ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

ギリシャ語の時間

2025年01月19日 | 映画評じゃないけど篇

山ピーと新木優子が共演した、目の見えない男と聾唖の女を主人公にしたアマプラ恋愛ドラマを、現実的には100%成立しないおとぎ話やなぁと思いながら最後まで見てしまった記憶がある。そこへいくとノーベル文学賞受賞のハン・ガンが2回目のブッカー賞に輝いた本小説は、ギリシャ語講師の男が完全な失明状態ではなく、女性の方も言葉はしゃべれないけれど耳は聞こえる分、山ピーのドラマに比べるとまだ救いはある。

しかし、お互いつらい過去を背負った目が見えなくなりつつある男と失語症の女のモノローグが交互に並べられた本作が、はたしてハン・ガンのいう“愛の物語”と呼べるのかはなはだ疑問なのである。五感を伴わない状況の中で“愛”を無理やり生み出そうと試みた小説というよりは、ヨーロッパ人でさえお手上げの古代ギリシャ語という喪われた言語を学ぶ教室で、過去に2人が経験した“喪失”が無意識のうちに響き合った、私はそんな読後感を味わったのである。

視力を失いつつある男のモデルは、(翻訳者が後書きでふれているとおり)ギリシャ語講師が小節冒頭で語っているアルゼンチン人文豪“ホルヘ・ルイス・ボルヘス”とみて間違いないだろう。晩年視力を失ったボルヘスが、彼の教え子であった日系アルゼンチン人女性と結婚しその2ヶ月後に亡くなった史実を知る者は、思わずニヤリとさせられるストーリーになっている。ならばお相手のコリアン女性はというと、本小説を執筆中に実際スランプに陥ったと語っていたハン・ガンご本人の分身ではなかったか。

ボルヘスお得意の“伝奇”もののごとく、彼の熱狂的ファンである作家本人が、ボルヘスと非常に似通った経歴のギリシャ語講師と出会い、結ばれる直前?までを(妄想の中で)描こうとしたのではあるまいか。息子の親権争いに裁判で負けて以来失語症に陥った女には、次の文言がなかなか思い浮かばず執筆に行き詰まっていたハン・ガンの心境がそのまま写し込まれている、そんな気がしたのである。

2人の中に生まれた“愛=再生”をあへてハン・ガンが描かなかった理由は、(実際ボルヘスと再婚した女性と)同じアジア人としての謙遜がそうさせたのかもしれない。いずれにしても、ボルヘスが『永遠の歴史』の中でふれていた“ギリシャ哲学”への考察を経て、ハン・ガンは作家として次のステップへと駒をすすめるためのかすかな光明(たとえ洞窟の中で見た幻だったとしても)を見い出したのだろう。(ボルヘスが『7つの物語』の第4夜仏教で記した)消滅=涅槃(=喪失)の中にも“イデア”が存在するという確信を、ハン・ガンが得たからに相違ない。

ギリシャ語の時間
著者 ハン・ガン(晶文社)
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