よく聞け、
金を残して死ぬ者は下だ。
仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。
よく覚えておけ
…… 後藤 新平 ……
TAZUKO多鶴子の伯母は子孫にお金を通して、
染み通る人の心を…人を残してくれました。
泣き言を何一つ言わなかった
見事な『生き様』と『死に様』を残してくれました。
この言葉をみて思い出しました。
<後藤 新平>
安政4年6月4日(1857年7月24日~昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。
伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、『都市計画家』である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。
参考資料:ウィキペディア
今日は忙しい中、時間を作って展覧会に行きました。
行った展覧会は自由美術展。
知り合いの作家から心あるメッセージと共に招待状を頂いたので
どうしても今回は行かなければならないと思って頑張って時間を作りました。
懐かしい独特な空気と雰囲気。
懐かしい作家達の作品群。
あれもこれも知っている作家たちばかりで
作品と同時に顔が何人も浮かびました。
皆さん元気で頑張られていらっしゃる様子が伺え嬉しくなりました。
今はもう既に道は違いますが
あの方々から頂いた多くの教えや学びは忘れません。
あの頃培ったものを無駄にせず
あの頃の作品は過去のものとして
前を向き
しっかりと作家として頑張ろうと
改めて自分に言い聞かせました。
現在、新たな作品と格闘しています。
時間は相変わらず無いですが
泣き言を言わず
頑張ります!
野口雨情による作とも伝えられる『通りゃんせ』は、
江戸時代に成立したと見られるわらべうただと云われています。
最近、何故だがこの歌を時々思い出します。
物悲し曲…寂しい音色と考え深い歌詞…言霊。
昔から伝わるわらべ歌には同じような
不思議な雰囲気のものが多いように思います。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 境越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
この見事な詩は
実は
誰もが知っている『いろは歌』なのですね。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
その『いろは歌』にも色々と云われがあるようです。
ちょっと調べてみましたので
ご興味のある方は下記をご覧下さいね。
しかし、
昔のわらべ歌は現代と違ってとても深いのには驚かされます。
これが、日本の文化や芸術にも通じるのでしょうね!
今、世界に誇る日本の文化や芸術。
それが培われたのは過去の日本…大切に温めたいとTAZUKO多鶴子は痛感します。
<いろは歌>
全ての仮名の音を使って作られている歌で、手習い歌の一つ。七五調四句の今様(いまよう)形式になっている。手習い歌として最も著名なものであり、近代に至るまで長く使われた。そのため、全ての仮名を使って作る歌の総称として使われる場合もある。また、そのかなの配列順は「いろは順」として中世~近世の辞書類等に広く利用された。
表面的に読む限り、無常観を歌った歌と読むこともでき、多くの人々がそういう歌なのだと受け止めてきた。
主として仏教の知識を持つ者は仏教的な内容の歌だと解釈した。例えば、12世紀の高僧、新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん)は『密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)』の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は世に無常偈(むじょうげ)として知られる『涅槃経』の偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意であると説明した。
ただし、暗号が埋め込まれている可能性が指摘されるにつれ、表面上の文意にも異なった意味が込められている可能性や、暗号とからめて二重三重の意味なども指摘されるようになってきている(ただし主に一般書でのものが多い)。
参考資料:ウィキペディア
『祇園祭・宵山』に先日行って来た時に厄除ちまきを買って来ました。
京都では玄関の上にこの厄除ちまきを祀っている家が多々見られます。
今回はこの厄除ちまきを初めて買ってきました。
ちまき(粽)といえば食べる粽を他県の方々は思い浮かべると思いますが
これは勿論食べる粽(ちまき)ではなく、玄関先に飾る厄除け祈願の粽です。
厄除粽のおこりは何なのでしょうか?
少し調べてみました。
八坂神社(祇園祭は八坂神社のお祭)の祭神スサノヲノミコトが旅の途中一夜の宿を請うと、
裕福な兄の巨旦将来は断りましたが、貧しい弟の蘇民将来はあつくもてなしました。
この返礼として、スサノヲノミコトは蘇民将来の子孫には疫病を免れさせると約束し、
目印に茅の輪を腰につけさせた、という故事が、厄除ちまきのおこりとされているそうです。
京都では様々な歴史や文化の発見があります。
「京都に来てから絵が描けるようになった…と云って画家たちが京都に集まってくるそうです」
先日、京都にお住まいの方からこのようなことを聞きました。
確かにそうでしょうね!
TAZUKO多鶴子は祇園祭からも刺激を貰いました。
やはり
京都は凄いです!