バッテン長崎の人

長崎の良いところ発信、植物観察、旅日記、日々感じること、自分での新発見、写真付きで日記や趣味を書く

私の父、母の事 その1 父

2016-01-16 05:05:25 | 人生




私は5人兄弟の真ん中生まれ 上に兄、姉 下には弟、妹。


私の父のこと 私の兄弟での位置は真ん中で父母の愛が遠く届かない位置にあった。小学生の頃は父は私にはとても厳しい父であった。

怖かった思い出しかないような気がする。父は造船所工員として働いていた。会社と家を真っ直ぐに往復する真面目な父であった。

時に遠くから父の声が聞こえてくる時があった。部下たちと酒屋で飲んだときである。お酒飲むと嬉しくなるのか街中に響き渡るような父の声。

父は歌が、時に民謡が好きで、正月には良く部下の人たちが20~30人正月挨拶に来るのが習わしであった。お酒が進むにつれ部下の人が父に

歌を所望売るのです、父は待ってましたとばかり、民謡を歌い出す、周りはヤンヤヤンヤの大喝采。確かに父は歌が上手であった。

家で晩酌することはなかった、家計が苦しかったのだろう。

昔は畳まで円卓を7人家族で囲み静かな食事であった。小学4年のころのこと、食事中私がヨロヨロと立ち上がり苦しいもうしぬ!と行って倒れた。

後で兄弟から聞いた話では私の心臓が止まったということで、父がやにわに私を抱き抱え病院に裸足で駆けつけて、電気ショックを受け生き返ったとのこと。

何秒か遅れていたら私の今はなかったとか。私にとって父は生みの、命の恩人なのです。なのに私は何の恩返しもっしてない、つまらない人間。

兄は大学へ進み、姉は高校へ進みやがて私も高校受験の時が来た。父は勤めている会社が運営していた技術学校に行くことを強く望んでいた。

その技術学校は造船技術を学びながら給料がもらえる学校でした。高校受験はその学校と公立高校を受けた。

合格発表は同日だった。これで私の人生が変わる大きな点であった。父は私が両校に合格したのを嬉しくも寂しく受け止めていた。

c父が私を呼んで言った言葉、お前の好きな道を進めと、私はその言葉の意味を知りながら泣いて父にお願いをした公立高校へイカせてくださいと。

これから又続くであろう経済的苦労を思えば父はかなりの覚悟が必要であったことを。

私も大学受験の時が来た、2大学受験工学部の機械科と建築科どちらも合格したが、父の働いている会社に入ろうと機械科を選択。

ここでまた人生の大きな選択をしなければならなかった。それは今思うことであるが。

就職の時期がやってきた、父は自分が働いている会社に入れたかった。父が働いている会社の社長と懇意にしてたので。

東京本社の総務部行って見なさいと父からの連絡、総務部長も父と懇意。入ろうと思えば入れたが、総務部長曰く入社しても苦労するよ、私学か

入るとしても、大学での科目が全て優でないと問題があると、残念な事に良が10科目あってダメ。父に申し訳なかった。父に苦労ばかり掛ける私。

父と母が東京の我が四畳半のアパートへやってきた。その頃弟も東京にいたので我がアパートに家族四人集まった。私のアパートに全員止まることに

なった。生まれて初めて父と母と同じ部屋に寝た。私は幸福感が全身にわたり痺れた。

翌朝父と散歩してると、この辺の土地いくらする、買ってやるからというのである。私は父にもうこれ以上私の為、苦労しないでくださいと心から叫ん

だ。ただただ私は父の手のひらを泳いでいたに過ぎない。父の愛は地球よりも大きかった。

父は退職後子供達を大学へやり終わり、63歳で天国に向かった。父が危篤と言う知らせをもらった夜私に会いに来た。黒装束を着た父が訪ねて

私の横浜のアパートに会いに来ていた、何もかもが夢であってほしいと神に祈り、父の元長崎へ向かった。

最後まで親不孝ものであった。





長崎の街を駆け抜けて行った若者がいた、坂本竜馬と言う脱藩人が。

2016-01-08 06:59:59 | 長崎物語




私は坂本竜馬をあまり知らない、

彼が長崎に何故やってきたのか。その頃世界に門徒を広げていたのは鎖国時代でであった、日本で長崎だけであったことに

あったのでは。海援隊を結成のためでもあったろうし、又亀山社中と言う会社をも設立している。

火薬とか銃が長崎に貿易と言う名のもとに、多く輸入されていたのは間違いはないのだが、それらを多く

日本中に売り財を成したのかも知れない。いや彼に裏社会を利用して彼に接したのであろう。

何年か前に、坂本竜馬が長崎で作った亀山社中を訪ねる機会があった。

ここが亀山社中かと思った小さく、山奥まるで隠れ家風に我が目には映った。



日本の夜明けに努めたのは間違いない。

また、亀山社中に戻ると、江戸時代は全く山の中、山半ばにあった。その亀山社中をさらに山頂に行くと

なかなかの光景、風情があった。近くの家の人に聞くと、昔、そこに茶屋があったというのである。

確かに亀山社中から遊びに行くには長崎の中心街までは遠過ぎる。書の茶屋に行くと近く、又長崎港も眼下にあった。

その時代長崎は隠密が多くいたことだろう。長崎では竜馬も一人で外出するのは、危険であったのかもしれない。

坂本竜馬が時に遊びに行っていた、花月と言う料亭があるがなかなか高級の料亭である、今も長崎では高級で

私などはとても行けるところではない、長崎の歴史をえいえいと引き継いでいる料亭である。

花月には坂本竜馬が喧嘩して柱に刀傷があります。私が見たところ、こじ付けのようにみえた。

その真偽はは今となっては誰にもわからない。人生表もあれば裏もある。

まだまだ、長崎には江戸時代が垣間見えます。昨年は世界遺産に軍艦島がなった。

長崎には夢が沢山なければならない。





長崎は日本で唯一の世界へ開かれた街であった。

2016-01-07 01:33:07 | 長崎物語




ある時、長崎の料亭に行った時のこと料理の最後のデザートを味わった時、珍しい味の、悲しみを包んだやうな味がした。

料亭の女将さんに、このデザートのお菓子はどこで作っているか聞いてそのお菓子屋さんに行ってみた。



そのお菓子を買って見ると

’黒船の栞’というのがあった。

その栞には、銘菓が銘菓になる。黒船の味は悲哀の味がする。遠い昔、唐行さん、と呼ばれ東南アジアへ

日本から、大勢の若い娘たちが働きに行った。密貿易である。朱印船に隠し乗せられ、

天竺の国へと旅立ったのである。昔、長崎は我が国で唯一の異国との貿易港

此処から喜び悲しみが、生まれ始まったのである、とその栞に書かれていた。

お菓子屋の天主曰く、このお菓子はこの悲哀の意味を含み、味を整えた、と言う。

このお菓子屋の下には、小桃花源と呼ばれる長崎でも知られない高級女郎村があった。

又日本の各藩の隠れ宿もあった。長崎で鉄砲、火薬等を各藩が闇に隠れて買うために。

今でも、薄くその面影はある。




久し振りの陶芸

2016-01-06 02:02:17 | 陶芸




相変わらずの愚作ですが、小皿樹木をアレンジした。多少気に入ってますが、自分では。



コヒーカップ2個 意外と私としては上出来かな?



スープカップ 樹木を内、外にアレンジ。苦し紛れの作。



私はお酒はいけませんが、ぐい呑、黄色の模様がいいのでは。

陶芸やっと門をくぐれたようだ、も少し作陶ーー頑張らんばいかんばい。