釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:六条御息所の生霊と死霊の世界

2013-05-04 14:33:46 | その他の雑談
私は源氏物語の知識は全くない。
ただ『能の表現・その逆説の美学』(増田正造著、中公新書)という大変面白い本があって (此の本については以前書いたが) 、この本のなかで能の演目『葵上』や『野宮』について解説されている。

源氏物語を知っている人には蛇足になるが、この本によれば、
『源氏の正妻葵上に対する六条の怨念は彼女の教養との身分意識の抑制をくぐりぬけ、生霊となってお産の床にあるライバル葵上に憑き祟り、ついには、とり殺すことになる。』

又その後、六条御息所は娘と共に嵯峨野の野宮で過ごすが、源氏物語では六条御息所は死後も死霊となって葵上にとり憑いでいく。まさに「女」の妄執の世界である。

能『野宮』の作者は、既に死後の六条御息所の魂を縁(ゆかり)の地である野宮に登場させ、彼女の全生涯の重さを、そこで思い出させている。『死から生を展望する』という能独特の視線であるが、そこに描かれたのは恋の妄執から解放された「女のあわれさ」と「女のいじらしさ」である・・・・と此の本では解説している。

先日書いた池西言水の俳句に、「あさましや虫なく中に尼ひとり」という一句があった。野宮の六条御息所が尼であるか否かは別にして、私は、此の俳句の「尼」は、生霊であり死霊でもあった六条御息所であるように思えてならない。

晩秋の虫の鳴く嵯峨野に佇む女・・・六条御息所。これは秋の女にふさわしい。
***
源氏物語は何を描いたのか。私は無学にして知らない。ただ、こう言えるのではないかと思う。煌々とネオン輝く現代の街にも、六条御息所は、きっと居るに違いない、と。

雑談:芥川龍之介と鬼趣の俳句

2013-05-03 16:48:03 | その他の雑談

芥川龍之介の随筆に『点心』という面白い作品がある。この随筆の最後に、池西言水という江戸前期の俳人の俳句が紹介されている。芥川龍之介は、この俳人を以下のように評している。

『(前略) 言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人が知らぬ一種の鬼気を盛り込んだ手際にあると思ふ。子規が挙げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂ふ不気味さである。(後略)』。

子規が挙げた二句というのは以下の句である。
「姨(をば)捨てん湯婆(たんぽ)に燗(かん)せ星月夜」
「黒塚や局女(つぼねをんな)のわく火鉢」

芥川龍之介は此の二句に次いで以下の池西言水の句を紹介している。
「御忌(ぎょき)の鐘皿割る罪や暁(あけ)の雲」
「つま猫の胸の火や行く潦(にはたづみ)」
「夜桜に怪しやひとり須磨の蜑(あま)」
「蚊柱(かばしら)の礎(いしずえ)となる捨子(すてご)かな」
「人魂(ひとだま)は消えて梢(こずえ)の灯籠(とうろ)かな」
「あさましや虫なく中に尼ひとり」
「火の影や人にて凄き網代守(あじろもり)」

このような句の不気味さを知るには、その句に書かれた文字の意味を解さなければできないだろう。関心のある方は然るべき本で調べるとよい。
その文字を解すれば、なるほど『その中に漂ふ不気味さ』を、我々は背中に冷たい手を当てられたように感取できるだろう。

しかし、たとえ、それらの文字の意味を知らなくても、これらの句に漂う或る種の気味悪さは語感から、我々は、うすうす感じ取れるはずである。
***
芥川龍之介は又「芭蕉雑記」という随筆で、芭蕉の以下の句を紹介している。
この芭蕉の句の紹介文に芥川は「鬼趣」というタイトルをつけている。
その芭蕉の句は以下の二句である。

先ず『骸骨の画(え)に』と芭蕉自身の前記が添えられていて、
「夕風や盆桃灯(ぼんぢょうちん)も糊(のり)ばなれ」
また次の句も芭蕉自身の前書きが添えられていて、
    『本間主馬(しゅめ)が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて
    能する所を画(えが)きて、壁に掛けたり(以下略)』
「稲妻(いなずま)やかほのところが薄(すすき)の穂」         」
***
芥河龍之介という人は、いくつかの彼の小説 (例えば「黒衣聖母」のような) 小説の『その中に漂ふ不気味さ』を嗜好した人でもある。事実、彼の作った俳句には以下のようなものがある。

「怪しさや夕まぐれ来る菊人形」 (我鬼)
「黒塚や人の毛を編む雪帽子」  (我鬼)
***
私にとって芥川龍之介の作品の魅力の一つは此のような鬼趣にある。
と同時に、以下の句のような、ある種の特異な謙虚さを彼に感じるからでもある。
この句には「自嘲」と前書きがある。

「水涕(みづぱな)や鼻の先だけ暮れ残る」 (我鬼)


芥川龍之介の随筆に『点心』という面白い作品がある。この随筆の最後に、池西言水という江戸前期の俳人の俳句が紹介されている。芥川龍之介は、この俳人を以下のように評している。

『(前略) 言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人が知らぬ一種の鬼気を盛り込んだ手際にあると思ふ。子規が挙げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂ふ不気味さである。(後略)』。

子規が挙げた二句というのは以下の句である。
「姨(をば)捨てん湯婆(たんぽ)に燗(かん)せ星月夜」
「黒塚や局女(つぼねをんな)のわく火鉢」

芥川龍之介は此の二句に次いで以下の池西言水の句を紹介している。
「御忌(ぎょき)の鐘皿割る罪や暁(あけ)の雲」
「つま猫の胸の火や行く潦(にはたづみ)」
「夜桜に怪しやひとり須磨の蜑(あま)」
「蚊柱(かばしら)の礎(いしずえ)となる捨子(すてご)かな」
「人魂(ひとだま)は消えて梢(こずえ)の灯籠(とうろ)かな」
「あさましや虫なく中に尼ひとり」
「火の影や人にて凄き網代守(あじろもり)」

このような句の不気味さを知るには、その句に書かれた文字の意味を解さなければできないだろう。関心のある方は然るべき本で調べるとよい。
その文字を解すれば、なるほど『その中に漂ふ不気味さ』を、我々は背中に冷たい手を当てられたように感取できるだろう。

しかし、たとえ、それらの文字の意味を知らなくても、これらの句に漂う或る種の気味悪さは語感から、我々は、うすうす感じ取れるはずである。
***
芥川龍之介は又「芭蕉雑記」という随筆で、芭蕉の以下の句を紹介している
この芭蕉の句の紹介文に芥川は「鬼趣」というタイトルをつけている。
その芭蕉の句は以下の二句である。

先ず『骸骨の画(え)に』と芭蕉自身の前記が添えられていて、
「夕風や盆桃灯(ぼんぢょうちん)も糊(のり)ばなれ」
また次の句も芭蕉自身の前書きが添えられていて、
    『本間主馬(しゅめ)が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて
    能する所を画(えが)きて、壁に掛けたり(以下略)』
 「稲妻(いなずま)やかほのところが薄(すすき)の穂」         」
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芥河龍之介という人は、いくつかの彼の小説 (例えば「黒衣聖母」にような) 小説の『その中に漂ふ不気味さ』を嗜好した人でもある。事実、彼の作った俳句には以下のようなものがある。

「怪しさや夕まぐれ来る菊人形」 (我鬼)
「黒塚や人の毛を編む雪帽子」  (我鬼)
***
私にとって芥川龍之介の作品の魅力の一つは此のような鬼趣にある。
と同時に、以下の句のような、ある種の特異な謙虚さを彼に感じるからでもある。
この句には「自嘲」と前書きがある。

「水涕(みづぱな)や鼻の先だけ暮れ残る」 (我鬼)