからどうしようか。」と二人でぼうっとしていると妻の後輩のS君から電話が来た。

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 「Hさ~ん、バイトやんな~い、塾なんだけどぉ~。」

 じつに軽い。

 少し斜に構えた気取った言い方が彼の特徴であり、良いところでもあった。私は好きだった。

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 「塾はやりたくないなぁ~。」と私は答えた。

 断れる生活状況ではないことをすっかり忘れていた。

 当時、実態を知らないまま私は塾に批判的だった。

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 「まぁ、そんなこと言わないで。どうせ生活、困ってんでしょう。(確かに困っていた。)。いいんじゃないの、少しまとまったお金が定期的に入る方が。(これも当たっている。)知り合いからの話だから悪い内容ではないと思うよ。」(軽い!)

 「分かった。少し考えさせてくれ。」

 「考えている間に決まっちゃうよ、いい話だから。」(説得力大だ!)

 「分かった。やるよ。」

 「塾長さんに会ってそっちで進めてヨ、俺はここまでだ。」

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 彼は元気だった!思い出すと泣けてくる。

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 という話のやり取りで私は塾講師の面接試験を受けることになった。

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 S君以外にも私は後輩に助けられることが多かった。

 後から考えれば、S君のこの話が無ければ私達は生きられなかった。

 しかも、妊娠が分かったその日である。神様の思し召しだったのだろう。

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 大変残念なことだがS君はそれから数年後、若くして天寿を全うされた。働き盛りだった。大変悲しく、大変寂しい。

 いま、改めてご冥福を祈りたい。合掌

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 さて、私達がその時住んでいたアパートは相模原市にあった。東と南に米軍の広大な施設が広がっていた。これほどの眺めは過去にも、そしてその後もなかった。

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 日がさんさんと部屋にあふれていた。

 それまで三年程いた東向きの穴倉のような部屋とは違っていた。人にも太陽が必要なのだと実感した。

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 この塾について少し詳しく書いておきたい。私達を困窮生活から救い出してくれたばかりでなく、様々な意味で大きな存在となったからだ。

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 塾は中学生を対象とする進学教室だった。

 塾長は私より少し年上で数学がご専門だ。

 この時まで英語を担当していた先生がご高齢ということでお辞めになるとのことだった。

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 私が中学生に英語を教えるのである。

 塾生は皆、県立S高校を目指す。

 S高校はその学区ではトップ校だ。

 トップ校を目ざす中学生に私が英語を教えるのである。果たしてまともに教えられるだろうか。熟成の期待に応えられるだろうか。ヘマをしてバカにされないだろうか。不安だらけだった。

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 たしかに、そのとき、私の英語の実力は中学英語に対応するには十分だった。

 しかし、トラウマがあった。

 中学校3年生の時、私は英語で7点を取った。英語が全く分からなかった。

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 大学に入学した頃も英語は悩みの種だった。そして、大学院を目指したときも英語は避けた。

 この状態で高校入試に向けた中学英語に対応できるだろうか。不安を抱えたまま塾長との面接に臨んだ。

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 塾長は地元の人で非常に気さくな人だった。

 英語の教科書を持参してくれた。

 面接試験というより、いきなり打合わせの段階に入っていた。

 「来ていただく日は一週間に3日ですね。1コマ1時間の2コマ。今3年生が一クラスなので、3年生と2年生の2クラス、それに1年生の一クラスをお願いします。6時半からですね。お給料は〇〇円でよろしいですか。よろしくお願いします。」(塾長)

 「承知いたしました。よろしくお願いします。」(私)

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 10分もかからず、採否はその場で決まった。

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 「では、明日から。」

 「承知しました。よろしくお願いします。」

 「よろしくお願いします。」

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 翌日、指定された住所と目印を手掛かりに車で塾へ向かった。塾はすぐに見つかった。

 プレハブ平屋造りの建物はお世辞にも立派とは言えない。 

 今にも倒壊しそうな教室棟は内部が壁で仕切られ教室が二つ作られていた。

 3人掛けの机が左右ふたつに分かれて配置され5列あった。したがって、満席にすれば30人は入る。だが、私が行ったときは各学年各組とも20人前後だった。3年生は10人未満だった。

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 教室とは別に、こちらも仮普請の小屋風の講師控室が脇に建てられていた。

 当時流行りであった本棚付きの机が置かれていた。私のために用意されたものだった。

 小屋風の講師控室の扉には「職員室」の文字があった。のどかで好感が持てた。

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 初日、最初の授業は一年生だった。塾長が先に教室に入った。

 「今日からこの先生だから。しっかり勉強しろよ。」

 そう言って出て行った。

 「軽いなぁ~。」と好意的に感動した。

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 「え~!」という小さな反応があったが子供たちはすぐ学習態勢に入った。一年生の英語である。まだまだ難しい部分は無かった。

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 二年生の最初の授業の日が来た。前回同様、塾長が先に教室に入った。

 「今日からこの先生だから。しっかり勉強しろよ。」

 そう言って出て行こうとすると、「え~~!」とひと騒ぎ起きた。

 「うるさい!静かに勉強しろ。」と笑いながら言って出て行った。実に良い雰囲気だ。

 そして、いよいよ三年生の授業の日が来た。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。