これに関連して、この完璧に近い歌にはさらに隠された意味があるという説もあり、そうであれば、この歌はいよいよただならぬものとなる。
七文字目を読みつなぐと別の意味が込められているという七折句という和歌の技法で「いろは歌」をみると、七字目に「とかなくてしす(咎なくて死す)」という不気味な言葉が浮かび上がってくる。
いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねな らむういのおく やまけふこえて あさきゆめみし
えひもせす
そんな暗号文字が意図的に隠されているとするなら「いろは歌」が作られたらしい平安期において無実の悲運に泣いた大学者や名歌人の作だと考えることもできる。
例えば菅原道真とか柿本人麻呂とか、あるいは万葉集などに出てくる悲劇的な最後をとげた才能ある皇子や皇族または朝臣の誰か。
また、「罪なくて死す」とはキリストにもいえる。
「いろは歌」をキリスト教と関係付けて説くなど荒唐無稽と思われるが、遣唐使が訪れた唐の都長安では儒教、仏教、道教だけでなくキリスト教の一派である「景教」(ネストリウス教)も盛んだったという史実があり、遣唐使一行も接触しているから、あながち笑い捨てるわけにはいかないかもしれない。
キリスト教の聖典「旧約聖書」にも「いろは歌」に似た言葉がある。
「肉なるものは皆 草にひとしい 永らえても すべては野の花のようなもの 草は枯れ 花はしぼむ (イザヤ書四〇章六、七説)」
なお、これは遥か後世に属し「作」とは関係ないが人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」のいろは四七士も「とがなくてしす」であり、なにか因縁めいている。
七文字目を読み込む「折句」を強牽付会だとすることはできない。
言葉遊びとして古くから「沓(くつ)冠(かんむり)」という更に複雑な暗号まがいの技法も存在していたのである。
「沓(くつ)冠(かんむり)歌」とは、句の上と下にそれぞれ特別の字を入れ暗号まがいに作るという手の込んだ和歌の技巧である。
よく知られている歌に「徒然草」の作家吉田兼好がある。
「夜も涼し 寝覚めのかりほ 手枕も まそでも秋に へだてなき風」
よもすずし ねざめのかりほ たまくらも
まそでもあきに へだてなきかぜ
各句の上の文字冠は 「米(よね)賜(たま)え」、下の文字沓は後ろから読んで「銭(ぜに)もほし」となる。
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