意思による楽観のための読書日記

地名で読む江戸の町 大石学 ***

江戸の町に家康が秀吉の命により移封されたのは、1590年、小田原城総攻撃の最中だった。奥州54郡という案もあったそうだが、実際には関東の内北条氏の旧領であった伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、の6ッカ国合計240万石を支配することとなった。その他、在京賄い料として近江、伊勢、遠江、駿河など10万石も与えられたという。家康の入国により江戸は北条氏の支配地から徳川領地経営の中心地へと移行した。そして江戸城と城下町の整備を実施、日比谷湾埋め立て、平川(日本橋川)から千代田区の道三堀の開削、行徳産の塩の運搬のための小名木川の開削が行われた。この頃の家康の家臣青山忠成は鷹狩で馬で走った範囲を領地として賜った、これが今の青山一帯である。同様の逸話があるのが内藤新宿、内藤氏が鷹狩で賜った土地に高井戸宿までの間の宿場として新たに開かれたので新宿。

この時期に整備されたのがお城の防御用に作られた城門で空き地に枡形を備えて設置された見附で、赤坂見附、四谷見附など36箇所に設置されたという。同様に各街道に設けられたのが往来を取り締まる木戸。高輪大木戸は今でもその場所を示す碑がある。さらに武家、寺社、町人の暮らす地域を定めた。

家康は鷹狩も好み、江戸の半径五里に鷹場ご法度を出し管理した。鷹狩は綱吉時代に禁止になるが吉宗が復活させ、葛西、岩渕、戸田、中野、目黒、品川の六筋それぞれに鳥見役人を置いた。目黒の鷹番は鷹場の番人の住居、三鷹は野方、世田谷、府中の3つの鷹場にちなむ。吉宗は同時に江戸の東西南北に行楽地を整備、隅田川堤、中野、飛鳥山、御殿山に桜、桃、松、楓を植え庶民の憩いの場とした。しかし基本的には将軍の鷹場を庶民が普段はお借りする、という形式をとった。

丸の内は別名大名小路、大名たちが豪壮な邸宅を建てて威勢を誇示したが江戸の象徴である大火で消失、明治になって焼け野原になった丸の内は岩崎弥太郎に払い下げられた。その後、武士の町は軍隊の町として位置づけられ、現在のパレスホテル付近には工兵隊、JR東、JTB付近は陸軍武庫司、三菱電機ビルは輜重隊など明治政府の軍事的中枢地域となった。先日TVで放送されていた「天皇の料理番」でよく主人公が歩いていた付近である。

先ほど出てきた見附番、現在も地名として残るのは赤坂、四谷、市ヶ谷、牛込、食違いであるが、その他にも浅草橋、小石川、幸橋、など12箇所の外郭門と半蔵、田安、清水、竹橋などの16の内郭門、そして大手、平河、坂下など8つの城門で合計36箇所という説がある。江戸城の警備が仕事であるため諸大名や旗本が警備にあたった。決まりによれば開門は午前六時、閉門は午後六時、怪しきものはただし、溺れたる人や病人は助ける、などがあった。その後その救護の仕事が町人請負に委託されるようになり町屋が周りに発達した。

高田馬場は家康の6男忠輝の生母高田殿遊覧の地にあった馬場であることから来たが、その場所は今の西早稲田三丁目付近、流鏑馬奉納の穴八幡宮も元は高田八幡宮であった。JR高田馬場駅は1910年に国鉄駅ができた時に強引に1kmも離れた近所で有名な地名を付けたため。

お台場はペリー来航におののいた幕府が作った大砲台であったが、その時来たペリー艦隊、旗艦サスケハナ号は2450トン、ミシシッピ号は1692トン、当時の千石船が150トンであったことと比べると江戸町民が驚いて幕府が恐怖したのがよく分かる。お台場建造の中心は砲術家で高島平の由来となった高島秋帆、韮山代官で製鉄を研究した江川太郎左衛門、そして勘定奉行の川路聖謨だった。埋め立て用の土は御殿山と泉岳寺、白金台地から、石材は伊豆や真鶴から集められ、費用は75万両、人夫は5000人にのぼったが完成には至らなかった。大砲鋳造のため伊豆には反射炉を作り、火薬も製造されたが爆発事故は当時製粉をしていた水車小屋で起きたという。急ごしらえの対応は失敗の連続だったが、そのお台場は今はレインボーブリッジの基礎となり、お台場小学校が建てられ、天王洲アイルとなり、一部は都民の憩いの場になっている。

織田有楽斎の住んでいたという有楽町は大名の上屋敷が立ち並んでいた。現在の有楽町マリオンの場所は南町奉行所があった。オランダ人ヤン・ヨーステンの住居に由来するという八重洲、元は八代洲、ヤン・ヨーステンの呼び名から変遷してきた。当時のヤン・ヨーステンの住居は今の丸の内側にあり、その後の町名変更で今の場所に移された。東京駅の表玄関は本来は八重洲口と呼ばれるはずだったのかもしれない。同時に重用されたのがイギリス人ウイリアム・アダムス、三浦郡にも領地が与えられたため三浦按針と呼ばれ、江戸の住居付近は按針町と呼ばれた。

武家地とされた地域にはその他風光明媚な神田渓谷があり水飲み場もあった御茶ノ水、水戸黄門が完成させ世の憂いを先に、楽しみは最後にという故事から命名されたという後楽園、和学講談所があった番町、堀の長さに由来する与力・同心の組屋敷があった八丁堀などがある。

寺社地には歴代将軍が眠る寛永寺がある上野、奈良時代に設立されたという浅草寺、江戸一の広さを誇る富岡八幡宮の門前に広がり祭礼や岡場所もあった門前仲町、目白、目赤、目黃、目青と並んで5不動の一つである目黒、高い場所にあった繩手の道から来たという高輪、お抱屋敷が乱立していて伝通院や植物園もあった小石川などがある。

町人地には銀貨を鋳造していた銀座、今の日本銀行のある場所にあった金座、隅田川沿いに設置された札差の蔵の前である蔵前、武蔵と下総をまたがる橋がかかる両国、馬の取引を行う馬喰がいた馬喰町などがある。

その他、家康に白魚を納めるために大阪から移住してきた漁師たちが住んだ佃、材木商たちが住んだ木場、埋立地でその後外国人居留地となりキリスト教系の学校も設置された築地、別荘地でありゴミ捨て場でもあった永代などもある。

このように多くの東京の地名は江戸時代に由来することがわかるが、もし家康が秀吉に江戸ではなくて仙台に移封されていたらどうなったのだろうか。堀や道、街道、川の流れ、城、町割りなど現在の町並みは全く異なるものになっていた可能性があり、東京の町を歩くときにはもう少し江戸時代を感じながら歩いてもいいのではないかと思いながらこの本を読んでいた。地名や人名、やっぱり相当奥深いものがある。


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