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架空の痛み

2024-04-28 00:00:00 | 創作術

 

1年前、脇腹の皮膚がひどく腫れたことがあった。
そして今、今度は肩甲骨のあたりで腫れてしまった。


どうしてその場所に炎症が起きたのか。


『ウソみたいな話』


脇腹は、1年前に書いてた小説の中で、あるキャラが怪我をしていた場所。
肩甲骨は、今書きかけている小説で、別のあるキャラが怪我をしている場所。

 

 

 

 

 




痛みとの対話の中で知るのは、「かまってほしいから症状を出す」とか「愛されたい」というのがテンプレートだということ。

わたしの場合、自分の身体だけじゃ飽き足らず、それを空想や小説の中でも繰り返す。キャラに怪我をさせて、それを癒すルートを幾度も辿りたいのだ。


だから、単に「執筆に没頭していて、症状が出るまで疲れに気づかないんだ」というペラペラの視点だけで止めるものではない。

さらに、痛みを小説の中で独り静かに解消し続けてきたゆえに、「キャラと同じ場所に症状が出た」ことに対して、「簡単に『キャラとの同一化』と片付けて悦に浸ってはならない」という警鐘。


そして、今回考えたのは。
癖で、「小説化」という外在化した昇華の試みを介したものの、結局「身体症状」として回帰され、この身体に痛みが現れたのではないか、という見解。

つまり、「昇華する必要がある痛み」など、すでに無いのにも関わらず、癖で『小説化』したことにより、架空の痛みが生じてしまい、「架空の痛み」はふよふよと彷徨うばかりで、宿り主は私しかいないというワケだ。

 

 

 



執筆活動が自傷行為であってはならない。
犠牲でもいけない。
もうトラウマを書く必要はない。

じゃあ何を描けばいいのか。
もっと自由に選び取れ。
愛するものたちを。
心のある道を。


彩雲と、不思議な雲たちに励まされたコト。

涙の膜で、夕陽が虹色の筋をつくったコト。

コンクリートのヒビが、ハートになってたコト。

 


ここ数年で、様々な角度から、創作活動のベクトルの変化を突き付けられている。