TAZUKO多鶴子

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TAZUKO多鶴子が求めているものは…

2008-01-31 | TAZUKO多鶴子からの伝言
近年一般では絵画を語られる時
『芸術』『伝統』『文化』『大衆文化』『ハイカルチャー』『メインカルチャー』『サブカルチャー』等
様々な言語が飛び交う。
TAZUKO多鶴子が求めているものはいったい何だろうか…?
常に自問自答している昨今である。
TAZUKO多鶴子は多くの体験や苦悩や
様々なものを学ぶチャンスがある度に
その答えが鮮明に見え隠れし始めている。
私は日本の『伝統』は大好きである。しかし…単純な意味で考えると…それでは無い。
『ハイカルチャー』であるようで…無ければ、勿論現代に於ける『メインカルチャー』でも無い。
『文化』にはなるのであろうが…『芸術』にもなるのであろうが…『本質の哲学』…
『本質の芸術』というべきか…いや…
…それに留まらない…何かを求めているのではないか…と思う。
その為
一般的な会話のとき常に言葉に詰まることがある。
一般的にはその詳細を十分理解せず使っている事…
分かっているようで本当は分かってないそんな現実が私を困らせる。
そういった事が益々、近年の混乱と文化の低迷を招いているのでは無いかと私は確信する。
今日はその視点で、様々出回っている言語を整理する為その一部を簡単に抜粋してみた。
(それそれの詳細は更に深い所があるとは思うのだが…。)
下記を是非ご覧下さい。

<芸術(げいじゅつ、ギリシア語 η τεχνη techn?、ラテン語 ars、英語 art)>
表現者あるいは表現物と、鑑賞者とが相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。美術、文芸、音楽、演劇など。
とりわけ表現者側の活動として捉えられる側面が強く、その場合、表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。表現者が鑑賞者に伝えようとする内容は、信念、思想、感覚、感情、など様々である。

日本語「藝術」という言葉は元来、明治時代に西周 (啓蒙家)によってリベラル・アートの訳語として造語されたものである。
原義は、「人を自由にする学問」のことであり、それを学ぶことで非奴隷たる自由人としての教養が身につくものである。

<リベラル・アーツ (liberal arts)あるいは 自由七科(Seven Liberal Arts)> 自由七科と哲学
今日では学士課程における人文学、社会科学、自然科学を包括する専門分野(disciplines)のことを意味する。欧米においては神学、法学や医学などの専門職大学院に進学するための予備教育としての性格も帯びている。

<伝統(でんとう tradition)>
人間の行動、発言、思考及び慣習に見出される歴史的存在感を総称していう。
歴史的存在感としての伝統の根拠とは
* 具体的慣習
* 法秩序
であり、それらの主体は
* 組織
* 地域
* 家族
* 国家
* 神
である。
それらいずれが主体であるかによって伝統の内実も違ったものとなる

<文化(ぶんか)>
* 人間が長年にわたって形成してきた慣習や振舞いの体系。本稿で以下に記す。
* いわゆるハイカルチャー(文学、美術など)を指すことも多い。例えば「日本文化史」と称する本の多くは、源氏物語や和歌、仏教美術など上位の階層が担った文化の記述が大半を占めているはずである。
   * (上記の意味から派生)日本において主に大正時代に生まれた(あるいは輸入された)商品によく冠された言葉。文化包丁、文化住宅、文化鍋など

<ハイカルチャー(High culture)>
学問、文学、美術、音楽など人類が生んだ文化のうち、高い達成度を示していると考えられたもの。上位文化などと訳されることもある。または「文化」という言葉がもっぱらハイカルチャーを指すことがある。大衆文化、サブカルチャーなどに対比される言葉。
ハイカルチャーは(主に19世紀までの間にヨーロッパを中心に形成された)貴族やブルジョワ階級のものであり、知識・教養を持つ少数の者が享受する文化であった。しかし20世紀の大衆文化の時代になると、少数者がハイカルチャーを独占するものではなくなり、古典絵画やクラシック音楽も一般に鑑賞されるようになった。

<メインカルチャー (mainculture)>
サブカルチャーと対比して用いられる語で、ある社会で支配的な文化のこと。
文学、美術、演劇、音楽など社会の(主流をなす)構成員が健全な文化として受容するものである。伝統的には大学で学問対象として研究されたり、新聞、雑誌などで論評の対象になるものであった。20世紀になって大衆文化が発達し、次第に映画、テレビ番組、ポピュラー音楽、漫画なども文化として認められるようになった(メインカルチャー化)。』

<大衆文化(たいしゅうぶんか)>
ハイカルチャー(文学、美術など)に対して、一般大衆が広く愛好する文化のことである。英語のmass cultureに相当する。一方、マニアックな分野を指す言葉としてサブカルチャーという言葉があり、こちらは大衆文化とハイカルチャー双方に跨ってマイナーな領域を示している。 ただしこれらの概念も時代的な変遷があり、厳密な定義は困難である(サブカルチャーの項目を参照)。
かつて、ハイカルチャーを鑑賞するには一定の教養が必要であり、もっぱら貴族やブルジョワ、知識人層が享受するものであった。これに対して大衆の好む娯楽などは一段と低く、俗なものとされてきた。例えばクラシック音楽を鑑賞するにはソナタ形式など音楽についての知識・教養が必要であるが、大衆の好む音楽は鑑賞するための知識は必要なく、感覚的に楽しめるものである。
20世紀になって大衆が実力を持つ大衆社会を迎えると、大衆文化の位置づけも変化せざるを得なくなった。大衆社会においては、高等教育を受けた人々も増加し、ハイカルチャーも広く一般に楽しまれるようになった。マスメディアの発達や複製技術による大量生産がこうした傾向を一層推し進めた。例えば、絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書・ポスターなどで見られるし、音楽もコンサートに行かなくともレコード・CD・テレビ・ラジオなどで気軽に楽しむことができるようになった。いわばハイカルチャーの大衆文化化である。
一方、かつて大衆の娯楽であった映画やジャズなどの中にも芸術作品と評価されるものが生まれるようになった。そして、第二次世界大戦後は知識人が大衆文化そのものの意義を積極的に評価する動きも見られた(鶴見俊輔の論考が古典である)。ハイカルチャーと大衆文化の境界も時代により変化している。

<サブカルチャー(subculture)>
文脈によって次の3つの用法がある。
1 社会の支配的な文化から逸脱した文化事象を指す。ハイカルチャーと大衆文化の両方を横断し、言語、宗教、価値観、振る舞い、服装などを含む。社会学、特にカルチュラル・スタディーズで用いられる。⇔メインカルチャー
2 絵画や純文学、クラシック音楽などのハイカルチャーに対し、娯楽を主目的とするマイナーな趣味的文化を指す。サブカルと略されることもある。⇔ハイカルチャー
3 漫画、アニメ、コンピュータゲーム、特撮作品、フィギュアといったおたく文化を指す。
1.が本義で、後に日本において2.と3.の意味に用いられるようになった。いずれの場合も「既成文化に対する二次的な側面」という含みがある。「下位文化」と訳されることもある。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

広島からのご注文のパステル画が完成しましたよ(^-^)v

2008-01-30 | パステル画
ブログのパステル画の作品が今日明け方完成しました~(^ ^)
この女性の注文者は
紀伊國屋書店広島店の個展イベントで出会った本当に純粋で素敵な女性!
山下千絵美様です。
昨年開催した倉敷のTAZUKO多鶴子個展会場にも
彼女は遠い広島からわざわざいらして下さったのですよ。
実はこの作品、その個展会場でご注文頂いたパステル画なのです。
ご注文下さり…温かい心を下さり…心から感謝!感謝です!!
このパステル画を描きながら思いました。
とても優しく純粋な目を持っている美しい心…透明な空気…だからこそ…
純粋なだけに苦しさも多かったでしょう。
でも…それを乗り越え!
強く!キラキラと輝くように希望に向かって!
優しく生きている姿を観じ…感動の中で描きました。
『美しい人』とは…このことをいうのだと…そう…感じました。

山下様!ご注文ありがとうございました。
心を、感動を、ありがとうございました。
そして、いつまでも応援しております。
頑張って下さいね(^ ^)

※山下千恵美様のパステル画を『TAZUKO多鶴子ネット画廊』
 『パステル画・コンテ画オーダー』にも公開させて頂きました。
 皆様のご訪問をお待ちしております。

『弥勒菩薩半跏思惟像』とアルカイックスマイル

2008-01-29 | TAZUKO多鶴子からの伝言
国宝第1号!
大変美しい仏像の一つにあげられる『弥勒菩薩半跏思惟像』。
アルカイックスマイルとしても有名である。
ただ古代ギリシアのアルカイックスマイルとは
関連性が無いとはされてはいるのだが…どうなのだろうか?
また、この弥勒菩薩像は朝鮮半島の渡来像なのか
日本で制作されたものなのかが未だに判明されていない。
TAZUKO多鶴子はこの点に於いても現在観じて考えている事がある。
ブログでは私の真意はお伝え出来ませんが…。
今日はそれに関連した内容をご紹介します。
下記をご覧下さい。



<弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう) >
大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、国内には飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。
中でも有名な京都府京都市太秦の広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。像は赤松で作られる点が飛鳥時代の作例としては例外的であるため、日本書紀記載の推古31年新羅から伝来したものとする説もある。制作時は漆で金箔を貼り付けた漆箔像であった。弥勒菩薩の微笑みは「アルカイックスマイル」として知られている。
像高123.3cm(足元からの高さ、台座からは約147cm)
本像についてしばしば「国宝第1号」ということが喧伝されるが、それは文部大臣から交付された国宝指定書の番号が「彫刻第1号」になっているに過ぎず、本像と同じく1951年6月9日付けで国宝に指定された物件は他にも多数ある。
<木造弥勒菩薩半跏像>
広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つと思われる。ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を激賞したことはよく知られている。
像高は約123センチ、アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。制作時期は7世紀とされる。
この像は韓国ソウルの国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像と全体の様式がよく似ている。同時期の朝鮮の木造仏で同型のものは残っていないが、広隆寺像も元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかで、制作当初は金銅仏に近い外観であったことが推定される。
制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説と、日本で制作されたとする説があり、今なお決着を見ていない。
第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)の背板にクスノキ材が使用され、さらに背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明した。(明治時代に、この像は、破損した状態で発見され、このとき楠材を用いて欠損部分が補われている。)また、アカマツが日本でも自生することから日本で制作されたとする説がある。
朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

<アルカイク・スマイル (archaic smile)>
古代ギリシアのアルカイク彫刻 の口もとに見られる微笑に似た表情をいう。アーケイック・スマイル、アルカイックスマイル、古式微笑などともいう。初期の彫刻ではあまり目立たないが、紀元前6世紀中頃から後半にかけての青年像(クーロス)や少女像(コレー)などで特に明瞭となり、ギリシャ美術の厳格様式に移行する紀元前5世紀初め頃からしだいに消えていった。
アルカイク・スマイルの意味については「ギリシャ人の生に対する素朴な喜びの反映」「神の人間に対する好意の表現」「未熟な彫刻家の偶然に生み出した表情が定型化したもの」「微笑のもつ呪術的力に対する古代人の信仰の表れ」といったさまざまな解釈がなされている。いずれにせよ、この表情が上機嫌、陽気、愉快などの心理状態を表す、一般の〈微笑〉でないことは明らかである。おそらく、古代の彫刻家は彫像をただ生命なき冷たい人形のままとどめておくことに飽きたらず、その中に魂を宿し、人間と同じ生命と感情をもった存在たらしめようと考えたと思われる。そしてそれを最もよく表現できる方法として彼らが到達したのが、口端を上方に反らせるこの微笑に似た表情であったと思われる。ギリシャの影響の強いエトルリアでも、紀元前6世紀のウェイイのアポロンや陶棺像などの大型テラコッタ像に、この表情がいっそう誇張された形で表れている。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『寺』と『神社』

2008-01-28 | TAZUKO多鶴子からの伝言
寺の中に神社が祀られている日本。
そんな日本をTAZUKO多鶴子は凄いと思います。
今日は神話と仏教伝来について書き込みしたいと思います。
先ずは、夏目漱石も絶賛し小説にも書かれた
青木繁の傑作『わだつみのいろこの宮』の神話からご紹介します。


<わだつみのいろこの宮>
海神〔わだつみ〕の「魚鱗〔いろこ〕の如く造れる」宮殿のこと。
海神の娘トヨタマヒメ(豊玉毘売)(画面左)とその侍女に出会った場面が描かれている。

山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、日本神話の一挿話。
俗に「海幸山幸(うみさちやまさち)」とも呼ばれる。
彦火火出見尊(山幸彦)が、兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。

<比較神話>
日本神話の中には、他の神話との関連性を指摘されている物が多く存在する。
* ギリシャ神話に於けるオルフェウスの黄泉の国行きと伊弉諾尊の黄泉の国行き、
   デメテルと天照大神が隠れると草花が枯れるなど多くの類似点が見られると言われ
   ている(→死と再生の神)。
* アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は何れも太陽神の使い、元は白い、
   星図によっては
   烏座が三本足のものもあるなど類似性を指摘されている。
  (三本足のカラスについては、一説には太陽黒点の図形が起源ともいわれている。)
* アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征と類似しているという説もある。
* イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は
   南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
* イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが「最初の死人」が
  「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどに
   見られる。
* イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を
   洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツキヨミ(月)が誕生したという話の
   類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、
   右目が月に化生したとされる話が見られる。
* 因幡の白兎が、海を渡るのにサメを騙して利用する話があるが、動物が違えど似た
   内容の昔話が南方の島にある。


<仏教伝来>
飛鳥時代
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病がはやると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝を広める事を誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。
天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


『法隆寺』と『鞍作止利』

2008-01-27 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『アレキサンダー大王』の帝国に開花したヘレニズム文化は
日本の『法隆寺』までその痕跡が認められる事は
あまりにも有名であり、先日のブログでも書き込みしました。
今日はその世界最古の木造建築『法隆寺』と
『法隆寺』の本尊像の作者
日本彫刻史初頭名作の作者ともいわれる『鞍作止利』(鞍作鳥、止利仏師)についてご紹介致します。
今日もフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の内容を一部抜粋致しますので下記をご覧下さい。


<法隆寺>
法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳宗の総本山。別名:斑鳩寺(いかるがでら)。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。式の微笑(アルカイックスマイル)などに止利および止利式の仏像の特色がある。


<鞍作止利>
鞍作止利(くらつくりのとり)は、飛鳥時代に活躍した帰化人系の仏師。
鞍作鳥、止利仏師とも。
法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年)が代表作。
止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。
銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)‐飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。鞍作鳥は「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と同一人物とみるのが一般的理解である。
安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)も止利作とされているが、後世の補修が甚だしく、当初の部分は頭部の上半分、左耳、左手の指の一部のみとされている。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』