Ferrari 126C2
(1982年)
15位ジルビルニューブ(加)
2位ディディエピローニ(仏)
19位マリオアンドレッティ(米)
7位パトリックタンベイ (仏)
6位ルネアルヌー(仏)
1位👑コンストラクター
代表マルコピィチニーニ
Tec.engハーベイポスルスウェイト
Tec.engマウロフォルギエ―リ
1983年は開幕戦から第8戦まで改修型の126C2Bが使用された。
126C2は、120°のV6ターボ(Compressore)エンジン搭載マシンの2代目、から取られた。
1981年よりシャーシデザイナーとして加入したポスルスウェイトのフェラーリ第1作目であり、
旧態化していたセミモノコック方式から脱却し、
一般的なアルミハニカムパネルのフルモノコックシャーシに切替えられた。
当時の他のグラウンドエフェクトカーと同様、
サイドポンツーンのウィング構造を最大化した皺寄せでコクピットが前進し、
ペダルは前車軸よりも前方に位置していた。
タイヤメーカーはミシュランからグッドイヤーに。
エンジンは126CKでチームとして初めて導入したV6ツインターボエンジンを継続使用する。
アジップと共同でウォーターインジェクションの開発も行い、
1982年シーズン後半から実戦投入された。
エンジンの信頼性は高く、エンジントラブルによるリタイヤはなかった。
シーズン中にはカーボンディスクブレーキを導入。
ヴィルヌーヴの事故を受けてコクピット周辺にカーボンパネルの補強が施された。
また、グラウンドエフェクトの強いダウンフォースに対応するため、
フロントサスペンションがロッキングアームからプルロッド方式に改造された。
これに伴い、サスペンションを覆っていたボディカウルが無くなった。
フロントウィングは左右分割式から312Tシリーズと同じシングルプレートに戻された。
(フロントウィングを外したレースもある)。
126CKのシャーシナンバーも126C2化された。
126C2はヘッドレストが五角形のすり鉢状のくぼみがあったため、容易に見分けがついた。
1983年、フェラーリは1979年以来となる、タイトル争いに絡んできた。
1982年は様々な事件が起こった。
フェラーリにとっては2人ものドライバーが事故によって戦列を去り2度と復帰することは無かった、
悲劇のシーズンを走ったマシンった。
ロングビーチでおこなわれた第3戦アメリカ西GPで、
2枚のリヤウイングを前後にずらして互い違いに装着し、
ウイングの幅をマシンの全幅規定いっぱいとしたダブルウイングを投入。
リヤウイングの幅は1,100mm以下との規定を拡大解釈したものだったが。
これは当時流行った水タンクを使用した車重の軽量化に抗議するものだった。
結局3位フィニッシュしたヴィルヌーヴは失格となるが、
開幕戦でのリザルトでのウィリアムズとブラバム勢が失格となった。
第4戦サンマリノGPはディディエピローニとジルヴィルヌーヴのワンツーフィニッシュとなったが、
ピローニがチームオーダーを無視しヴィルヌーヴの優勝を奪ったことで、
ドライバー二人の関係は極度に悪化してしまった。
ゾルダーで行われた翌第5戦ベルギーGPの予選中、
126C2を駆るヴィルヌーヴがヨッヘンマスのマーチ821に乗り上げクラッシュ。
マシンは前半部分が破壊され、
さらにシートベルトが千切れてヴィルヌーヴはマシンから放り出された。
結局彼は背骨など複数箇所を骨折しており、死亡した。
第8戦カナダGPではピローニがポールポジションを獲得するも、スタートでエンジンストール。
そこに後方からのスタートだったリカルドパレッティがフルスピードで衝突。
ピローニに怪我は無かったが、パレッティは胸郭破裂で死亡した。
さらに第12戦ドイツGPでは、ピローニがアランプロストのルノーに後方から激突。
フロント部分が完全に押しつぶされたせいで両足粉砕骨折を負い、
F1からの引退を余儀なくされてしまった。
レギュラードライバー2名の相次ぐ不幸により、ドライバーズチャンピオン獲得は不可能となったが、
代役として起用されたパトリックタンベイとマリオアンドレッティが健闘し、
最終的に1982年のコンストラクターズチャンピオンを獲得することができた。
ドライバーズタイトルは、
1位ケケロズベルグ(44P),
15位ジルビルニューブ0勝(6P)
2位ディディエピローニ2勝(39P)
19位マリオアンドレッティ0勝(4P)
7位パトリックタンベイ1勝(25P)
6位アルヌー2勝(28P),
7位タンベイ1勝(25P)
1,500㏄120°V6ターボ、
600PS以上, 540㎏,320㎞/h
EN縦置、MT横置5速