信長には近親・一族衆とも言える信広ら連枝衆、織田家家老の林秀貞、譜代武将である丹羽長秀や木下秀吉、外様衆で美濃の国人佐藤紀伊守や尾張の国人水野信元などがいたが、本当の近臣で、小姓、馬廻衆、吏僚と呼ばれたのが親衛隊であり、尾張、美濃の土豪出身者で固められる。近臣の吏僚とは奉行衆で信長のおそばにいつも常在している者、右筆、同朋衆と武辺の馬廻衆、小姓衆がいた。
近臣の仕事とは、客の取次ぎや贈呈品の受け渡しをする奏者(武井夕庵、松井友閑など)、朱印状などに添える但書のような副状の発給を行う近習は経緯や細目説明を行う役割。使者を務めるのも近習で平時と戦時とがあり使い分けられる。作戦参謀のような検使、来客の接待役、各種奉行(起請文発行や普請の監督)などが近習のお仕事となる。
役割や近習メンバーは時代ごとに変化するが、本能寺の変直前の各役割は次の通り。
連枝は信忠の下に武将として河尻秀隆、森長可、木曽義昌。
旗本馬廻として団忠正、斎藤新五郎、小姓として山口小弁、佐々清蔵、吏僚として前田玄以、埴原植安などがいた。
各地に派遣されていた方面軍では、
北陸に柴田勝家以下佐々成政、前田利家。
近畿管轄軍には惟任光秀、細川藤孝、筒井順慶。
中国方面には羽柴秀吉、宇喜多秀家、宮部継潤。
関東管轄には滝川一益、
四国には神戸信孝、
遊撃軍として丹羽長秀、蜂屋頼隆、池田恒興、九鬼嘉隆。
旗本の武将として稲葉良通、氏家直道、蒲生賢秀。
旗本馬廻りとして堀秀政、菅谷長頼、福富秀勝、長谷川秀一。
小姓では森成利(蘭丸)。
弓衆に平井久右衛門、中野一安。
吏僚として京都所司代に村井貞勝、堺代官が松井友閑、その他代官に祖父江秀成、武田佐吉、奉行衆として長谷川宗仁、木村高重、右筆には武井夕庵、楠長諳、同朋衆として一雲斎針阿弥、外様衆として細川信良、三木自綱。
旗本のエリートとして有名なのが母衣衆で、河尻秀隆、佐々成政、平井久右衛門、前田利家など29名が名を連ねる。赤母衣衆は小姓衆、黒母衣が馬廻から選抜された。ただこうした近習は信長が危険な目に合うたびに命をかけて戦うため長生きした者たちは少なく、本能寺の変でも多くの小姓・馬廻が命を落とした。当時、京都を離れていた近習は命を長らえるが、その後の秀吉とうまくやっていったものは、堀秀政が筆頭だが早くに死亡、長谷川秀一も有力大名とはなったが秀吉時代に死亡。その他のものも後世に名を残したものは多くはない。最後まで秀吉に仕えたのは右筆楠長諳。
信長は地方を各有力武将に与えて治めさせ、近畿地方を大坂に拠点を移して連枝衆と近習により管轄させようと考えていた。信長構想は次の通り。北関東滝川一益、南関東堀秀政、尾張三河家康、播磨但馬は惟任光秀、中国四国秀吉、北陸柴田勝家・前田利家。信長にその構想を聞いていた秀吉はいち早く大坂に城を建て、朝鮮から中国大陸へと食指を伸ばしたのも信長構想だった。本能寺の変は大きくその後の歴史を変えたことになる。本書内容は以上。