10数年ぶりに母の故郷を訪ねた。
自然が美しい田舎町でした。レンゲは我が心の思い出

菜の花は小学時代ここに暮らした思い出。

私は5人兄弟の真ん中で、家族ではともすれば忘れさられる存在。
私は、お爺さん、お婆さんと小学時代をこの村で育った。
私の人生では忘れさることのできない幸福な時代であった。食べ物はほとんどが芋が主食。
白米は盆と正月くらい。
小学年の時、長崎の家族のもとに帰る。
まだ、長崎湾ないでは、よく魚が釣れていた、旭町には砂浜もあり、バスは木炭車が走っていた、何もかもが珍しかった。
他の兄弟は私が話すのを嫌った、私は五島便がなかなか抜けなかった。
小学時代の私は、病弱で母に随分と迷惑をかけた。
母が作るご飯を食べずによく怒られていた、父は何も食べさせるなと酷く怒られた。おまへは家を出て行け、二度と帰るなと
散々に怒られた、その度に母は私を連れて2週間くらい家出をしていた、それも度々で小学を卒業するまで度々母と家出した
父によくよく嫌われていた私であった、しかし父は殴ることはなかった、
小学の頃病弱な私は、よく学校を休みよく寝込んだ。母がそばにいないと寂しく怖くてよく泣いた。母がいないと、とても
怖い夢を見てうなされた。
中学1年の頃、母に漫画を見るなと酷く怒られた。それ以後漫画は見たことはない。
中学になるとまだ私の食べず嫌いは続いたが父はなにも言わなかった。
高校受験のときは両親とも三菱重工の技術学校への進学、就職を望んだ、私もなんとか親の思いかなへようと思っていたが
公立高校と合格発表が同じ日であった。父、母は最後は君が好きなようにしていいと、言ってくれたが母は辛かったろうと思う。
その頃、兄が大学、姉は高校と学費が大変であることは私も心苦しくはあったが。
子供を学校へ出す為親の苦労は大変なことであろうことは、充分にわかってはいたが。
父は私が結婚するとまもなく亡くなった、人生を子供のためにただただ働いたような寂しい人生だったように思う。
母は弟、妹の進学の為働かねばならなかった。
母は75歳でなくなった、2年ほどガンとの凄ましい戦いの後。
ここに父に、母に、何もしてやれなかった私がいる。