ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

処女の泉

2024年10月03日 | 誰も逆らえない巨匠篇


『第七の封印』のマックス・フォン・シドーは、抑制の効いた演技に終始していたが、本作では、愛する娘カリンをレイプされた挙げ句惨殺された農場領主テーレを演じており、(媚中勢力に総裁選でしてやられた高市早苗のごとく?!)怒り💢を爆発させている。娘の実家とも知らずに、図々しく一宿一飯を求めにやって来た間抜けなレイプ3兄弟。なにも知らない領主テーレが「うちの農場で働かないか」なんてノーテンキなオファーまでだしたりするものだから、見ているこちらはヤキモキさせられっぱなし。

が、レイプ犯の一人が死んだ娘から剥ぎ取った血のついたワンピースを、母親に売ろうと欲をかいたからさあ大変、悪事がすべてバレてしまうのである。それに気がついたテーレ、カリンがレイプされる様子を木陰で目撃していた下女インゲリ(グンネル・リンドブロム)を問い正し、全てを白状させ確証をとるのである。復讐の前に自宅サウナで身を清めるその裸身がなんとも神々しく、身長193cmのシドーがまるでオリンポス神に見えてくるから不思議である。その姿は、仕事前に必ず娼婦をホテルの部屋に呼ぶゴルゴ13を彷彿とさせるほどエロいのだ。

この映画のテーマは“神の沈黙”だなんて知ったかぶりで語る人が多いけれど、映像から伝わってくるのは、愛する娘を目茶苦茶にされ怒り心頭に発した父親の姿であり、その一部始終を静かに見守っている母親の前で繰り広げられる、父が下した静かなる鉄槌シーンが見処となっている気がする。実際には娘に手出していない末っ子の少年まで壁に投げつけ殺してしまった時、テーレははたと我に返る。自らの罪が許されるのかを神に確認するため、娘が殺された場所へと下女に案内させるのだ。

「両親のあなた方に可愛いがられていたカリンが羨ましくてしょうがなかった」と下女インゲリが告白すると、道中妻のマルタは「あなたが可愛がる娘に嫉妬していた」と、精神的罪悪感を口にするのである。「(怒りにかられた)私の悪行を目撃しながら、神よ、あなたはなぜ黙っておられたのですか」と天を見上げる領主。林の中に放置されたカリンの亡骸を抱き上げたその時、砂地から泉がこんこんとわきだすのである。下女インゲリはその泉の水で顔を洗い、神に赦されたような微笑みを浮かべるのだ。

なぜ天使のような娘カリンが殺されなければならなかったのか。左翼の方が重きをおきたがる、公開当時の社会的弱者(女子、孤児、妊婦、唖者、子供)へのゆきすぎた慈悲が招いた悲劇とはいえないだろうか。両親が甘やかしたせいで結局娘の警戒心がおろそかになり、あのような隙をゴロツキどもに与えてしまったのだから。移民問題で頭を抱えている世界各国の左翼政権における弱点を、モロについている映画ともいえるだろう。そのゴロツキどもに選挙権を与えて金であやつりさえすれば、多数決という民主主義の根幹原理でさえ覆すことができる、少数派に過ぎない我々資本家は永久に守られるのだ、と。

嫉妬心に苛まれていた女たち、そして怒りにまかせて無実の少年にまで手にかけてしまったテーレを、おそらく神はお赦しになったのかもしれない。しかし、この映画で描かれている泉が、ハリケーンとなり家屋を押し流すほどの豪雨を降らせた時、それでも人間は、いな中国人やアメリカ人は神の赦しを得たと勘違いできるのだろうか。本作のゴロツキ3人組のような、歴史上故あって蔑まされ続けてきた人々が権力を握り維持させようと無法を働き出した時、それを素直にお赦しになるほど神は鷹揚ではないと思うのである。オバマ政権以降急激に左に傾きすぎたアメリカのポリティカル・バランスが、現在本来のニュートラルなポジションに戻ろうと必至にあがいている。私にはそう見えるのであるが....

処女の泉
監督 インゲマール・ベルイマン(1960年)
オススメ度[]

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