釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『交響曲第七番』(ショスタコーヴィチ)

2013-05-16 10:43:04 | その他の雑談
久しぶりにCDで掲題の曲を聴く。

私の絵遊びは時間がかかるのである。ボロイPCとプログラムの貧弱さと理由はいくらでもあるが、当方は時間は腐るほどあるのだから (あ~、在職中には此れを何度夢みたことか!!) いくら時間がかかっても構わない。文句を言う人は誰もいない。まさに天国である。しかし人間てやつは贅沢なもので (と一般化すると語弊があるが) いざ天国が到来すると又アレコレと別の不満を見つけるのである。

ここで私は現在が昔夢みた天国であることを自覚せねばならない。
ということで、好きな音楽を聴くことにした。我がPC君はセッセと今仕事してくれている。なにしろ今回の絵は一枚30時間程度かかるのだ!!

なにを聴こうか。ヤワなヤツは今は聴く気がしない。シャッキとしたヤツが聴きたい。
ということで掲題の音楽を聴くことにした。この曲は「戦争交響曲」と言われる三部作の一つであるが、第一楽章から、いきなり、まさに「戦争」である。およそ甘さとは無縁の大音響の世界。映画監督フェデリコ・フェリーニの映画にフェリーニ的喧騒があるように、ショスタコーヴィチ的喧騒がある。その喧騒が、いきなり、おっ始まるのだ!! (これが実に快いのは言うまでもない。でなかったら始めから聴きはしない)

しかし、この喧騒は一瞬に静寂へと変貌する。フェリーニの映画もそうであるように。
この静寂さが、また、たまらない。嵐が一瞬静まり黒い雲の中から光が射してくるような実に微妙な静寂さなのだ。

私はショスタコーヴィチはG.マーラーから入った。マーラーのあの死の隣り合わせの、換言すれば天国的な静寂さに私は惹かれに魅かれ、レコード盤が曲がるほど聴きまくったものだ。

が、ショスタコーヴィチの静寂さはマーラーの静寂さとは根本的に違うことに私は始めから気づいていた・・・なんて書くと我ながら生意気だが、本当にそうなのだ。

私は音楽言語は全く無知蒙昧だから下手な文章で表現するしかないが、ショスタコーヴィチの静寂さは死の隣り合わせでも天国的ではない。研ぎ澄ました刃の静けさなのである。スターリン圧制が如何なるものであったか、その一端はタルコフスキーの映画でも伺い知ることが出来るが、その静けさは確かに死臭がする。

が、決して醜くくはない。
嵐の後の一瞬の「レンブラント光線」の静寂さ。 
この嵐と光線の絶え間ない、せめぎあい。

この緊張感こそショスタコーヴィチの音楽の私における魅力であり、その緊張感は私の或る精神状態のときには、なによりも私をして元気づけるのだ。