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意思による楽観のための読書日記

日本史のミカタ 井上章一、本郷和人 ****

日本史の「東西対決」のようで面白くよめる。歴史学者ではない井上章一の打つ変化サーブを、中世史が専門の歴史学者本郷和人が打ち返そうとするが、思わぬ変化をして、レシーブ球は隣のコートに返球されてしまう。史実を文書で裏取りするような地道な持久戦が得意な本郷は、井上の京都風の思いつき学説による空中戦に敵わない、と思ったら意外にもふんわりと受け止めて、最近の若手の不甲斐なさに矛先を逸らしたりすることで先輩を立てているし、井上先生の蘊蓄は読者にも思わぬ気づきを与えてくれる。

応仁の乱以降、荘園からの上がりや天皇家からの補助が激減した伊勢神宮は、新たな収入源を求め、日本全国の民衆が「お伊勢参り」をするように、朝廷の神話と伝説を御師が全国に説いて回った。本居宣長などの学者よりも御師の力のほうがずっと強かったというのが井上説。御師には鈴木姓が多かったので、この全国行脚が鈴木姓を全国に広めた、というのが本郷解説。尊王思想もこうしてじわじわと全国に広がった。

鎌倉時代以降の中世は、それまで権力を持っていた朝廷・公家と寺社に武士が加わり、3つの権門体制が成立したという「権門体制論」が学説としては主流。本郷和人は形式的には公家や寺社が各地の領主となっているが、実態の支配構造としては武士たちが実質的管理者であり京都を実力で圧倒していたという「東国国家論」。これに対して、東国国家論は明治以降の東京遷都以降、明治政府が東京を京都より上に立たせようとした、平氏も歌を詠み舞を舞って貴族のように振る舞って源氏に権力を奪われた、という歴史観を明治政府が広めた、というのが井上説。さらにもう一つ「顕密体制論」は鎌倉新仏教と真言宗・天台宗は中世でも並び立っていたというもの。井上はその密教も室町時代中期以降は臨済宗が力をつけており、「禅密体制」と呼ぶべきであり、武家が奪取した権力というのは冷静に見れば、それ以前の摂関政治時代とそんなに変わらないと。

鎌倉幕府もそれまでの荘園制に寄生したのであり、新たな土地所有の制度は秀吉の検地まで見直されることはなかった。明治維新の地租改正で初めて国民国家体制としての土地所有制度が近代化された。室町政府は貨幣経済に依拠していたゼニかね政府のはずなのに、土地制度は荘園制の上に立っていた。封建制度と資本主義のバランスの上に成り立っていたとすると、ヨーロッパの国王・君主が経済支配を進めていた中世欧州の絶対王政と室町幕府は同種と言える、という井上。日野富子と義政の政権がその典型だと指摘。本郷は室町政権はそれほどの権力を全国的には保持していなかったというが、絶対王政の「絶対」という形容詞に引っ張られてはいけないと。日野富子の実家、日野一族は藤原北家の末裔であり公家の名家、フィレンツェを支配したメジチ家のような位置づけだった、と井上は言う。

荘園制は寺社の存在を軸にして発展していった。寺社は租税回避地となり、そこから金が世間にまわり資本主義も発展、室町幕府はその延長線上にあった。徳政令の逃げ場は寺社にあった。だから、徳政令は寺社を育て、室町幕府もその寺社を利用した。鎌倉から室町時代に京都や鎌倉に建立された多くの禅寺は、街の最高の風景をもつ場所に建てられ、将軍や有力守護の別荘として利活用された。日本における建築の粋は寺院建築に集約された。それを支えたのが金融機関である借上や土倉であり、その土倉からの上がりを室町幕府は吸い上げた。その時代の経済を導いた大元は寺社だった。天皇や院、幕府や公家が多くの寺社を建設したのは、寺社を荘園からの上がりの受け皿とし、自らの経済的アジール(回避地)として活用するためだった。

朝廷は権力を失い、その権威を維持するために、官位と婚姻をうまく使った。実力をつけてくる武家や地方の有力者には、娘を嫁がせ、その時代には名誉はあるが実質的にはもはや意味のない官位を与えた。それでも、京都の栄光と華やかさに憧れを持つ地方の実力者はそれらを求め、地方には多くの小京都が生まれた。その極みが関白を求めた秀吉であり、信長ゆかりの継室を求め、太閤秀吉と名乗り満足した。信長は部下に茶道具を与えたが、秀吉は部下に官位を与えた。

古代から明治維新までを駆け巡ったお二人の「空中戦」、一読に値する。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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