フェラーリ 360 Modena Japan J.G.T.C(2002)
MINE DENTAIRE PROJECT RACING
GT300のマシンは、まだベース車の面影が残ってます。
ボンネットの排気ルーバーの角度がいいです。
フェラーリ 360 Modena Japan J.G.T.C(2002)
MINE DENTAIRE PROJECT RACING
GT300のマシンは、まだベース車の面影が残ってます。
ボンネットの排気ルーバーの角度がいいです。
Ferrari 125F-1
(1948-1951年)
代表フェデリコジベルティー
アルベルトアスカリ(伊)
ルイジヴィロレージ
レイモンソメール
Tec.dsnジョアッキーノコロンボ
フェラーリ初のF1マシンであり、1950年に開幕したF1世界選手権にも投入された。
名称の125はエン
ジン1気筒あたりの排気量125ccを表す。(125×12気筒=1,500cc)。
コンストラクタータイトルは制定前。
第二次世界大戦の後、フェラーリはジョアッキーノコロンボが設計したV型12気筒1,500cc
エンジンの開発が進められ、1947年にスポーツカー125Sがレースデビューした。
同年にF1規定のグランプリレースが始まると、
1948年に2,000ccエンジン車166SCのフォーミュラ仕様で参戦し、
次いで純正F1マシンの125F1を投入した。
125Sから流用した1,500ccエンジンにはルーツ式スーパーチャージャーが搭載され、
230馬力を発生した。
シャーシは鋼管ラダーフレーム式で、ホイールベースは短く設計された。
スイングアクスル式のリアサスペンションは挙動過敏でスピンの原因となった。
この時期には125F1のシャーシに166SCと同じ2,000ccエンジンを搭載した125F1/166も存在する。
1949年には操縦性が改善された。
シーズン終盤にはエンジンがDOHC・2ステージスーパーチャージャー仕様となり、
出力は280馬力に向上した。
1949年仕様のマシンは125F1/49と表記される場合がある。
1950年のF1世界選手権シーズンの途中にはアウレリオランプレディ設計の自然吸気式4,500ccエンジンを
搭載した375F1に主力の座を譲った。
125F1は1948年9月5日の地元イタリアGP(モンツァ)でデビューした。
決勝最高は3位。
1949年はライバルのアルファロメオとマセラティがレース活動を休止したため、
国内外で好成績を収めた。
125F1はイギリスの裕福なプライベーターにも販売された。
ピーターホワイトヘッドはワークス不参加のチェコスロバキアGPで優勝した。
1950年はワークスの125F1はモナコGPから第5戦ベルギーGPまで使用されたが、
復帰したアルファロメオの強さに対抗できず2位1回(アスカリ)が最高だった。
1948年式スペック
V型12,60度ターボ。
1,496cc230PS,260㎞/h
SOHC,2V,5速,R1。710㎏。
キャブレター ウェバー40。
Ferrari 275F-1,340F-1,375F-1
(1950-1951年)
代表フェデリコジベルティー
Tec.dsnアウレリオランプレディ
1950年
5位アルベルトアスカリ(伊)
15位レイモンドソマー(仏)
13位ドリノセラフィーニ(伊)
-位ルイジヴィロレージ(伊)
1951年
2位アルベルトアスカリ(伊)
5位ルイジヴィロレージ(伊)
6位ピエロタルフィ(伊)
3位フロイランゴンザレス(爾)
-位ジャンニマルゾット(伊)
フェラーリ375F1はF1世界選手権においてフェラーリが初優勝を遂げたマシンとして知られる。
375はエンジン1気筒あたりの排気量を表す(375×12気筒=4,500cc)。
開発順に3,300ccの275F1、4,100ccの340F1、4,500ccの375F1を説明する。
フェラーリは1950年のF1世界選手権にスーパーチャージャー付き1,500ccエンジンの125F1で
臨みながら、次期主力となる自然吸気エンジンの開発を進めていた。
自然吸気エンジンは過給エンジンに比べると出力では劣るが、
燃費が良いためレース中にピットインして再給油する回数を減らすことができるという
メリットがあった。
この路線変更の決断には、前年のベルギーGPで125F1が自然吸気エンジンのタルボラーゴに
敗れた影響があったとされる。
エンジンの開発はアウレリオランプレディが担当し、排気量を段階的に増やしていく方法を採った。
最初に完成したのが275エンジン次は340エンジン。
レギュレーション上限まで拡大した完成形が375エンジンである。
これらはランプレディエンジン(別名:ビッグブロック)と呼ばれ、
レース用スポーツカーや高級GTカーにも使用された。
275F1のシャーシは125F1のものを流用したが、340F1から新シャーシとなった。
1951年にはシリンダーヘッドの新設計、点火系のツインプラグ化により最高出力が380PSに向上した。
このマシンは区別のためフェラーリ 375F1/51とも表記される。
英GPでフロイランゴンザレスの乗る375F1が常勝アルファロメオ159を破り、
フェラーリの記念すべきF1初勝利を実現した。(ゴンザレスは1950年型)。
エンツォフェラーリは古巣アルファロメオに勝った事で“母親を殺してしまった”と吐露。
戦績は1950年、275F1はF1第5戦ベルギーGPから投入されたが、
次戦仏GPでは不調のため出走をキャンセルした。
7月末の非選手権ジュネーブGPで340F1が登場し、9月の地元伊GPで375F1がデビューした。
エースのアルベルトアスカリは途中からドリノセラフィーニのマシンに乗り継ぎ2位に入った。
アルファロメオ不参加の非選手権ペニャリンGPでは1-2-3フィニッシュを決めた。
1951年、オフシーズンの開発により375F1は戦闘力を高め、開幕からアルファロメオと接戦を演じた。
迎えた第5戦英GP、途中加入したフロイランゴンザレスが同郷のファンマヌエル・ファンジオの追撃を
かわして初優勝を記録した。
その後は完全にフェラーリ優勢となり、独GP、伊GPでアスカリが連勝。
最終戦スペインGPはアスカリとファンジオのドライバーズタイトル決定戦となった。
しかし、フェラーリ勢はタイヤを通常の17インチから16インチに替えるという作戦が裏目に出て
タイヤトラブルに見舞われ、ファンジオのチャンピオン獲得を許した。
375F1はフェラーリワークスチームのほか、イギリスのプライベーターチーム、
ヴァンダーベルがシンウォールスペシャルとして使用した。
ドライバーはレッグパーネルとピーターホワイトヘッドが交代で乗った。
1952年シーズンは世界選手権が2,000ccのF2規定で行われたため、
375F1は排気量制限のないフォーミュラリブレで使用された。
フェラーリはシリーズ第2戦に組み込まれていたインディアナポリス500(インディ500)に参戦するため、
オーバルコース向けにホイールベースを延長したフェラーリ 375インディをアメリカに送った。
1952年インディ500はF1開幕時から選手権レースに指定されていたが、
実際に出場したのはフェラーリが最初だった。
これはエンツォフェラーリの旧友でありアメリカでフェラーリ販売代理店を営むルイジキネッティの
働きかけによるもので、375インディの3台に地元のプライベーターが乗り、
ワークスからはアスカリひとりが出場した(予選出走ためF1初戦スイスGPを欠場)。
プライベーター勢は予選落ちし、決勝に進んだアスカリもホイール破損のため序盤にリタイアした。
ドライバータイトルは
1950年
5位アルベルトアスカリ0勝(11P)
15位レイモンドソマー0勝(3P)
15位ドリノセラフィーニ0勝(3P)
-位ルイジヴィロレージ(0P)
1951年
2位アルベルトアスカリ2勝(25P)
5位ルイジヴィロレージ0勝(15P)
6位ピエロタルフィ0勝(10P)
3位フロイランゴンザレス1勝(24P)
-位ジャンニマルゾット(0P)
V型12気筒60°SOHC2V
850㎏,4速R1,ウェバー42
B×S,72×68mm(275F1),
80×68mm(340F1),
80×74.5mm(375F1)
3,322cc(275F1),4,101cc
(340F1),4,493cc(375F1)
300PS(275F1),
335PS(340F1),
350PS(375F1)
280km/h(275F1),
300km/h(340F1),
320km/h(375F1),
F5.50×16,R7.00×16(275F1・
340F1),7.50×17(375F1)