私は5人兄弟の真ん中生まれ 上に兄、姉 下には弟、妹。
私の父のこと 私の兄弟での位置は真ん中で父母の愛が遠く届かない位置にあった。小学生の頃は父は私にはとても厳しい父であった。
怖かった思い出しかないような気がする。父は造船所工員として働いていた。会社と家を真っ直ぐに往復する真面目な父であった。
時に遠くから父の声が聞こえてくる時があった。部下たちと酒屋で飲んだときである。お酒飲むと嬉しくなるのか街中に響き渡るような父の声。
父は歌が、時に民謡が好きで、正月には良く部下の人たちが20~30人正月挨拶に来るのが習わしであった。お酒が進むにつれ部下の人が父に
歌を所望売るのです、父は待ってましたとばかり、民謡を歌い出す、周りはヤンヤヤンヤの大喝采。確かに父は歌が上手であった。
家で晩酌することはなかった、家計が苦しかったのだろう。
昔は畳まで円卓を7人家族で囲み静かな食事であった。小学4年のころのこと、食事中私がヨロヨロと立ち上がり苦しいもうしぬ!と行って倒れた。
後で兄弟から聞いた話では私の心臓が止まったということで、父がやにわに私を抱き抱え病院に裸足で駆けつけて、電気ショックを受け生き返ったとのこと。
何秒か遅れていたら私の今はなかったとか。私にとって父は生みの、命の恩人なのです。なのに私は何の恩返しもっしてない、つまらない人間。
兄は大学へ進み、姉は高校へ進みやがて私も高校受験の時が来た。父は勤めている会社が運営していた技術学校に行くことを強く望んでいた。
その技術学校は造船技術を学びながら給料がもらえる学校でした。高校受験はその学校と公立高校を受けた。
合格発表は同日だった。これで私の人生が変わる大きな点であった。父は私が両校に合格したのを嬉しくも寂しく受け止めていた。
c父が私を呼んで言った言葉、お前の好きな道を進めと、私はその言葉の意味を知りながら泣いて父にお願いをした公立高校へイカせてくださいと。
これから又続くであろう経済的苦労を思えば父はかなりの覚悟が必要であったことを。
私も大学受験の時が来た、2大学受験工学部の機械科と建築科どちらも合格したが、父の働いている会社に入ろうと機械科を選択。
ここでまた人生の大きな選択をしなければならなかった。それは今思うことであるが。
就職の時期がやってきた、父は自分が働いている会社に入れたかった。父が働いている会社の社長と懇意にしてたので。
東京本社の総務部行って見なさいと父からの連絡、総務部長も父と懇意。入ろうと思えば入れたが、総務部長曰く入社しても苦労するよ、私学か
入るとしても、大学での科目が全て優でないと問題があると、残念な事に良が10科目あってダメ。父に申し訳なかった。父に苦労ばかり掛ける私。
父と母が東京の我が四畳半のアパートへやってきた。その頃弟も東京にいたので我がアパートに家族四人集まった。私のアパートに全員止まることに
なった。生まれて初めて父と母と同じ部屋に寝た。私は幸福感が全身にわたり痺れた。
翌朝父と散歩してると、この辺の土地いくらする、買ってやるからというのである。私は父にもうこれ以上私の為、苦労しないでくださいと心から叫ん
だ。ただただ私は父の手のひらを泳いでいたに過ぎない。父の愛は地球よりも大きかった。
父は退職後子供達を大学へやり終わり、63歳で天国に向かった。父が危篤と言う知らせをもらった夜私に会いに来た。黒装束を着た父が訪ねて
私の横浜のアパートに会いに来ていた、何もかもが夢であってほしいと神に祈り、父の元長崎へ向かった。
最後まで親不孝ものであった。