お友だちの日記に、お葬式のことについてふれられていた。
質素だが清清しいお葬式だったようで、参列したひとの目にも気持ちの良いものだったらしい。
昨今、お葬式も多少なりとも形態に変化は見られるが、相変わらず値段などあってないようなものであり、華美で無駄なものが非常に多いと思う。
一昨年の秋、舅のお葬式をだしたわけだが、夫の両親は生前から
「多くのものはお前たちに残してやれないけれど、自分のお葬式代くらいは残しておくからな。」と葬祭場の積み立てのようなものをしていた。
「あんなものは派手にしても業者を喜ばせるだけやから、最低限でええねんで。」というのも口癖だった。
だが、いざお葬式をだすとなると、その言いつけどおりにはいかなくなる。
残された姑の友人が、舅の勤めていた会社の関係者が、ご近所のひとが大勢くるから、あまり質素なお式も舅がかわいそうだ、と姑が言い出した。
業者も心得たもので
「まぁ、一番お安いのは市民葬ですが、ごらんの通りこちらとこちらではあまりにも見た目に差がありすぎますからね。故人さんのお立場を思えば、およしになったほうが良いのではありませんか。一般的には皆さん、これくらいのクラスのお式をご利用になられますが・・・。」と言葉巧みにお寿司でいうところの「竹」クラスをすすめてくる。
この「一般的」、「人並み」という言葉が曲者だ。
結局、アドバイザーのおすすめどおりの「人並み」の葬儀をだした。
部屋も広く、祭壇も豪華で姑は満足そうだった。
「きっとお父さんも喜んではるわ。あんまり質素やったら可哀想やもんね。」と言っていた。
確かに、「質素」というのも人によって物差しが違うので舅が望んでいた「質素」というのがどれくらいのものであったのかはわからない。
私の同僚の切詰節子さんは、そのあだ名の通り相当な節約家である。
だがご主人のお葬式を出したとき、やはり「人並み」にこだわってそれ相当のお葬式をだしていた。そのときにかかった経費の一つ一つを細かくチェックして、
「控え室に食事を頼んだら高いから、近くのコンビニでおにぎりを買ってきたし、お茶もなるべく飲まないようにした。」とまでの細かさなのに、お葬式は派手だった。
普段、ひとのことで悪口や、差別的なことなどほとんど口にしない彼女が後日言ったのは
「この前のKさん(節子さんの友人)のご主人のお葬式は、すっごく地味だったわ。名前の通った会社にお勤めの現役やったのに、あんな質素なお葬式だと亡くなっただんなさんも浮かばれないやろうな・・」とぼそっとつぶやいた。
私はお葬式が質素だとか派手だとかはあまり気にならない方なので、よそのお葬式に参列してもそういうことは細かくチェックはしないが、気にする人はするんだな、と改めてひとの物差しの違いを知った。
だが、そう考えるとお葬式というその形態そのものは、故人のためというより残されたひとのためのものであるような気がする。
この最近、私の友人経由で友人がネットで知り合ったひとが亡くなり、そのお葬式に参列した同じネット友だちのひとの日記を読んだ。
その亡くなった人は、まだ若くて子どもさんもまだ少年の域を出ていない。
病気と闘い、亡くなる直前まで日記をアップし、皆の書き込みに返事を書いていた凄いひとだった。
私はずっと読んでいたわけではなかったので詳しくは知らないが、末期を宣告された病と闘いながらなのに、その日記には常に明るい光が満ちていたようだ。
同じ病と闘う人たちの強い心の支えであり続けたことは間違いない。
そのひとのお葬式では、そうしたネット上で交流を続けていた人たちも多数列席し、家族の方たちとともに笑顔でそのひとの在りし日を語り合ったのだそうだ。
お葬式というセレモニーについては色々と思うことはあるが、故人を偲ぶことがなによりのはなむけだということを改めて思う。
質素だが清清しいお葬式だったようで、参列したひとの目にも気持ちの良いものだったらしい。
昨今、お葬式も多少なりとも形態に変化は見られるが、相変わらず値段などあってないようなものであり、華美で無駄なものが非常に多いと思う。
一昨年の秋、舅のお葬式をだしたわけだが、夫の両親は生前から
「多くのものはお前たちに残してやれないけれど、自分のお葬式代くらいは残しておくからな。」と葬祭場の積み立てのようなものをしていた。
「あんなものは派手にしても業者を喜ばせるだけやから、最低限でええねんで。」というのも口癖だった。
だが、いざお葬式をだすとなると、その言いつけどおりにはいかなくなる。
残された姑の友人が、舅の勤めていた会社の関係者が、ご近所のひとが大勢くるから、あまり質素なお式も舅がかわいそうだ、と姑が言い出した。
業者も心得たもので
「まぁ、一番お安いのは市民葬ですが、ごらんの通りこちらとこちらではあまりにも見た目に差がありすぎますからね。故人さんのお立場を思えば、およしになったほうが良いのではありませんか。一般的には皆さん、これくらいのクラスのお式をご利用になられますが・・・。」と言葉巧みにお寿司でいうところの「竹」クラスをすすめてくる。
この「一般的」、「人並み」という言葉が曲者だ。
結局、アドバイザーのおすすめどおりの「人並み」の葬儀をだした。
部屋も広く、祭壇も豪華で姑は満足そうだった。
「きっとお父さんも喜んではるわ。あんまり質素やったら可哀想やもんね。」と言っていた。
確かに、「質素」というのも人によって物差しが違うので舅が望んでいた「質素」というのがどれくらいのものであったのかはわからない。
私の同僚の切詰節子さんは、そのあだ名の通り相当な節約家である。
だがご主人のお葬式を出したとき、やはり「人並み」にこだわってそれ相当のお葬式をだしていた。そのときにかかった経費の一つ一つを細かくチェックして、
「控え室に食事を頼んだら高いから、近くのコンビニでおにぎりを買ってきたし、お茶もなるべく飲まないようにした。」とまでの細かさなのに、お葬式は派手だった。
普段、ひとのことで悪口や、差別的なことなどほとんど口にしない彼女が後日言ったのは
「この前のKさん(節子さんの友人)のご主人のお葬式は、すっごく地味だったわ。名前の通った会社にお勤めの現役やったのに、あんな質素なお葬式だと亡くなっただんなさんも浮かばれないやろうな・・」とぼそっとつぶやいた。
私はお葬式が質素だとか派手だとかはあまり気にならない方なので、よそのお葬式に参列してもそういうことは細かくチェックはしないが、気にする人はするんだな、と改めてひとの物差しの違いを知った。
だが、そう考えるとお葬式というその形態そのものは、故人のためというより残されたひとのためのものであるような気がする。
この最近、私の友人経由で友人がネットで知り合ったひとが亡くなり、そのお葬式に参列した同じネット友だちのひとの日記を読んだ。
その亡くなった人は、まだ若くて子どもさんもまだ少年の域を出ていない。
病気と闘い、亡くなる直前まで日記をアップし、皆の書き込みに返事を書いていた凄いひとだった。
私はずっと読んでいたわけではなかったので詳しくは知らないが、末期を宣告された病と闘いながらなのに、その日記には常に明るい光が満ちていたようだ。
同じ病と闘う人たちの強い心の支えであり続けたことは間違いない。
そのひとのお葬式では、そうしたネット上で交流を続けていた人たちも多数列席し、家族の方たちとともに笑顔でそのひとの在りし日を語り合ったのだそうだ。
お葬式というセレモニーについては色々と思うことはあるが、故人を偲ぶことがなによりのはなむけだということを改めて思う。
うちの父なんかも、きっとゆぱかあさんのお父様と同じように納得しないと思います。
だけどお葬式なんて、ほんとに残された者のためのものだと思うのです。
亡くなったひとを思い、決別するための。
そこに義理で参加してくれるひとは必要ないと思うんですよね。
ゆぱかあさんのご家族が出されたお葬式はそういう意味で、本当のお葬式だったのではないかしら?
うちの舅のお葬式で一番印象的だったのは、義父が生前良くしてあげていた新聞屋のおじさんが、知らせても無かったのに、お通夜の席に駆けつけてくださって男泣きに泣いて義父の死を悼んでくれたことです。
「ほんまになぁ、ご主人はええひとやったなぁ。」って。
ひとしきり泣いて
「わしは十分にお別れさせてもらいましたから、明日の告別式は失礼させていただきます。」ってさっぱりと立ち去って行ったのは、なんかかえってじーんときました。
残された者のため・・・って私も同感だけど、
残された者だって、ちょっとこれは抵抗あるよ!って
儀式もあったな。総毛立つような。
あとさ、この前は、告別式のお経のすぐあとのそのまま四十九日の法要が行われてさ。
親しい人は帰っちゃって、
出棺の時には身内しかいないのよ。
それって、本当に残された人の都合でしかないよなあ、って思ったわ。
ま、話題が話題だったのでお名前を出すのもどうかと思い、伏せたのですが。
身の毛のよだつ儀式、ってそれは故人の遺志だったのかな?
故人の遺志をどこまで生かすのか、っていうのも難しい問題だわね。
夫なんてツェッペリンをBGMにしてくれ、と言うし別にしてくれなくてもえーで、というし。
葬祭場のペースで仕切られると、ベルトコンベアー状態で、ほんと気持ちのこもらないお式になったりするわよね。お義理でやってくる他人が大勢参列するからそういうことになってしまうのだろうけど。
まったく、お葬式ってなんなのよ。って言いたくなっちゃう。