ランティモス曰く、元々1本の映画だったシナリオをわざわざ3分割してオムニバス形式にした作品だそうだ。不条理ブラックコメディというのは見ていてなんとなく伝わってくるのだが、その不条理な中にも一応の筋を持たせるのが映画監督の腕の見せ所であって、RMFと名付けられたサブキャラ以外、ほとんど共通項のないストーリーをわざわざ3つ並べた意味がよくわからない。高市と石破の一騎討ちに、門外漢の小泉Jr.が途中で割り込んでくるような違和感をどうしてもおぼえてしまう作品なのだ。
その元凶となっている、一章と三章の間に挟まれた二章が作品のもつ独特の雰囲気を壊してしまっているのである。その余計な二章さえなければ164分の長尺も100分ちょっとの尺で程よくおさまっただろうし、なぜか私生活の細かい部分まで指示を与えてくるグルの存在、そのグルが見知らぬ男を殺すよう指示した理由や荒っぽい運転がキーワードとなる伏線についても、(配役チェンジはあるものの)一章と三章の間ではちゃんと回収が成立しているのである。何よりも、もしその余計な第二章さえなければ、前半後半でどんでん返しを観客に喰らわす構成があの出世作『ロブスター』に激似なのだ。
大方、エマ・ストーンのファ◯ク・シーンを、興行のために是が非でも望んだ出資者に、むりやり突っ込まされた?“第二章”だったのではないだろうか。あんな感傷的なラスト・シーンなど、監督ヨルゴス・ランティモスと脚本家エフティミス・フィリップの名コンビにはまったく似つかわしくない。コーエン兄弟の後を継げるのはこのギリシャ人コンビ以外に考えられない私にとっては、おそらくあったにちがいない出資者からの横槍には、許しがたい怒りを覚えるのである。第三章の(『籠の中の少女』を彷彿とさせる)エマによるへんてこりんダンスだけで我慢しておけばよかったのである。
エマ・ストーンが演じるキャラクターは、(聖水?以外に)不純物を体内に入れたくないわけで、自ら他の男たちとのSEXを望むというのは、物語上どうしたって矛盾が生じてしまうのだ。そこでランティモスが捻り出した裏技が、3話オムニバス&一人三役というアクロバットだったのではないだろうか。結果、(不条理ながらも)筋が一応通っていたストーリーを見事に破壊してしまったに違いない。
ところでみなさんは、エンドロールの途中でわざわざ登場させてきたあの影がウッス~い髭づらはげおやじが着ていたYシャツロゴ“RMF”がやけに気になったりしませんでしたか?もしかしたら、第1章で死んだ後、第3章で復活する髭面の地味なオッサンは、救世主キリストのアレゴリーではないだうか。“RMF”とはつまり“RETRO”、“MODERN”、“FUTURE”のイニシャルだったのではないだろうか。
破綻しかけた物語の救世主たるRMFオジサンを狂言回しにして、むりやり繋げた本作のシナリオの元ネタは、おそらく男(アダム)と女(イブ)の創世記。第1章はアダムを真似て作られたイブの誕生、第2章はチョコレート(知恵の実)を食べ羞恥心を身につけたアダムとイブを、第3章は生命の実(双子の姉)を手にいれ損なったイブの楽園追放という具合に。某在日評論家によると、ランティモスが“(キリスト教の)三連祭壇画”モチーフの作品だと語ったのだとか。いずれにしても失敗作スレスレの映画であることに変わりはないだろう。
憐れみの3章
監督 ヨルゴス・ランティモス(2024年)
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