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ベルイマンが離婚問題や両親との確執で心身ともにまいっていた時に、療養先の病院でシナリオを書いたといわれている監督初期の作品。スウェーデンのルンドでとり行われる名誉博士号授与式に出席するために、主人公の元老医学博士イーサク(ヴィクトル・シュストレム)が義理の娘マリアンヌ(イングリッド・チューリン)を連れて出かけるロード・ムービーである。老人の孤独や悔恨を描いた作品のなどといわれてはいるが、ベルイマンが本作を撮ったのは38才の時、映画監督としてはまだまだかけだしと言ってもよいだろう。いくら入院中だったとはいえさあこれからという時期に、自らの死を予感するような映画をわざわざ撮るようなまねはしないと思うのである。
むしろ当時のベルイマンと同い年の、現役医師役で本作に登場する息子エヴァルド(グンナール・ビョルンストランド)に自身を投影させながら、厳格な牧師でベルイマンと確執があった実の父を描いた作品だったのではないだろうか。生涯友をもたずひたすら仕事に打ち込んだ日々を書斎に引きこもって回顧するイーサクは、妻カーリンを喪って以来メイドのアグダと2人暮らし、孤独な生活を送っていた。そんなイーサクに名誉博士授賞の知らせがあり、ひょんなことから息子の嫁マリアンヌと一緒にルンドへとロールス・ロイスを走らせるのだが....
書斎に引きこもりっぱなしの孤独な老教授と家政婦、途中ヒッチハイカーとして同乗することになった賑やかな大学生3人組などを観ていると、どうしたってヴィスコンティの『家族の肖像』(74)を思い出さずにいられない。モーツァルトが静かに流れる老教授のアパートに突如として乱入する喧騒一家を、おそらくヴィスコンティはイタリアに輸入された“新自由主義”のメタファーとして描いていた。ならば、車の中でいきなり喧嘩を始める神学生と医学生の2人、そしてイーサクの悪夢や老いた母親宅で登場する“針のない時計”は、一体何の暗喩だったのだろうか。
一時は父親と同じ“牧師”を目指していたというベルイマンは、父親との確執から映画監督というまったく別の道を選択するのである。2人の大学生はそんなベルイマンの2つに引き裂かれたアイデンティティを表しているのだろうか。道中マリアンヌから妊娠していることを告げられ、夫エヴァルドからは「子供を選ぶか俺を選ぶかどちらかにしろ」と中絶を迫られたことをイーサクに愚痴るのだ。そんな息子のエゴイスト的ふるまいが父親とそっくりだとなじられるのである。つまり、“針のない時計”とは、“生きているのに(魂が)死んでいる”にように見えるイーサク本人のことだったのではないだろうか。
私生活でも、5度の離婚結婚を繰り返し、生涯8人の子供を儲けたというベルイマンは、とかくフェミニストからの攻撃対象になりやすい映画監督だが、その原因の一端は不仲で喧嘩が絶えなかった両親にある、とでも言いたかったのではあるまいか。厳格な父親を憎悪し、家庭人としてはもちろん失格のベルイマンは、もしかしたら終生“神に赦される”=“父に赦される(または父を赦す)”ことを願っていたのではないだろうか。夢の中で、恋心を密かに抱いていた従姉妹のサーラ(ビビ・アンデショーン)に「もう野いちごはないのよ」と入江に案内されたイーサクは、そこで仲良く釣りを楽しむ両親に出会う。ベルイマンにとって、それはまた“幸福な家庭(野いちごの花言葉)”という夢幻だったのかもしれない。
野いちご
監督 イングマール・ベルイマン(1957年)
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