江戸時代末期の琉球王国は、薩摩藩からの支配と清の冊封体制に入り、二つの支配者との等距離外交を続けていた。その外交は綱渡り、時代は日本の開国に向かい、清はアヘン戦争から国力が急低下していた。その時代に、琉球では中国で古くから行われてきた科挙に範を得た科試制度を導入、国内エリートを選抜して、評定所筆者という事務方トップを育成していた。
その試験にトップ合格したのは、喜舍場朝薫、もうひとりが孫寧温、二人とも史上最年少合格だった。試験は男子のみが受験資格があったが、寧温の本当の姿は女性の真鶴、宦官だと偽っての合格だった。二人は見る間に頭角を現し、古い体制で保守化していた王府の事務に新風を吹き込んだ。特に寧温は事務方のトップに出世、アヘンの密輸に絡んだ王府内の汚職を暴き王から評価されるが、同僚からの妬みも多かった。
清から派遣されてきた外交官が、寧温の秘密を暴く。寧温は外交官と争い、殺害してしまったため、罪に問われ石垣島への流罪を言い渡された。石垣島でも寧温は目立ってしまい、拷問の末、マラリアに罹患、死んでしまったと噂される。それを救ったのは島のノロだった。
琉球では、王が代替わり、そこに現れたのがペリー提督、日本への開国要求と同時に琉球にも開国を迫った。琉球王府は窮余の策として、流罪になった寧温を呼び戻す。しかし、寧温はすでに琉球に密かに戻っていた。若き王の側室、真鶴として。王が寧温を呼び戻したことを知った真鶴は、昼間は男性の事務官寧温、夜は女性で側室の真鶴として二役を演ずることで難局を乗り切ることを決意した。
寧温はペリーからの無理難題を解決、琉球は命を永らえる。一人二役の努力は長続きせず、正体が露見した真鶴は生まれた息子とともに、お尋ね者になってしまう。時代は明治維新、琉球は琉球藩から沖縄県へと日本の一部となり、琉球王は東京に呼び出され、侯爵として叙せられる。正室、側室も東京に行くことになり、首里城は日本政府に明け渡されたため、すべての王府職員は解雇された。
琉球の将来を夢見た寧温は、成長していた息子の成長を楽しみにし、国がなくなっても民がいれば琉球が亡くなるわけではないと、沖縄の将来に貢献すること誓う。