先日『法隆寺』に訪れた時に見た、
美術工芸品の凄さには感嘆しました。
様々な興味深い物が沢山あった中で、
今日は特にTAZUKO多鶴子が興味深かった
『玉虫厨子』に関連した内容を書き込みます。
皆様は密陀絵をご存知でしょうか?
これは油絵の一種とも呼ばれており、狩野派の秘伝だったともいわれています。
『玉虫厨子』は、この密陀絵と漆絵で絵が描かれており、
これは古墳などの壁画を省けば日本最古の絵画であり、
日本最古の油絵ともいわれているそうです。
油絵は洋画とされているのが現代の常識ですが…
はたしてどうなのでしょうか…?
以前のブログでもご紹介したように、
日本画と洋画…この名称も明治からの呼び名で近年の呼び方なのですね。
TAZUKO多鶴子はこの呼び方にも常に疑問が…。
近年益々、残念ながら
学校教育も美術の授業だけでなく、
美術史は殆ど必要ないものになってしまいました。
ですが…美術史には過去の出来事だけで無く、
自然や生き方や未来や…人類の大切なものがとても沢山詰め込めれています。
又、その方向とは逆に
絵画カルチャー事業は盛んになった時代。
しかし、最も大切な事を忘れてしまっていると痛感し苦悩する昨今。
子供達の未来を少しでも明るくする為には、
作家としてどのように動けばよいのでしょうか…。
『玉虫厨子』
7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。
<絵画>
610年に渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)によって、紙・墨・絵の製法が伝えられた。
法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)の扉と台座に描かれた漆絵は、古墳などの壁画を省けば日本最古の絵画である。
<曇徴>
曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、7世紀に高句麗から渡来した僧。
…『日本書紀』巻二十二 推古紀
「日本書紀」によれば、610年(推古天皇18年)高句麗王から貢上されて僧法定(ほうじょう)とともに日本へ来朝した。五経に詳しく、彩色(現在の絵具)や紙墨を作り、また碾磑(みずうす=水力を利用した臼。紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕くために用いたと考えられている。)も造ったという。 「聖徳太子伝暦」によれば、聖徳太子は曇徴を斑鳩宮に招いて、その後法隆寺に止住させたとされる。
密陀絵【みつだえ】
顔料を桐油や荏油でといて文様を描く技法で油絵の一種である。密陀僧を乾燥剤として混ぜる事から密陀絵と呼ばれ琉球漆器に多く用いられる。色漆では発色しにくい白色や淡い中間色も含め色彩豊かに表現できる。
『密陀僧』…鉛を空気中で酸化して得られる黄色粉末。密陀僧はペルシャ語の「mildassa」が 訛って伝えられたものと考えられる。黄色の顔料や亜麻仁油等の酸化重合油に硬化促進剤 として混ぜられたこともある。シッカチフと言って油彩画の乾燥剤として売られていた。しかし毒性が強いためとヒビの原因になるので現在では使われる事は珍しくなった。
桐油や荏油で顔料を溶き文様を描く技法を蜜陀絵(みつだえ)というのは、油の乾燥剤として密陀僧(一酸化鉛)を混ぜたことからきている。
<玉虫厨子-たまむしのずし-にも使われた中国渡来の日本最古の油絵技術で、紫外線に強く耐水性にも優れている。創建当時、すでに狩野派の秘伝に属していたらしいが、明治以降はまったくこれを復元できずにいた。>
漆絵【うるしえ】
透漆に種々の顔料を混ぜ合わせた色漆(彩漆)を使用し漆面に文様を描く技法。漆の加飾法の中では最も古くからみられる技法のひとつである。近世まで漆絵の色種は5種に限られる為、密陀絵と併用される場合がある。
『油絵の起源…西洋の視点から』
ヨーロッパの絵画といえば、色のついたガラスや大理石などを使うモザイク画。油絵の起源はよくわかっておらず、15世紀になってヤン・ファン・エイクがクルミ油などで顔料を練り合わせて使い、本格的に始まったとされる。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等
美術工芸品の凄さには感嘆しました。
様々な興味深い物が沢山あった中で、
今日は特にTAZUKO多鶴子が興味深かった
『玉虫厨子』に関連した内容を書き込みます。
皆様は密陀絵をご存知でしょうか?
これは油絵の一種とも呼ばれており、狩野派の秘伝だったともいわれています。
『玉虫厨子』は、この密陀絵と漆絵で絵が描かれており、
これは古墳などの壁画を省けば日本最古の絵画であり、
日本最古の油絵ともいわれているそうです。
油絵は洋画とされているのが現代の常識ですが…
はたしてどうなのでしょうか…?
以前のブログでもご紹介したように、
日本画と洋画…この名称も明治からの呼び名で近年の呼び方なのですね。
TAZUKO多鶴子はこの呼び方にも常に疑問が…。
近年益々、残念ながら
学校教育も美術の授業だけでなく、
美術史は殆ど必要ないものになってしまいました。
ですが…美術史には過去の出来事だけで無く、
自然や生き方や未来や…人類の大切なものがとても沢山詰め込めれています。
又、その方向とは逆に
絵画カルチャー事業は盛んになった時代。
しかし、最も大切な事を忘れてしまっていると痛感し苦悩する昨今。
子供達の未来を少しでも明るくする為には、
作家としてどのように動けばよいのでしょうか…。
『玉虫厨子』
7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。
<絵画>
610年に渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)によって、紙・墨・絵の製法が伝えられた。
法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)の扉と台座に描かれた漆絵は、古墳などの壁画を省けば日本最古の絵画である。
<曇徴>
曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、7世紀に高句麗から渡来した僧。
…『日本書紀』巻二十二 推古紀
「日本書紀」によれば、610年(推古天皇18年)高句麗王から貢上されて僧法定(ほうじょう)とともに日本へ来朝した。五経に詳しく、彩色(現在の絵具)や紙墨を作り、また碾磑(みずうす=水力を利用した臼。紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕くために用いたと考えられている。)も造ったという。 「聖徳太子伝暦」によれば、聖徳太子は曇徴を斑鳩宮に招いて、その後法隆寺に止住させたとされる。
密陀絵【みつだえ】
顔料を桐油や荏油でといて文様を描く技法で油絵の一種である。密陀僧を乾燥剤として混ぜる事から密陀絵と呼ばれ琉球漆器に多く用いられる。色漆では発色しにくい白色や淡い中間色も含め色彩豊かに表現できる。
『密陀僧』…鉛を空気中で酸化して得られる黄色粉末。密陀僧はペルシャ語の「mildassa」が 訛って伝えられたものと考えられる。黄色の顔料や亜麻仁油等の酸化重合油に硬化促進剤 として混ぜられたこともある。シッカチフと言って油彩画の乾燥剤として売られていた。しかし毒性が強いためとヒビの原因になるので現在では使われる事は珍しくなった。
桐油や荏油で顔料を溶き文様を描く技法を蜜陀絵(みつだえ)というのは、油の乾燥剤として密陀僧(一酸化鉛)を混ぜたことからきている。
<玉虫厨子-たまむしのずし-にも使われた中国渡来の日本最古の油絵技術で、紫外線に強く耐水性にも優れている。創建当時、すでに狩野派の秘伝に属していたらしいが、明治以降はまったくこれを復元できずにいた。>
漆絵【うるしえ】
透漆に種々の顔料を混ぜ合わせた色漆(彩漆)を使用し漆面に文様を描く技法。漆の加飾法の中では最も古くからみられる技法のひとつである。近世まで漆絵の色種は5種に限られる為、密陀絵と併用される場合がある。
『油絵の起源…西洋の視点から』
ヨーロッパの絵画といえば、色のついたガラスや大理石などを使うモザイク画。油絵の起源はよくわかっておらず、15世紀になってヤン・ファン・エイクがクルミ油などで顔料を練り合わせて使い、本格的に始まったとされる。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等