コロナ禍中、30代に読んだ筒井康隆の小説『敵』を再度読み直していた吉田大八監督はこう思ったそうである。家の中に閉じこもっている男の日常が妄想に侵蝕されていくストーリーは、ロックダウン下にある現代社会にも相通じるポテンシャルを持っている、と。脚色大魔王の異名をとる吉田大八監督曰く「今まででもっとも原作に忠実な映画」だそうで、90歳をこえて車椅子生活状態の筒井康隆があと20歳若かったら、実際主人公へのキャスティングをオファーしていたかもしれない、と語っていた。
奥さんが20年前に他界後フランス語大学教授を退官した渡辺儀助(長塚京三)は、古い家で独居生活を送っていた。原作小説同様、炊事洗濯掃除の作務を執拗に追いかけた前半を見ていると、こりゃヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』とおなじ“小津安二郎”へのオマージュか、と錯覚させられる。渡辺家に度々表れる色っぽい元教え子鷹司を演じた瀧内公美には、実際吉田監督から「原節子のイメージで演じてほしい」というオーダーがあったそうなのだ。あれあれやっぱり小津なの?と思いきや...
この映画、同じモノクロで撮られているのだけれど“小津調”とはどこかニュアンスが違っている。劇場で見ながら誰かのモノクロ映像に似ていると思ったのだが、監督自らがインタビューで白状していたようにおそらく“ホン・サンス”のパクリだろう。硬派なようでどこか胡散臭いコントラストを効かせたモノクロ映像は、まさにホン・サンスそのもの。死を明確に意識させるキャラをどこかで茶化しているホン・サンスの近作同様、預貯金が底をついたら自殺しようと遺書まで用意している殊勝な儀助を、筒井や吉田はどこか覚めた目で見つめているのである。
「健康診断じゃ健康にはならないよ」なんて、悟りきった名言を友人(松尾貴史が筒井康隆にそっくり!)に披露する儀助ではあるが、(妄想の中では)瀧内公美や河合優実演じる若い娘に手出しする気満々だし、(やはり妄想の中で)死んだ女房(黒沢あすか)と念願の湯船につかったり、(これもやっぱり妄想の中で)キムチの食いすぎで出血した肛門に内視鏡を激しく突っ込まれたりと、本音ではまだまだ“若さ”の象徴でもある“春(性)”にしがみつきたい儀助77歳なのである。
が、そんな儀助のパソコンに謎のスパムメールが入り始める.....「敵が北からやって来る」何かにしがみついても、逃げても、物置小屋に隠れても、棒切れを持って立ち向かおうと抗っても、どこまでもどこまでも追いかけてくる“敵”。隣の『裏窓』から眺める分には暇潰しの格好のネタになる“敵”。“枯井戸”のごとくけっして甦ることのない“敵”。フランス人なら絶対道端から拾いあげない“犬の糞”のように悪臭を放ち、しまいにはふんずけられる運命の“敵”。そんな“敵”が、自分が予想すらしない時に目の前にふいに現れたら、あなたは素直にそれを受け入れますか、それとも.....
※因みに遺産相続を受けた槙男くんは儀助の“おい”でしたよね。お後がよろしいようで。
敵
監督 吉田 大八(2025年)
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